第27話 思い出・お迎え・オムライス(後編)
中編からの続きです。
☀☀☀
うららが休憩室に足を踏み入れるのは、数日ぶりのことだった。
決して長い期間空けていたわけではない。学会中ならこれくらいのことはよくあった。
だが、うららにとってはずいぶんと久しぶりに思えた。
久しぶりに帰ってこられたな、と。
「それでは始めていきましょう。まずはケチャップライスから」
キッチンに立つと、氷彗は腕をまくった。露わになった白い腕はてきぱきと動き、調理台の上がにぎやかになる。銀に輝く包丁が目にも止まらぬ速さで上下すると、たちまちタマネギが細かく刻まれた。
まな板の奏でるトントントンという音は、単調なのにどこか温かく、落ち着かせる響きを持っていた。
「油を敷いたフライパンに細かく刻んだタマネギとハムを入れて熱します。その後、ケチャップを混ぜ合わせ、馴染んできたらライスを加えていきます」
次々と材料が投入され、熱された油がパチパチと音を立てる。
氷彗はチャーハンを作る要領で、ケチャップとライスを絡めていった。
取っ手を掴む右手がくいっと捻られ、フライパンの中身が宙を舞う。まるでポップコーンみたいだ。二、三度それを繰り返せば、白かったライスは甘酸っぱい香りを漂わせる赤に染まっていた。
「こちらが出来たら、いよいよメインのオムレツ作りです」
「待ってました」
「うららさんのお家では、どんな種類のオムライスでしたか?」
「え? オムライスに種類なんてあるの?」
「フライパンでライスをくるむオムライスと、ライスの上にオムレツを乗せるオムライスです」
「あぁ、確かに。うちのは乗せるタイプだった」
「分かりました。では、そちらで——」
ボウルの縁でひびを入れ、ぱかっと卵を割る。
そこで氷彗は驚いたように眉を持ち上げた。
「こ、これは!」
「……黄身が二つ入ってる? これってすごいの?」
「貴重です! 二黄卵ですよ! 市販のパックでは基本的に除かれてしまいますから、業者の方がミスしないとお目にかかれません。これは幸先がいいです」
「えぇ、ミスしたのに?」
「ミスしたのに、です!」
氷彗と目が合い、しばし沈黙が落ちる。
どちらともなく「ぷっ」と吹き出し、どちらも肩を震わせた。
こんな些細なことなのに、笑いは止まらない。
それはきっと、隣にいるのが氷彗だからに違いなかった。
「空気が入るように泡立て器でよくかき混ぜたら、牛乳を加えていきます」
「お菓子作りみたい……どうして入れるの?」
「オムレツを柔らかく仕上げるためです。黄身と白身を混ぜ合わせた卵は73℃前後で凝固してしまいますが、これではフライパンで炒めるとすぐに固まってしまいます。そこで、凝固温度を上げるために牛乳で卵タンパク質を希釈するんです」
泡立て器とボウルがこすれ、カカカと音が響く。
黄色と白色が解け合うと、見るだけで甘そうなクリーム色に変色した。
「そしてこれが一番大切ですが、焼く前に塩を混ぜて数分待ちます」
「ポーチドエッグと同じだ!」
もう、半年前になるだろうか。
春の終わり、二人でしたお花見の夜を思い出す。
瞼を閉じれば、当時見た光景が鮮明によみがえった。
そう言えば、あの時も同じだったっけ——
うららは氷彗の横顔を盗み見る。
あの時、劣等感に腐っていた自分を助けてくれたのは他でもない氷彗だった。
そして、今回も。
氷彗はいつもうららのことを助けてくれた。
情けなくて恥ずかしい一方、こんなにも思ってもらえるなんて、うれしくてたまらなかった。
「卵白のタンパク質は全体的にマイナスの電荷を帯びているから、互いに反発し合っている。でもそこに塩が加わると解離したイオンが中和してくれて、反発がなくなって固まりやすくなるんだよね」
「その通りです」
「……あれ? でも、ちょっと待って。固まっちゃったらフワフワのオムレツにならなくない?」
そう言えば、今作っている料理はポーチドエッグではない。
違う料理なのに同じテクニックを使っても良いものだろうか。
何気なく口ずさんだ疑問。
それを耳にした氷彗は、ぱぁっと表情を輝かせてグイグイと近づいてきた。
「気になりますか!」
「うん!」
「塩を加えた卵は素早く固まりますが、その仕上がりはトロミがかった柔らかいものになります。塩を加えない卵の場合、タンパク質は反発し合った状態なので、分子運動の激しい高温状態にならないと絡まりません。しかし塩を加えた場合、反発はなくなるのでタンパク質は加熱の早い段階でゆるく絡み合うことができるんです!」
氷彗の語る解説は、ポーチドエッグの時の続きのような内容だった。
卵にはまだまだ深い世界が広がっているみたいだ。
ふむふむと、うららは顎に指を添えた。
「なるほど……つまり塩を加えて卵を熱すると、最後にぎゅっと固まるんじゃなくて、最初から弱く固まるんだ」
準備を終えた卵液がフライパンに流されていく。
熱された黒い大地に、黄色い海が広がった。
「オムレツとは薄皮に包まれたスクランブルエッグです。なので、最初は皮を作ろうとせず、素早く菜箸でかき混ぜます。均一でクリーミーになってきたら、外側を凝固させ内側は半熟になるよう少し置き……ヘラを下に滑り込ませ、全体を閉じます」
フライパンを傾けて形を整えると、フットボールを思わせる紡錘型が完成した。
この特徴的なフォルムは、昔ながらの定番オムレツだ。
「オムレツをケチャップライスの上に乗せ、最後にパセリを散らせば……出来上がりです!!」
「おぉ……美味しそう」
うきうきと声を弾ませ、オムライスをちゃぶ台に運ぶ。
氷彗と向かい合い、手を合わせた。
そして、同じタイミングで唇を動かし、同じ言葉を紡いだ。
「「いただきます!」」
スプーンを握り、ライスと卵が半々になるようにすくう。
それを口の中へ運ぶと、懐かしい味がいっぱいに広がった。
ふわふわでトロトロの卵。
それに絡まるライスとハム。
優しいオムレツの甘味と旨味を、ケチャップの酸味が際立たせ、味わいがさらに上の次元へと昇華している。
「おい……しい~~っ!」
「よかったです。あ、少し味変させませんか?」
「味変? 何かけるの?」
「この時間には禁断の味……チーズです!」
「チーズ!?」
食べてる真っ最中なのに腹の虫が鳴った。
スライスチーズ数枚をレンジで温めて溶かし、オムライスにトッピングする。
さらに彩りが明るくなった器にスプーンをくぐらせる。
溶けたチーズが細い糸を引いて、絹糸のように垂れ下がった。
ぱくりと頬張り、その味に思わず舌鼓を打つ。
「おいひい……半熟オムレツとチーズ、二つのトロトロ触感が口の中で一緒になって、頬が落ちそう」
温かくて優しい、幸せの黄色い料理。
二人仲良く平らげて、食べ始めたときと同じように、二人仲良く手を合わせた。
「「ごちそうさまでした!」」
☀☀☀
食後、片づけを終えた二人はちゃぶ台を囲み、ほうじ茶をすすっていた。
雲一つない夜空には幻想的な満月が浮かんでいて、その風景を絵画のように窓枠が切り取っている。
黄色くて丸いそれは、今日の料理によく似ていた。
「おいしかった~。そのままでも美味しいけど、トッピング一つで全然違う味にもなるんだね」
「はい。チーズ以外にも、ソースをかければお好み焼き風になりますし、甘酢あんをトッピングすれば天津飯風オムライスになりますよ」
「天津飯風かぁ……想像するだけで美味しそう。そっちも一緒に作ってみようかな」
「ほ、ほんとですか! だったら、是非! レシピ、送りますから」
小型犬の尻尾みたいに氷彗はぶんぶんと腕を振った。
その仕草があまりに大げさなものだったから、おかしくてつい口元が緩んでしまう。
いつの間にか心は軽くなっている。
先ほどまでの気まずさが嘘みたいだ。
今こうして笑うことが出来るのは氷彗のおかげに他ならない。
疎遠になっていた母親と、何を話そうかずっと考えていた。
謝りたいこと、怒りたいこと、感謝の言葉……
五年ぶりの近況報告はただでさえ盛りだくさんになりそうだが、それ以外にもう一つ話したいことが増えた。
今、目の前で笑う彼女についてだ。
自分の最高の親友だと、母にたっぷり紹介してあげよう。
「うららさん、どうしたんですか?」
こちらの視線に気付いた氷彗が小首を傾げる。
「もしかして、口元にケチャップ残ってます?」
「ううん。ただ……」
うららは、思っていたことをそのまま口に出した。
「氷彗のこと、家族に紹介したいなぁって」
「…………………………………………ふぇ?」
刹那、氷彗の頬がみるみる赤く染まっていった。
どうしたというのだろう。
アルコールの一滴も飲んでいないというのに。
彼女の熱は収まることなく、やがて茹で蛸のように蒸気を噴き立たせ、くらくらとちゃぶ台に突っ伏してしまった。
うららは慌てて駆け寄ってみるが、氷彗はぐるぐると目を回しており、完全に伸びていた。
「ひ、氷彗!? 大丈夫!? 氷彗ぃぃ————————っ!」
真夜中の研究棟に叫び声がこだまする。
にぎやかな夜食の時間は、どうやらもう少しだけ続きそうだった。
今回はここまでです。
漫画の方もよろしくお願いしますm(__)m
それでは、次回もお楽しみに。




