2/6「獣の数字を説くがよい」
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「こんなものでも、ないよりはマシだろうと思う。……護身用だよ」
有寨さんは調理室から肉切り包丁を二丁持ってくると、その一丁を僕に渡した。刃は剥き出しだ。まな板を前にしているでもないのにこんなものを持っているのはいかにも物騒だが、しかし物騒と云うならいま以上に物騒な状況もないのだから、このくらいが適切なのかも知れない。
「一時でもひとりになるのはまずい。ここからは二人一組……俺と霧余、舞游と觜也くんで行動することにしよう。舞游が觜也くんに割り当てられた客室を共に使うと良い。錠をかけるのを絶対に忘れないように。そして犯人がマスターキーの合鍵をつくっている可能性がある以上、入口にはソファーや机を使ってバリケードを築くべきだ。扉が内開きなのは幸いだったね」
四人でずっと此処に固まっていた方が安全なのではと思ったが、実際問題、今後ずっとそうしているわけにもいかないだろう。それは理由をあげつらうまでもなく、感覚的に共通認識となっていた。
「このマスターキーは当面俺が所持していようと思うが、觜也くん達が欲しいと云うなら、それでもいいよ。どうする?」
「僕は有寨さんが持つことでいいと思います。犯人が合鍵を持ってるなら、マスターキーに大した意味もなさそうですし……」
「私もそれでいいよ」
「決まりだね。……くれぐれも用心するように。もし犯人の姿を見るようなことがあれば、大声で叫ぶんだ。犯人はきっとひとり……決まったわけではないが、それでも俺達の方が多勢だろう。屋敷から逃げることも叶わない現状では、そう大胆な行動には出ないと思われる」
「ええ、しばらくは様子見してるでしょうね。ふふ、この会話だってどこかで聞いてるかも知れないわ」
霧余さんがまた怖い軽口を云う。この人は怖くないのだろうか……たぶん、怖くないのだろう。そうやって無理矢理に恐怖心に抗おうとしている様子でもない。彼女は本当にこの〈環楽園の殺人〉に楽しみを見出しているのだ。
「どうかしら、四人で犯人を探し出してしまう手もあると思うけれど」
「き、霧余さん……それは危険じゃないですか?」
いたずらに犯人を刺激すべきではないと思う。
「觜也くんの云うとおりだ。だが……いや、いまは各自、頭を冷やした方が良いだろう。俺達も犯人も、どうせ当分は逃げられないんだ。ただ、ずっと膠着状態を続けていられる保証がないのも、また事実だね。これが連続殺人事件になる可能性は、決して無視できない」
これは軽口ではなく、真実味たっぷりの危惧であった。
「その場合、犯人は杏味ちゃんを殺すのだけが目的じゃなかったということになるわね。私には本気で殺意を抱かれるほどの恨みを買った憶えはないけれど、さて、どうなのかしら」
「そういうことも、今後ゆっくり考えよう。気楽でも駄目だが、焦りだって同じくらい禁物だ」
ともかく、これから僕達が身を置かなければならないのが、生温いバカンスとは正反対の過酷な生活であるというのは確かだった。
その後、霧余さんが簡単につくった昼食(有寨さんも手伝っていた)を取って、僕達は有寨さんが提案した組み分けで解散した。杏味ちゃんのあんな死体を見たせいで食欲なんてとても湧かなかったけれど、体力はつけておかなければならないと思い、僕は無理矢理、食べ物を胃に入れた。舞游はほとんど残していたが、彼女は嘔吐してしまった後なので無理をしないのが正解だっただろう。
周囲を警戒しながら、肉切り包丁を片手に舞游と三階に上がり、まず舞游の客室に行った。そこで舞游の荷物をすべて回収し、僕の客室へ向かう。これから僕らは同じ部屋でずっと過ごすのである。……普段の舞游だったらそれについて茶化したようなことを云いそうだけれど、いまの彼女にはそんな元気もないらしかった。こんなに意気消沈している彼女を見るのは随分と久しぶりだ。それほどまでにショックだったのだろう。
有寨さんに別れ際、「犯人が部屋に先回りして潜んでいる危険性がある。誰もいないのを確かめるまでは気を抜かないように」と念を押されていたので、僕らは部屋に這入ってからまず室内を隅々までチェックし、その後で扉をしっかりと施錠した。続いて僕はソファーやテーブルを出入り口のところまで運び、バリケードを築く。クローゼットを開けてそこにソファーを引っ掛けるようにするとちょうど〈つっかえ〉の役割を果たし、扉を開けられなくなった。
これで安心だ。
「……大変なことになったな」
「うん」
舞游は空返事をするだけだった。彼女はベッドに腰掛けると、壁の一点をぼーっと見詰める。
気まずい沈黙。いつもは舞游が勝手に喋ってくれるので会話が絶えない僕らだったが、こうして舞游が大人しくなってしまうと、こんなふうになるのか……。
僕は余っていたひとり掛けのソファーを窓際まで運んで、そこに腰掛けた。窓の外は相変わらずの猛吹雪で、クローズド・サークルとはよく云ったものだと改めて思わされた。いまにして思えば、有寨さんがつけたこの屋敷の呼称――環楽園というのも、なんだか暗示的であった。
「觜也はさ、お兄ちゃんが組み分けをした意味を理解してる?」
やがて唐突に、舞游がそんな問いかけをしてきた。
「……ごめん、どういうことか分からないんだけど」
「そっか」
舞游は僕の方を振り向きもせず、こちらに背中を向けたままだった。会話もまたそれきりとなってしまい、再び重苦しい沈黙が部屋を支配した。
僕らは一時間以上そうしていた。扉がノックされたのは、もうじき四時になるというころだった。
「舞游、觜也くん。俺だよ。開けてくれ」
「私もいるわ」
その声にほっとして、僕は「ちょっと待っててください」と云ってからバリケードを崩し、扉を開けた。有寨さんが包丁を手にしていたので一瞬ぎょっとしたが、護身用に携帯しておくと決めたのだったか。
「霧余がシャワーを浴びたいと云ってね、俺が脱衣場で待っていても一緒に入っても良かったんだが、でも觜也くんと舞游ちゃんの場合はそういうわけにもいかないだろう?」
「それとも、もう二人はそのくらい平気な間柄なのかしら?」
悪戯っぽい笑みを浮かべる霧余さんに、僕は「まさか」とすぐに否定する。
「うん、だから浴場を使うときは男二人と女二人に分かれるのが良いと思ったんだ。浴場というのはどうしても無防備になるから、どちらかが入っているときはどちらかが廊下で待っているというかたちにすれば安心と考えたんだが、どうだろう?」
「なるほど、それが良いですね」
僕らは四人で連れ立って、浴場に向かう。やはり四人でいると心強かったが、曲がり角のたび、または柱で陰になっているところがあるたびに警戒はさせられる。
「まだちょっと時間が早いけれど、血のにおいが身体に染み付いてる感じがして堪らなかったのよ」
霧余さんの言葉には大いに頷けた。それに今日は朝から嫌な汗を沢山かかされたので、僕もシャワーを浴びたいと思っていたところだった。
脱衣所と浴室の中を四人で検めて危険がないのを確認した後に、レディファーストということで霧余さんと舞游が先と決まり、僕と有寨さんは廊下に出た。
「杏味がグノーシス主義に興味を抱いていたとは意外だった」
有寨さんは壁に凭れて腕を組んでいる。
「暗証番号を設定したのは杏味だ。そこで〈獣の数字〉……悪魔や反キリストを指すと捉えられることもある『666』を連想して0666や6660、6666等を試してみたんだが、駄目だったね。反キリスト出現の年と解釈される1666も不発だった。……まあどれもグノーシス主義とは関わりが薄いし、グノーシス主義の本質は反キリストにも非ずだから期待してなかったが」
有寨さんは現状を打開するために思考を巡らせているのだ。一方の僕は舞游との気まずい沈黙をどうするかなんてことしか考えていなかったので、少し恥ずかしくなってしまった。
「――ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である」
「なんの引用ですか?」
「『ヨハネの黙示録』、十三章十八節だ。杏味殺しはこの世に具現し得るとは思いたくもないくらい壮絶な有様だろう? だから悪魔があんな惨状を創出したとでも妄想したくなる。だがその悪魔こそが人間なんだ」
「悪魔……ですか。有寨さん、犯人はどうやって此処に忍び込んだんでしょう?」
「ん?」
リビングで話し合っていたときから疑問に思っていたことである。
「あらかじめ犯人が此処に来ていたとしても、玄関扉にも窓にも錠がかかっていたはずですよね……いえ、玄関扉の合鍵もつくっていたんだろうとは推測できますけど、でも此処まで来る足がなくないですか?」
ガレージにはもちろん、この屋敷に僕らが乗ってきた以外の車はなかった。屋敷は周囲を森で囲まれているが、その木々は密に茂っているし、車を隠せそうなところはない。しかし徒歩で来るのも……不可能ではないかも知れないが……考え難いことだ。
「北館の裏が広く空いているんだよ。そこに車を隠したんじゃないかな」
「ああ、そうなんですか」
屋敷の周りを一周したりはしなかったので、北館の裏については知らなかった。
「うん。あるいは、以前の来客の中に紛れて忍び込んだか」
「以前の来客というと……」
「前もって屋敷の掃除や食料の運び込みをした連中だよ。彼らが来たのは俺らの三日前だったかな。これを雇ったのは巻譲家の人間だし……色々と臭いと思うね。この場合、玄関扉の合鍵をつくっておく必要もない」
「でも動機はどうなるんでしょうね。たとえば巻譲家の資産を狙っているなら……杏味ちゃんを人質に取るなら分かりますけど……殺してしまっては仕方がない。やはり怨恨が絡んだ、巻譲家内部の者の犯行なんでしょうか」
どのみち、僕らは完全に巻き込まれてしまったということになる。
「それは俺達が考えてみたってどうしようもない問題じゃないかな。手掛かりが少なすぎるせいで、いくらでも解釈の余地があるからね。……ところで合鍵の話で思い出したんだが、玄関扉の鍵がどこかにいってしまったんだ」
「えっと……それも杏味ちゃんが持ってたはずですよね?」
「ああ。マスターキーと違って、もうなくたって俺達は特に困らないから真剣に探したのでもないんだが、見当たらないのは事実だ。マスターキーの方は『ナグ・ハマディ写本』に挟まれていたというのに……これはやはり、密室を強調したかったからなんだろうね」
しかし、密室を強調して犯人にどんなメリットがあるのか……それは依然として不明である。その密室も、合鍵がつくられていたんだろうという味も素っ気もない解決をされてしまったのだし……。
「ああ、いちおう云っておくけれど、マスターキーと見せかけて実はこれが玄関扉の鍵であり、犯人はマスターキーで外から施錠した……という間抜けな展開はないよ」
有寨さんはポケットからマスターキーを取り出すと、〈浴場〉というプレートの貼られている扉の鍵穴にそれを差し込み、ガチャガチャと施錠、開錠して見せた。
「いえ、そんなこと思いつきもしませんでしたよ」
「おや、そうかい」
博識なだけでなく、頭もよく回る人だ。それに加えて冷静沈着な態度と、高いリーダーシップ……有寨さんがいてくれて本当に良かった。彼がいなかったら、杏味ちゃんの死体を前に僕らは正気を保てていたか分からない。杏味ちゃんが彼に心酔していたのも、無理からぬことだと思った。
霧余さんと舞游が廊下に出てきて、入れ替わりで僕と有寨さんが浴場に這入った。
「昨日は聞きそびれてしまったが、觜也くんと舞游はどうやって仲良くなったんだい?」
複数の洗い場が壁伝いに並んでいるなか、僕と間をひとつ空けて風呂椅子に座った有寨さんが、石鹸を泡立てながらそう訊ねてきた。
舞游との馴れ初め……僕はその遥か昔のように思える初々しい往時を思い起こし、少し感傷的な気分になった。
「……どうということも、ありませんでしたよ。人と人が打ち解けるのに、それっぽいエピソードがある方が稀でしょう」
嘘だった。僕と舞游との間には、契機として語れるそれがあった。そうでないと、あの社会不適合の体現者のようだった舞游と、取り立てて変わったところのない僕とが距離を縮めるに至るわけがない。
有寨さんもそれは分かっているに違いなかったが、気を利かせてくれたのだろう、「そうなんだね」と頷いて、それ以上の詮索はしてこなかった。
「ちなみに、俺と霧余が知り合ったのはバイト先でだった」
「家庭教師のバイトですか?」
てっきり大学が同じなのだろうと思っていたが、家庭教師……霧余さんも面倒見の良さそうなタイプではあるけれど、相手が男子高校生や中学生だった場合、彼女はいささか佇まいが扇情的すぎる気がする……。
しかし僕の余計な杞憂をよそに、有寨さんは「違うよ」と否定した。
「居酒屋のバイトだった。上京してからの俺は大学生のうちに時間の許す限り多種多様な経験を積んでおきたいと思ってね、バイトもあちこち手を出していたんだ。もっとも、いまはひとつもやってないんだが」
なるほど、有寨さんの言葉に宿る強い説得力は、知識を蓄えるだけでなく、経験もおろそかにしていないためなのだろう。そんな生き方はあまりに理想的だが、だからこそ決して生半なそれではない……真似しようとしたところで、大抵の人間は挫折を味わうだけになりそうだ。
「それにしても、肝が据わっているね、觜也くんは」
「え、僕ですか?」
「ああ。あんな凄惨な様の死体を見せられて、さらに殺人犯と同じ屋根の下で助けがくるまで過ごさなければならないとなれば、普通はもっと取り乱すものだ」
たしかに目立って取り乱してこそいないけれど、この異常事態に際して僕は全然、手も頭も回っていない。有寨さんや霧余さんと違って振る舞いも愚鈍だと思うのだが……。
「立派なものだよ。俺もその歳のころなら、恐怖で動けなくなっていたことだろう」
「それは謙遜が過ぎるでしょう……」
なぜなら、あと三年経っても僕は有寨さんほど落ち着きを持って物事を見られるようにはならない。
「それに、肝が据わってるっていうのとは、ちょっと違うと思います。……たぶん、危機感に欠けてるんですよ。昔から、その点は幾度か指摘されることがありましたから」
「ああ、そうか。そんな君だから、舞游と打ち解けることができたし、一緒にいることができるんだね」
有寨さんはなにやら一人合点したらしかった。
ただ、この危機感に欠ける云々というのも周りからそう評されるだけで、自覚は全くない……。だから自己分析するに、内心では人並みに動揺したり怯えたりしているのだが、あまり表に出ていないと云うのが正しいのではないだろうか。
なんにせよ、人は往々にして自分自身については正確な認識をできていないに違いない。
認識……グノーシス。
グノーシス主義における救済の条件とは、自分自身の本質を認識すること……だったか。
どうしてグノーシス主義なるものが生まれたのか、その一端がふと垣間見えた気がした。