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環楽園の殺人  作者: 凛野冥
第一章:環楽園の殺人
17/40

3/6「ヘレニズム神秘思想」

  3/6


 僕らは一旦リビングに戻り、昨日杏味ちゃんの死体を発見した後と同じようにソファーに腰掛け、状況を整理することにした。

「犯人の手際の良さは異常だ」

 有寨さんはそう切り出した。

「俺がリビングに来てから、そして出るまでの時間は精々十五分くらいだった。その間に壁一枚隔てたところであんなことをしてしまうのは、大胆不敵をとうに追い越している」

「……十五分で死体を切断して、かつ引きずり回すなんて可能なんでしょうか」

「さっき一緒に確かめたけれど、切断が行われたのは別の場所らしい。死体の様子を見るに切断からあまり時間は経っていないと分かるが、切断を始めたのは十五分よりもっと前だったんだろう。つまり犯人が十五分間でやらなければならなかったこととは、俺達三人がリビングに這入ったと知って切断したばかりの霧余の死体を二階の踊り場まで運び、そこからロビー全体を散々引きずり回した挙句にあの位置に放置しておくということ……これなら不可能ではないと思うよ」

 僕と有寨さんは〈引きずり回し〉がどのくらいの範囲に渡っているのかを確認するために階段を上がったのだが、それで分かったのは二階の踊り場――我々はどこから来たのか云々という題の絵画の前――が始点であったということだ。さらにそこに残っている血の量を見れば、切断が行われたのがそこではなく、死体はどこか別の場所から運ばれてきたのだとは瞭然だった。

「おそらく犯人は、俺達が十時にリビングに集合と決めていることを知っていた。だから切断を始めるタイミングを見計らうことができたんだ。これは昨日の俺達の話を盗み聞きしていたのでなくても、霧余を殺す前に聞き出せば済むことだけれどね」

「そもそも霧余さんは、どうしてひとりで部屋を出たんでしょうか」

 有寨さんは少し考えた後で「分からない」と首を横に振った。

「少なくとも杏味の死体が見つかった後は、俺と霧余はずっと一緒にいた。その間に犯人から接触があって、事前にどこかに呼び出されていたということはないだろう。なら霧余はなにかに気付いて、俺が眠った後に独断で部屋を出たと考えることができる」

「深夜に犯人が部屋を訪ねてきて、連れ出されたという可能性は?」

 舞游が思い付きを口にすると、有寨さんは表情を険しくした。

「それは考え難いと思うんだ。犯人からしてみれば、部屋の中で俺と霧余が起きているのか眠っているのか、起きているとしたら二人ともなのか片方だけなのか、片方だけならそれがどちらなのか、判断ができない。二人ともを起こしてしまう惧れだって充分にある。いくらマスターキーの合鍵を持っていたってバリケードで扉を開けることは叶わない以上、多少の声を出したり扉を乱暴にノックする必要があるからね」

 第一、と有寨さんは言葉を区切った。

「いずれにしても、霧余が俺に断らずにひとりで行動したというのが腑に落ちないんだ。犯人に強引に連れ出されたにしても、バリケードを解いたのは霧余でなければならない。……これでも、ある程度の信頼は得ていたと思うからね、俺は」

 有寨さんの目に一瞬、憂いの色が浮かんだ。

「……蛇については、どうなの?」

 舞游がさらに問い掛けた。

 そう、今回の被害者は霧余さんだけではない。そのペットの白蛇も奇妙な格好で殺されていたのだ。

「私は昨日霧余さんが蛇を連れてるところを一度も見てないんだけど、もしかして蛇が行方不明になってたなんてことはない? お兄ちゃんに断らずに行動した点には疑問が残るけど、もし霧余さんが蛇を探すために部屋を出たんだとしたら……」

 後半の言葉は方便だろう。しかし、舞游はまだ霧余さん犯人説を捨てていないのだろうか? 当の霧余さんが第二の被害者になってしまったというのに。

「ウロちゃんは昨日、ずっと部屋にいたよ。俺が起きてから寝るまでの間は確かにね」

 呆気ないものだった。これで蛇を利用して密室をつくったという僕の案は否定されてしまったわけだ(僕の方は、霧余さんの死体を見た時点でその線を諦めていたが)。

「それにしても、犯人が〈ウロボロスの蛇〉を残したのはなんのメッセージなのか……。杏味のときは『ナグ・ハマディ写本』、いや、あれは杏味が自分で図書室から持ってきたものだったが、犯人はその中にあるひとつの文章を俺達に示した」

 人はまず死に、それから甦るのだ、という人は間違っている。人は、まず生きているうちに復活をとげなければ、死んだときに何も受けないだろう――と、有寨さんはそらで唱えた。

「両者とも、被害者の持ち物に犯人が手を加えた点で共通してるね」

 舞游がそう云った。

「方や〈グノーシス主義〉、方や〈永遠の象徴〉か……。グノーシス主義に〈ウロボロスの蛇〉は登場しないが……」

 そこで有寨さんが、なにかに気が付いたように顔を上に向けた。

「そうか、永遠……アイオーンだ」

「なんですか、アイオーンって」

「アイオーンとは本来〈時代〉や〈世代〉を意味するギリシア語の単語だが、〈永遠〉を指すこともある。これはグノーシス主義が母体としたプラトンの考え方やギリシア神話が元であり、そこからも必然的と云えるんだけれど、キリスト教グノーシス主義のウァレンティノス派においてもアイオーンという言葉は登場し、それに加えて、さらに重要な役割を担っているんだ」

 ウァレンティノス派……グノーシス主義の代表的なもので、杏味ちゃんが興味を示していたのも、犯人が指し示したのもその一派の教義……だったか。

「グノーシス主義が信奉しているのは至高神と、至高神の圏域(けんいき)であるプレーローマだとは話したよね。グノーシス主義は、そのプレーローマに戻ることこそが人間の最終的な救いであると考えているんだ。アイオーンはそのプレーローマを形成する神的存在だよ」

 有寨さんが本格的に説明を開始したのを察して、僕は居住まいを正した。

「ウァレンティノス派の考えというのは、主にプトレマイオスの理論によって成り立っている。それを紹介しないことには始まらないから、どうか聞いてくれ。

 まず至高神の自己分化によって流出した神的存在が対を成し、さらに分化して複数のアイオーンが生まれ、充満世界――プレーローマが形成された。

 そんなアイオーン達には、『至高神を知ってはならない』という決まりがあった。至高神とは〈原父〉であるプロパトールだが、彼を認識していいのは〈叡智〉であるヌースだけだったんだ。

 しかしあるとき、最下位のアイオーンであるソフィアが好奇心から至高神を直截(ちょくせつ)に知ろうと企てた。でもこれは失敗に終わり、許されざる行いをしたソフィアはプレーローマから転落しかかるが、ホロスがこれを食い止め、さらにソフィアが〈情念〉をプレーローマの外に捨てることで転落は回避された。

 と……ここが重要なんだけれど……このときにソフィアの〈情念〉を哀れに思ったキリストが、〈情念〉に形を与えたんだ。造物神とこの世界の起源というのが、まさにこれだったんだよ。

 よってこの世界、それから俺達人間には、至高神の圏域――プレーローマに帰属する要素が含まれることになった。だから人間にとっての救済とはプレーローマに戻ることであり、そこには〈人間の真実〉があるとされる」

「ヘレニズム神秘思想的だね」

 舞游の言葉に有寨さんは頷いた。もちろん僕はそんな言葉は生まれてこの方聞いたことがなかったので、舞游に「なんだそれ」と訊ねる。

「ナイル川河口のアレクサンドリアで発生したとされる思想だよ。人間が神を認識するのは不可能……よって神自らが人間に示すしかないって内容。多くの宗教は最終的な救いにおいて神からの〈啓示〉を必要とするでしょ? 人間だけの力で完全に神を見出せるなんて、神が絶大な存在であるにしてはちょっとおかしいから、その辻褄(つじつま)合わせをしたんだって捉えておけばいいよ」

 僕はなるほどと思ったけれど、有寨さんは「舞游は雑だね……」と少し辟易(へきえき)した様子だった。

「ちなみにヘレニズム神秘思想を根幹に据えてるのは、お兄ちゃんがいま紹介したみたいな神話だけに限ったことじゃないよ。〈好奇心〉が悲劇を招いて〈啓示〉が救いをもたらすって筋は、プラトン哲学者であるアプレイウスが書いた『黄金のろば』もそうだったし、有名なところではゲーテの『ファウスト』も同種と見なせて……」

 舞游がいつもの癖で薀蓄を並べて止まらなくなりそうなので、僕は「そこまで」とストップをかけた。

 有寨さんは一度咳払いしてから、脱線しかかっていた話を本筋に戻す。

「いまのがソフィア神話だ。グノーシス主義の元であるギリシア神話でもアイオーンは〈永遠〉を象徴する神とされていた。それにプレーローマというのは超永遠世界という意味も持っている。……犯人は今回〈ウロボロスの蛇〉によって〈永遠〉を表し、杏味のときにも〈グノーシス主義〉によってやはり〈永遠〉を表していたんじゃないかな。つまり犯人が残したメッセージは一貫している」

 だいたいは理解できたが、正直、僕はそんなことはあまり重要ではないと感じていた。犯人がなにを訴えたがっているかなんて、知ったことではない。狂人の考えを推し量ろうとするよりも、もっと現実的な事象の数々について検討した方が良いのではないだろうか。

 舞游は「うーん」と唸った後に「でもさ、お兄ちゃん」と有寨さんに反論を始めた。

「ちょっと強引すぎると思う。『ナグ・ハマディ写本』を強調しただけでアイオーンを暗示するっていうのは、ウロちゃんの死骸をそのまま〈ウロボロスの蛇〉に見立てたのに比べて、あまりに遠回しじゃない? 鍵で傷付けて傍線を引いた文章も〈肉体の蔑視〉に言及したところだったしさ」

「ありがとう、舞游」

 有寨さんは突然礼を述べると、ソファーから立ち上がった。

「え、なにが?」

 舞游も僕も少し面食らってしまった。

「舞游の指摘のおかげで、いまようやく分かったよ。金庫の暗証番号がね」

「本当ですか!」

 有寨さんは自信があるらしく、しっかりと首肯した。……でもどうしてこのタイミングで暗証番号が? 舞游の指摘はそれとは全然関係ないものだったと思うのだが……。

「早速、確かめに行こう。ついて来てくれ」

 歩き始める有寨さんに、僕と舞游はまだ困惑したまま続く。

「お兄ちゃん、それで暗証番号はなんなの?」

「オグドアスだよ」

 有寨さんはまた新たな用語を口にしつつ、扉を開けてロビーに出る。霧余さんが辿った血と臓物と肉片の道を踏まないように注意しながら、僕らは階段を迂回していく。

「アイオーンは全部で三十いる。それは男女十五対を意味しているんだ。と云うのも、アイオーンはプレーローマにおいて、男性アイオーンと女性アイオーンが対になって〈両性具有〉の状態を実現しているんだよ。オグドアスとはギリシア語で〈八つのもの〉の意で、プレーローマの最深部にいるとされる八のアイオーンを指す。つまり男女四対だ。プロパトールとエンノイア、ヌースとアレーテイア、ロゴスとゾーエー、アントローポスとエクレーシア。プレーローマと云うときも、この男女四対八個組のいる最奥の領域のみを指すのが主だし、オグドアスこそがアイオーンの代表とされるのは意見を()たないところだ」

 説明しているうちに有寨さんは階段を上り終え、突き当たりを左に曲がる。

「かの有名な精神医学者カール・グスタフ・ユングはグノーシス主義の研究者でもあったんだが、彼もプラトン同様に人間の完全性を精神的な両性具有性の実現にあると考え、さらには〈四〉という数字が神聖数であるとも述べた。続けて、だからオグドアスは両性具有の実現に加えて〈四対〉のアイオーンが構成する完全な充満世界であるとも」

 杏味ちゃんの部屋の前に辿り着き、有寨さんは扉を開けた。悪臭は昨日の比ではないくらいに酷くなっており、僕は早くも気分が悪くなった。

「我慢するしかない。杏味にも可哀想だしね」

 有寨さんは躊躇なく中へと進んでいく。僕と舞游は鼻をつまみ(いくら杏味ちゃんに失礼でもこれは仕方がない)、さらに杏味ちゃんの死体が直接視界に入らないように注意しながらその後に続く。

 ベッドの横、その足元に壁に埋まるかたちで備え付けられている金庫の前に有寨さんはしゃがむと、番号の部分を指で動かし始めた。

「この暗証番号は、犯人が杏味を脅して変えさせたものだろう。犯人が現場に残したのは『ナグ・ハマディ写本』だけじゃなく、この暗証番号もそうだったんだ。その数字は永遠の象徴であるアイオーンが形成する超永遠世界――プレーローマを指し示すに等しい、オグドアスそのもの……」

 有寨さんは暗証番号を完成させた。

 2222。

 四対八個組。まさにオグドアスによるプレーローマ……。

 有寨さんが取っ手に指を掛けて手前に引くと、扉はガチャッと音を立てて開いた。

「これで決まりだ。犯人が示したものとは杏味のときは〈プレーローマ〉、霧余のときは〈ウロボロスの蛇〉――すなわち〈永遠〉」

 金庫の扉が開け放たれる。

 その中に入っていたのはこの屋敷の玄関の鍵がひとつと、粉々に破壊された携帯電話が五つだった。

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