第21話 秋刀魚・甘露煮・大学祭(後編)
前編からの続きです
☀☀☀
最寄りのスーパーに寄ってから、二人は研究棟へと戻ることにした。
今日は大学祭ということもあって、実験に勤しむ学生の姿は少ない。
うららの指導教官である田宮も、孫と祭りを回っているため研究室はもぬけの殻だった。
休憩室のキッチンに立つと、うららは作業台に買い物袋の中身を広げる。
取り出されたそれは、蛍光灯の光を浴びて眩しい輝きを放っていた。
「うわー! ギンギラだ!」
秋の味覚の代名詞たる魚は、文字通り刀のような銀色である。
新鮮で活きが良いことはうららにも見て取れた。
「チラシに特売の秋刀魚が載っていたので、今日はこれにしようと思っていたんです」
「うんうん、やっぱり秋は秋刀魚だよね」
氷彗はエプロンを身に付けて手を洗うと、腕まくりをした。
「では、早速作っていきましょう。最初に秋刀魚の頭を取って、内臓を抜いていきます」
軽やかな手つきで包丁が踊り、鮮やかに秋刀魚が捌かれていく。
切り開かれた身の色は、マグロのように真っ赤である。
「塩焼きのイメージが強いから、秋刀魚って白身だと思ってたけど、生だと赤いんだね?」
「そうですね。秋刀魚もこの前の焼肉のように、筋肉はミオグロビンを含んでますから」
うららは先日の焼肉パーティーを思い出した。
ミオグロビンとは酸素を蓄えるタンパク質である。
動物が筋肉を動かす際、必要な酸素はここから調達するのだ。
そして、このタンパク質は赤く、そのため筋肉も赤く見えるのである。
「言われてみれば、筋肉を動かすのに酸素が必要なのは牛も魚も同じだもんね…………って、ちょっと待って。じゃあ、白身魚の身はどうして白いの?」
何気なくこぼれた疑問に、氷彗の眉がくわっと大きく開かれた。
彼女の心にスイッチが入った合図だ。
「気になりますか!?」
「うん!」
「赤身魚と白身魚の違い。これは筋肉の種類の違いによるものです!」
「筋肉の、違い?」
「はい、筋肉のタンパク質には二種類あるんです。一つは遅筋繊維。これは持久運動に必要な筋肉で、脂肪を燃やします。この反応には酸素が必要です。だから、この筋肉には酸素を貯めるミオグロビンが含まれていて、そのために赤くなるんです。陸上生物が多く持つのはこちらです」
「もう一つは?」
「速筋繊維です。こちらは瞬発力を発揮する筋肉で、グリコーゲンを燃やします。その反応に酸素は必要ないので、筋肉にミオグロビンがありません。だから、白みを帯びているんです!」
「なるほど……確かに、白身魚って普段は水底でジッとしてるけど、いざ捕まえようとしたら物凄いスピードで逃げちゃうもんね。あれって、使う筋肉が速筋繊維が多いからなんだ」
「その通りです。ちなみに、マグロや秋刀魚は広い海域を移動する回遊魚なので、持久力をつけるために遅筋繊維が多く、そのため身は赤色なんです」
氷彗の説明に、思わず唇からため息が漏れた。
白身と赤身の違いは筋肉の違いに由来して、それが動物の生態にも現れている。
普段、何気なく食べていた肉や魚に分子の世界が繋がり、見える世界も広がっていく。
「……おもしろい」
好奇心の味に酔いしれ、うららは口元を舐めとった。
「内臓を抜いた秋刀魚を水洗いして筒切りにしたら、今度はこれを……」
「煮るんだね」
「フライパンで焼きます」
「何で!?」
予想と180°異なる展開に叫ぶ。
しかし、そんなこちらを尻目に、氷彗は黙々と秋刀魚をフライパンに並べていた。
ジューという音は普段なら食欲を湧き立たせるが、今回に至っては疑問しか浮かんでこない。
たった今からメニューを塩焼きに変えたのだろうか。
それにしても急すぎる。
「甘露煮だから焼いちゃダメでしょ!」
「これはスヤキという処理です」
「す、すきやき?」
もはや塩焼きですらない!?
うららの頭上に、さらにクエスチョンマークが浮かんでいく。
「素のまま焼く、と書いて素焼き。油も調味料も使わないでそのまま焼く下処理です。こうしておくと秋刀魚の水分が減って、筋繊維に隙間ができます。すると、煮る際に調味料が浸透しやすくなるんです」
説明しつつ、氷彗は菜箸でフライパンの中を転がしていく。
熱された秋刀魚からは水分が飛び、表面の輝きは別のものになっていた。
「さらに、皮も硬くなるので身の中の脂が溢れ出るのを抑えてくれます」
「なるほど、おいしさを逃さないためにするんだね」
「それもありますが、脂肪が大量に溢れ出した煮汁は鍋の底にひっつくと…………執拗に取れませんから」
「氷彗、怖い! 顔が怖いよ!」
過去の料理でそういうことがあったのだろうか。
前髪の間から覗く両の眼は、油汚れへの憎悪で禍々しく黒ずんでいた。
それに寒気を覚えたうららは、皿洗いはしっかりしようと思ったのだった。
「最後に砂糖、しょうゆ、みりん酒を圧力鍋に入れて煮立たせます。そこに秋刀魚を追加して加熱すれば、あとは待つだけです」
鍋の取手についたロックをしっかりとかけると、カチッと音がした。
100℃を超えても水蒸気になれない内側では、今ごろ高圧の世界ができあがっていることだろう。
うららは待ち遠しくなって、時計の針を目で追いかけた。
「楽しみだなぁ。私、小さい頃は魚料理が苦手だったんだけど、甘露煮だけは食べられたんだよね」
「どうしてですか?」
「骨が喉に刺さったのがトラウマでさ。でも、甘露煮は骨まで柔らかかったから。あれって何で?」
「それはコラーゲンが溶け出したためですね。骨の結合組織を繋ぐコラーゲンは、甘露煮の弱酸性で加熱すると、ゼラチン化して柔らかくなってしまうんです」
「この前の焼肉と同じ原理だ」
「そうですね。陸上の生物も海中の生物も、調理の際には同じ視点で語れることがたくさんあって楽しいです」
えくぼと白い歯を覗かせ、氷彗がにこりと微笑む。
猫との戯れで見せたゆるゆるの表情も可愛かったが、やっぱりこっちの笑顔には敵わない。
いつの間にかうららの追いかける視線の先は、時計の針から氷彗へと変わっていた。
「それでは、いよいよ開けます」
鍋の圧抜きをすると、勢いよくプシューと蒸気が漏れ出した。
ロックを外し、ゆっくりと蓋に手をかける様は、まるで宝箱を開ける時みたいだ。
「おぉ〜! つやっつやの醤油色! おいしそう」
「仕上げに煮汁を上からたっぷりかけて、きざみ生姜を乗せれば……完成です!」
ピーっと炊飯器の通知音が鳴る。
絶妙のタイミングでご飯も炊け上がったようだ。
盛り付けられた皿をちゃぶ台に運び、二人は向かい合って手を合わせた。
「いただきます!!」
筒切りにされた秋刀魚を一切れ、箸で摘む。
全体を深い飴色にコーティングされた身からは、醤油と砂糖の甘塩っぱい香りが漂ってくる。
それに誘われるまま、うららは秋刀魚にかぶりついた。
素焼きをしたことで身はホロリと解け、程よい噛みごたえが口の中を楽しませる。
骨は存在を忘れてしまうほどに柔らかくなっており、噛めば噛むほど染み渡った煮汁がいっぱいに広がっていった。
「おいしい〜〜!! 煮汁が芯の芯までしっかり染みてるよ。素焼きしたからかな? 皮もしっかりしてるし、下から溢れる脂もたまらない!」
「よかったです。ご飯と一緒にも食べてみてください。とても合うと思います」
「本当!? やるやる」
言われるがまま、ほくほくの白米の上にほぐした甘露煮を乗せる。
口の中へと運んだ瞬間、これこそがベストマッチだとうららは悟った。
ホロリとした秋刀魚を粒立った白米が包み込み、優しい食感が舌の上で踊り出す。ずっと楽しんでいたいくらいだ。
そうして噛み続けていると、お米の甘さが甘露煮と絡み合い、溶け合っていく。
口の中では絶妙なハーモニーが奏でられていた。
「なに、これ……おいひすぎるぅ」
とろけた声が喉の奥から溢れ出した。
さらに生姜を追加すると、いよいよ食欲は止められない。
柔らかな秋刀魚とお米の食感にシャキっとアクセントが走り、ツンと鼻腔が刺激される。
箸を握る手はますます早くなり、気づけば甘露煮もご飯もきれいになくなってしまった。
「ごちそうさまでした〜!」
❄❄❄
「あ~、おいしかった〜」
片付けを終えたうららは、うーんと両腕を天井に伸ばした。
何故か分からないが、今日の彼女の鍋洗いはいつもより数段丁寧であった。
「今日は楽しかったね。学祭回ってご飯食べて……一日中ずっと氷彗と一緒だった」
スラスラと出てくる言葉に、おそらく深い意味は含まれていないのだろう。
それでも、氷彗にとってはこれ以上になく大きいものだった。
「私も、楽しかったです! うららさんに色々、紹介してもらって……それに」
一瞬、息が詰まる。
臆病な自分が、舌を動かすのを躊躇させる。
以前なら、きっとここでごまかしてしまっただろう。
だか、今の氷彗は自分の気持ちを押し潰さないで伝えることができた。
それはきっと、目の前にいる彼女のおかげだ。
「うららさんのこと、いっぱい知れて嬉しかったです」
お化けが怖いこと。
学部に入っていたサークルのこと。
これからもっと仲良くなっていけば、まだまだたくさんの知らないうららを知るだろう。
そこに不安はあるけれど、それ込みで楽しみに思えるくらい、氷彗はこれからに期待を寄せていた。
「そう? 私も氷彗に古巣を紹介できてよかったよ。それに、私と同じで猫派だってことも分かったし」
あの猫たち可愛かったな〜、と今日の出来事をうららが振り返っていると、窓の外が黄色に輝いた。
鮮やかな閃光は一度で終わらず、次いで緑、紫へと移っていく。
「今日は夜も賑やかですね……何かやってるんですか?」
「後夜祭だね。こっちはウチの大学生限定だけど、打ち上げ花火やダンスパーティー、ブラスバンドの演奏会。他にも色々やってるよ」
「へぇ……」
「あと、ここで毎年カップルが乱立するってもっぱらの噂だとか」
「カ、カップル!?」
「面白そうだし、私も混じって来ようかな〜」
「ダメです!!」
反射的に、氷彗はうららの裾を引っ張る。
「へ? どうして?」
「な、なな何でも、です!」
うららは不思議そうに小首を傾げたが、それ以上は追求することはなかった。
代わりにこちらの手を引いて、窓際へと誘っていく。
「はいはい、分かったよ。それじゃあ、この特等席からもう少しだけ、花火見よっか」
「……はい!」
窓をいっぱいに開けると、肌寒い秋風が舞い込んでくる。
見慣れたはずの休憩室からの夜景には光のシャワーが流れ、今日はやけに特別だ。
氷彗はそっと隣を盗み見た。
花火で艶やかに照らされたうららは、まだこちらに気付いていない。
舌の上に残った甘露煮の甘塩っぱさを感じながら――
氷彗は窓のレールに置いた手を、少しだけそちらに近付けた。
今回はここまでです。
次回もお楽しみに。




