2/7「狂気と理性が溶け合う」
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浴場を出ると、舞游と霧余さんは無事に僕らを待っていた。この見通しのきく廊下なら、犯人なる人物が姿を現したところで不意打ちで殺されることもないだろうからあまり心配してはいなかったけれど、だからと云って完全に気を抜いていたわけでもない。
舞游はまだ沈んだ様子で、霧余さんも退屈そうに煙草を吸っていた(灰皿も携帯していた)ので、会話は捗っていなかったみたいである。
「そう頻繁に部屋を出入りするのは危険だ。今日は食べ物を持ってこのまま引き上げたら、籠城することにしよう。お互いなにか用事ができたら相手の部屋まで行けばいいが、特別ない限りは……うん、次に顔を合わせるのは明日の朝でどうだろう? 時刻は十時、場所はリビングで」
有寨さんの提案は相変わらず的確で、誰も異議を唱えるはずもなく、それで決定した。食糧保管室からパンや缶詰、フルーツや飲み物を回収した僕らは、二階の踊り場で少し早めの「おやすみ」を云い合い、また二組に別れた。
僕らが使用する三階の東側にある客室に這入り、また安全の確認と施錠とバリケードの構築を済ませ、やっと落ち着く。いまはまだ平気だが、これが四、五日も続けばノイローゼ気味になるのは避けられないだろう。
僕と舞游はまた先程と同じくソファーとベッドにそれぞれ腰掛け、互いに黙り込んでしまった。なにか話を振ろうとは思うのだが、いまはそっとしておいた方が賢明じゃないだろうか等と逡巡してしまい、結局実行には移されない。
そのまま二時間程度が経過した。さすがに二人とも一言も発さなかったわけではないけれど、会話らしい会話と云えば「お腹空かないか?」「うん」「パン食べるけど、いるか?」「いらないかな」「林檎剥いたけど、ひと切れくらい食べたらどうだ?」「じゃあ、ひと切れだけ」という素っ気ないものばかりだった。
ただ、僕はひたすら時間を無為に過ごしていたのではない。僕は僕で、事件についてあれこれ考えを巡らせてみた。犯人の目的、これから僕らにも危害が加えられる可能性、密室殺人を装った意図、今朝にピアノを弾いて聞かせた理由、杏味ちゃんが興味を抱いていたグノーシス主義に犯人もまたいくらかの拘りを見せているらしい所以、僕らが今後すべきこと……しかし、目ぼしい発見や発想は生まれなかった。ではやはり無為に過ごしていたと同じか……。
もっとも、自己弁護したいのではないけれど――仕方がないんじゃないだろうか。この犯人の行動は、明確な論理で紐解けるとは思えない支離滅裂なそれだ。どれかひとつについて考えていくと、他との整合性がどんどん取れなくなっていく。考えれば考えるほどに深みに嵌っていってしまう。あちらを立てればこちらが立たぬの、泥沼みたいな奇怪さを持っている。これがすべて犯人の術策であるなら、有寨さんや霧余さんはともかく、僕なんかでは太刀打ちできないのも無理はない。
だがしかし、だからこそ、僕がある程度の理性を保てているというのも、もしかしたらあるのかも知れなかった。
と云うのも、この犯人が狂っているのは間違いないけれど、単に狂っているだけでなく、なにか信条めいたものがあって、その行動にもある種の冷静さが根底に漂っているふうに感じられるのだ。死体を縦に二等分するという、どこか神経質そうな行動然り。グノーシス主義なんてものを要素として強調するという、衒学的な装い然り。密室を演出するという、知的遊戯を好む嗜好が窺える点然り。……それらは、この犯人が完全に理性を失っているのではないことを思わせる。
だから、ただ支離滅裂なだけではないはずだ。こちらが正しいかたちでピースを嵌めていけさえすれば、絵は完成する。論理で紐解けるとは思えなくても、なんらかの難解な指向性さえ掴めれば、一定の整合性の下に真相は現れる。
そんな予感。それが僕達のことも、同じく理性的であるように仕向けている。
……考えすぎだろうか。
「舞游、僕はそろそろ眠ろうと思うけど、電気消していいか?」
時刻はまだ九時にもなっていないが、気力を大量に消費させられたので、もう休みたかった。慣れない思索をして頭も重くなってきたので、今日のところはここまでとし、頭をすっきりさせて明日以降に臨みたい。
「うん」
舞游も起きてはいるものの、先程からベッドの上で横向きに寝転がっている。
「ベッドは舞游が使っていいよ。僕はソファーで寝るから。……じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
僕は部屋の片隅に置かれたランプの微かな明かりだけを残して消灯し、出入り口の方へ向かう。この部屋でベッド代わりに使い得るソファーは一番大きな三人掛けのものなのだが、それはいま、欠かせない一部としてバリケードに使われているからだ。
周囲にはテーブルや椅子もいくつか積んであるために多少窮屈な寝床だけれど、出入り口を塞いでいるという実感が得られるのは安心できる材料とも云える。
僕は大きめのクッションを枕にし、膝を折るかたちでソファーに寝た。
目を閉じる。
……どうして人は目を閉じると、かえって別のものが見えたりするのだろうか。
屋敷を揺さぶる風の音……。
それから、すっかり網膜に焼き付いてしまった杏味ちゃんの死体の映像……。
人形のように美しかった少女が……頭頂部から股にかけて切断され……ぐちゃぐちゃに崩れ……赤黒い血にまみれ……肌は紫色に変色し……あんな醜い姿に……。
いざ眠ろうとすると次から次に浮かんでくる恐ろしいビジョンを必死で振り払いながら、僕は眠れ眠れと一心に念じた。