第25話 ゲーム・現実・あんこう鍋(後編)
前編からの続きです。
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魚屋とコンビニで買い物を済ませ、四人が戻ってきた場所は、再び例の科学実験室だった。
「あの、本当にいいんですか? ここで、料理させてもらうなんて」
不安そうに氷彗が尋ねると、凪はうーんと口に指を添える。
「この子の要望には極力答えてあげるように言われてるから、多分大丈夫だよ。それに、毎週ここでお菓子は作ってるし。鍋に変わっても大差ないでしょ」
何ともざっくりとした回答だ。
「そ、そうでしょうか?」
「というか、どうして科学館の理科室に土鍋とコンロと調理器具一式が揃ってるわけ? そっちの方が気になるんだけど」
「さぁね。まぁ、いいんじゃない。そっちの研究棟だって何故かシステムキッチン備わってるんだし」
「……それもそっか」
「そうでしょうか?」
そもそも、研究棟にキッチンがあることも変ではないだろうか。
そんな風に思っていると、くいくいと裾の方で引っ張られるのを感じた。
「お姉ちゃんお姉ちゃん! アンコウ見せてください」
暮葉は好奇心で瞳をきらきらと輝かせている。
その期待に応え、氷彗はビニール袋の中身を取り出した。
出てきたのは、カードに描かれていたイラストにそっくりの深海魚である。
「おぉ! リアルアンコウ……グロかわいいです」
「グロ……?」
「……かわいい?」
「そうですね、暮葉ちゃん!」
「「あ、そこはそうなんだ……」」
何故かうららと凪は困惑の色を浮かべていた。
アンコウの他にも鍋の具材をテーブルに出すと、氷彗は腕をまくった。
水場が近く作業スペースも広い理科室は、料理するにはうってつけに思える。
「鳥見川さん、私も何か手伝うよ」
「それでは、新庄さんは野菜と焼き豆腐のカットをお願いします」
「了解」
「私も先生手伝います!」
アンコウへの興味はどこへやら。暮葉はぴたりと凪のそばへ寄っていった。
あんな風に気兼ねなくくっつく様を見ると、子供の純粋さが羨ましい。
「それにしても、のっぺりした体……たしか、アンコウって海底に寝そべって、このアンテナで餌をおびき寄せるんだよね?」
「はい。チョウチンアンコウではないので光りませんけど。ちなみにこのアンテナはエスカと言います。普通、魚は餌をとるために海中を上下するので、浮き袋という器官を持っています。しかしアンコウはエスカで餌をおびき寄せ、海中を浮遊する必要がないので、それがないんです」
「へぇ……」
「代わりに、近付いてきた餌を逃さないよう顎周りが発達していて、実に全体の一割の筋肉がここに集中してるんです」
「一割!? ステータスの振り方極端だなぁ」
「だからこそ、この頬肉はぷりっぷりで絶品です」
流れるような手つきで、氷彗はアンコウを捌いていく。
まずは上と下の皮を剥ぎ、次いで歯と眼球を取り除いた。それ以外は、内蔵を含めておいしく食べられるので、傷付けないように注意する。
身と内蔵を切り分けたら、ぬめりを取るために丹念に水洗いをした。
今まな板に並べられたアンコウは、タイなどの白身魚の切り身と大差ない。その外見は強烈だったが、調理用に整えられたら生でもおいしい魚肉である。
「うららさん。さっきコンビニで買った緑茶を出してもらえますか?」
「おっけー。喉乾いた? コップにつぐよ」
「いえ。今からアンコウを緑茶に浸けます」
「浸ける!? 何で!?」
「魚の臭み取りです。魚の臭みはトリメチルアミンオキシド(TMAO)と脂肪酸分解物が反応して生まれる揮発性分子が原因です。緑茶カテキンは、この反応より早くTMAOと反応するので、臭み成分を抑えられると言われています」
緑茶をトレーに注ぎ、そこにアンコウを浸していく。
旨味成分が逃げないよう、浸す時間は数分程度だ。
「野菜と豆腐、切り終えたよ」
「ありがとうございます。あとは、鍋に水に醤油とみりんを加えて加熱し、具材を投入してしばし待ちます」
アンコウの棲む深海の温度はきわめて低い。
長時間高温にさらし続ければ、身は崩れてしまうだろう。
目標温度はコラーゲンがゼラチン化する60℃以上、アクチンが凝固しない70℃以下。
「それでは、そろそろ開けますね」
タイマーがその時を知らせ、鍋のふたを開ける。
湯気とともに現れたのは、ふっくらと熱を帯びたアンコウの身だった。
白菜、ネギ、焼き豆腐も間に挟まり、熱湯の対流で仲良くふつふつ踊っている。
「お、美味しそうです!!」
「では万年ポスドクくん。教授陣の分を取り分けてくれたまえ」
「その呼び方、やめなさーいっ!」
威嚇するもののうららは何も言い返せず、結局「イェス、ボス」と人数分を小皿に盛りつける。
出汁の香りが鼻腔をくすぐると、とたんに食欲がわき起こった。
「それじゃあ、いただきます!」
白菜で白身を包み、ポン酢にくぐらせ口に運ぶ。
歯に触れ合った瞬間、身はホロホロと崩れていき、出汁と一緒に舌いっぱいに広がった。入念に臭み取りをしたおかげでクセもなく、柔らかくて食べやすい。染み込んだ醤油出汁の塩味はアンコウの旨味とマッチして、のどごしは幸せそのものだった。
「おいしいです!」
「これは、初めての食感だね」
「アンコウってこんな噛みごたえなんだ」
周囲の嬉しそうな反応を見て、氷彗は頬をゆるませた。
ネギと焼き豆腐を間に挟んでから、今度は頬肉をそのままぱくり。
こちらは打って変わってぷりっぷりの食感。コラーゲンがたっぷり詰まっていて、お肉のような上品な肉質だ。同じ魚だというのに、部位が異なるだけでここまで変わるものなのか。思わず氷彗は舌鼓を打った。
そして、いよいよメインディッシュ……あん肝だ。
アンコウの栄養貯蔵庫として機能しているこの部位は「海のフォアグラ」とも呼ばれ、海外でも親しまれている。
メダル大のそれを頬張ると、濃厚さが口の中を支配した。
アンコウがかき集めた脂質と旨味、それらがギュッと濃縮されたこの部位は、噛めば噛むほど独特の風味を主張してくる。病みつきになってしまいような味わいだった。
鍋の中身がなくなり、手を合わせようとすると「ちょっと待った!」とうららがストップをかける。
「まだ〆のうどんが残ってますよ、教授」
アンコウの香りが加わった汁に白い麺が投入される。
どうやら、鍋を囲む時間はもう少しだけ長くなりそうだった。
❄❄❄
科学館を後にして、帰り道。
地下鉄を乗り継ぎ、大学最寄りの駅に着く頃には、すっかり夜になっていた。
研究棟へと続く通りに車の往来はほとんどなくなっていて、等間隔に並んだ街灯だけが行き先を照らしている。
「食べた食べた。あー、幸せ。ごちそうさまでした」
「お粗末様です」
「氷彗、帰り研究室寄ってくよね」
「はい」
「じゃあ、このまま一緒に行こっか」
コツコツと二人分の足音が周囲に響く。
オレンジの街灯に照らされたうららはどこか幻想的で怪しげに映った。
吸血鬼のコスプレ、格好良かったな……
ふと、そんなことを思い返す。そして、その姿を一枚も写真に収めていなかったことを思い出して後悔した。
凪が撮っていないか、後で聞いてみよう。
「あ、そう言えば……」
「どうかしましたか?」
「氷彗のお願い事聞いてなかった」
「へ?」
「今日やったゲームの話。勝者は一つ言うことを聞いてもらえるってやつ。氷彗も暮葉ちゃんと同着1位だったでしょ。暮葉ちゃんはアンコウ鍋だったけど、氷彗は何かない? デザートとか?」
「流石にもう胃の容量は限界です」
「だよね。まぁ、食べ物じゃなくてもいいからさ」
大学前の信号に引っかかり、横断歩道の前で立ち止まる。
願い事は何かと問われて、パッと思いつくものはない。
そもそも、氷彗は明確に何かを欲したことは、これまでほとんどなかった。
ただ、今が壊れませんようにと思うばかりで。
「おっと、危ない!」
考え事をしていると、不意に手を引っ張られる。
はっとすると同時に、氷彗の鼻先を猛スピードで車が駆け抜けていった。
けたたましいエンジン音とテールライトの残像。
優に時速100kmは出ていただろう。
「いくらこの街でも、夜間にあのスピードはおかしいでしょ……氷彗、大丈夫?」
「は、はい……」
手を拭って無事を知らせようとしたところで、氷彗は気付いた。うららの右手はこちらの左手を、いまだ守るようにぎゅっと握りしめている。
とっさに掴んだので仕方ないのかもしれないが、指と指が絡まって俗に言う恋人繋ぎになっていた。
キャンパスを吹き抜ける夜風が冷たい。
それとも、こちらの体温が高いだけだろうか。
信号が青に変わる。
同時に、氷彗は口を開いた。
「うららさん。お願い事、今言ってもいいですか?」
「え? うん。 いいけど、何?」
「……もう少し、このまま手を握っていてください。せめて研究室に戻るまで」
自分の口から出た言葉なのに、全身が痒くて仕方ない。
うららは最初けげんそうに首を傾げていたが、やがてにっと白い歯を見せて笑った。
「もちろん。それくらいなら、喜んで」
そんなことを話している内に信号は点滅し、また赤に変わってしまう。十秒程度しか青にならない不便な信号だ。
しかし、このときばかりは氷彗もその不便さに感謝した。
おまけに続きます。




