第19話 学振・合格・焼肉 P. A. R. T. Y.(後編)
前編の続きです。
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秋の夜が更けていく。
濃紺の空にはバニラアイスのような月が浮かび、その下ではスズムシやコオロギが心地の良い合奏を奏でていた。
「おぉ~、並べてみるとやっぱり圧巻だね!」
買ってきたものを研究棟の休憩室で広げると、うららは興奮気味に鼻息を荒くした。
ちゃぶ台の中央に並べられたのは、選り取り見取りの牛肉だ。
カルビやロース、ハラミ、バラ、ホルモン。
様々な肉がグリルホットプレートを囲み、神聖な儀式でも行われるみたいだった。
「でも……このお肉ちょっと痛んでないかな? 色、紫っぽいよ」
「安心してください。むしろ、この色はお肉が新鮮な証拠なんです」
「そうなの!?」
びっくりしたように、うららの双眸が大きく開かれる。
「はい。うららさん、お肉の色は何によるものか知っていますか?」
「ミオグロビンだよね。血液中のヘモグロビンとよく似た色素タンパク質の」
「正解です。これはヘム色素とも呼ばれていて、本来は赤紫色を示すんです。その表面に空気が晒されると酸素が結合して、オキシミオグロビンになります。鮮やかな赤色のお肉はこの状態なんです」
そう言って氷彗は、ホットプレートのスイッチを入れた。
最初にのせる肉がグリルにへばりつかないようにするための空焼きだ。
「じゃあ、赤色よりも紫色のお肉の方が、お店に並んで間もないってこと?」
「そういうことです」
「ほぇ~。完全に直感を裏切られたよ。いかにも新鮮そうだから赤いお肉がいいのかと思ってた」
うららが感心して大きく息を吐くと、温まった空気がこちらに運ばれてきた。
グリルは、もう十分に熱されていた。
「では、そろそろ焼いていきましょう。何からいきます?」
「最初はやっぱり、定番のタン塩から!」
びしっと手を上げ、うららは勢いよく宣言する。
氷彗はハム状の薄いタン塩を菜箸でつかみ、グリルへと乗せた。
じゅーっという音は、聞くだけで食欲をそそられる。
ピンクの上に振りかけられた塩コショウが肉汁に飲み込まれると、たまらない香りとなって辺りに漂ってきた。
「うはぁ……いい音! いい匂い! これ絶対美味しいよ!」
グリルの間から肉汁が垂れていくと、タン塩がわずかに縮む。
それを見逃さず、即座に氷彗はひっくり返した。
「おぉ! また色が変わったね。綺麗な焼き色!」
「熱でミオグロビンが変性して、メトミオグロビンになったからですね。この状態になると褐色を示します」
そんな説明をしている間に、タン塩のもう片面も熱されていく。
もういいだろう。
念のため裏側を確認すると、氷彗は納得して大きく頷いた。
「うららさん、このタン塩もう大丈夫ですよ」
「本当だ! 両面いい感じに焼けてるね」
うららは焼けたタン塩を皿に取ると、レモン汁の容器に手をかける。
「氷彗はタン塩にレモンかける派? かけない派?」
「かける派です。うららさんは?」
「私もかける派。同じだね」
唇を三日月のように緩ませ、うららはにこりと微笑んだ。
レモンを振りかけたタン塩を箸で挟むと、それをこちらに差し出してくる。
「ということで、はい! あーん」
「えっ!?」
とくん、と脈のリズムが早くなる。
「お肉をおいしく焼いてくれたんだから、一番最初に食べるのは氷彗じゃないと」
「で、でも」
「あ、レモン汁こぼれそう……はやくはやく」
促されるまま、氷彗はぱくりとうららの箸に食いついた。
表面のサクサクとした歯触りを感じると、じゅわっと肉汁が溢れてくる。
主張し過ぎない味わいのタンと下味の塩コショウは相性抜群だ。そこにレモンの酸味がアクセントとなって加わり、爽やかな風味となって口の中を駆け抜けていく。
「どう? おいしい?」
「おいひい、れふ……」
「そっか! じゃあ、私もいただきます!」
うららはもう一枚タン塩を取ると、そのままパクリと口へ運んだ。
今さっき、氷彗が食べた箸で。
間接キス――
そんな言葉が氷彗の脳裏をよぎる。
ぶんぶんと頭を振って、思わず目を伏せた。顔中が熱い。
焼肉で温められた空気のせいだと言い張るには、少しばかり熱すぎだ。
目を伏せて黙々と食べる氷彗とは対照的に、うららは焼肉を存分に堪能していた。
「う~ん、おいしい! 白米をくるんで食べるタン塩、最っっ高! これまで食べてきた組み合わせで一番だよ!」
第一陣のタン塩を食べ終え、次はいよいよ本命のカルビとロースだ。
紅の衣に鮮やかな霜が降られた肉を、牛脂を薄く敷いてからグリルに乗せる。
氷彗はここでも細心の注意で焼き加減を見極め、先にロースからひっくり返す。
「……氷彗、カルビはロースと同じタイミングでひっくり返さないの?」
「カルビはもう少しだけ待ちます。部位ごとに最適な焼き加減がありますから」
「え、焼き方ってどれも違うの? どうして?」
視線を持ち上げると、きらきらと好奇心に輝く瞳がこちらを覗いていた。
その呼びかけで、氷彗は一気にスイッチが入る。
「気になりますか!」
「うん!」
「部位ごとに焼き方を変えるのは、お肉に含まれる筋繊維、結合繊維、脂肪の割合が異なるからです!」
うららはこちらの回答に、小首をかしげた。
「……脂肪は、まぁ何となくわかるけど。他の二つってそんなに違うの? どっちもタンパク質だと思うんだけど」
「そうですが、筋繊維は筋肉を構成するタンパク質、結合繊維は筋肉間や骨と筋肉を繋ぐタンパク質です。前者はミオシンとアクチン、後者はコラーゲンを主成分としています」
「コラーゲン? 化粧とかに入ってるやつ?」
「はい。お肉のコラーゲンは通常、三重螺旋の繊維状になっていて、とても硬いんです。でも、これを60℃以上で加熱すると、その構造がほどけて柔らかくなります。この状態のことをゼラチンと言います」
「ゼラチン!? ゼリーに使われてるやつだ」
「これに対して筋繊維のミオシンとアクチンは、40℃以上に加熱されると変性して硬くなるんです」
氷彗が説明し終えると、うららは自分の中で整理するように話をまとめた。
「なるほど……つまり筋繊維の割合が多い部位はミオシンとアクチンが硬くならないように軽めに焼いて、結合繊維の多い部位はコラーゲンをゼラチン化させるために長く焼くわけだね!」
「そうなんです! だから、あばら骨に近いカルビは少し長めに、赤身の多いロースは短めに焼くとどちらもジューシーになるんです!」
「面白い。焼肉って……奥が深いね」
純真無垢なその言葉は、氷彗の心臓を優しくくすぐった。
自分が面白いと思うものを、同じように面白いと言ってくれる。
共感して、世界を分かち合ってくれる。
それだけで、どうしようもなく氷彗の胸は温かくなっていった。
「それじゃあ、いただきます!」
氷彗は焼きあがった二種類の肉を皿にとりわけると、うららと一緒に手を合わせた。
先に箸をつけたのはロースの方だ。
口に入れた瞬間、柔らかな食感によって味覚が瞬く間に支配された。
あっさりめのタンとは違い、肉本来の味わいが最大限引き立ち、濃厚な旨味とコクが波紋のように広がっていく。
「くぅ~~。白米とキムチ、そしてカルビの三重奏! なんでこんなにおいしいんだろう。間違いなくベストワンの組み合わせだね!」
目の前では、うららの暫定一位がものの十分で更新されていた。
おいしそうに食べるその姿に惹かれ、今度はカルビに手が伸びる。
こちらは骨に近い部分になるほど、歯ごたえのある食感になっていき、その変化が楽しい。
まんべんなく柔らかいロースとは、また違った味わいだ。
確かにこれはご飯が進む。キムチと合わされば、箸を持つ手が止まらない。
そうして、焼肉のおいしさに二人して震えていると……
いつの間にか用意していた肉は全て胃に収まってしまったのだった。
「ごちそうさまでした~」
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「あ~、至福の時間だった」
「改めて、おめでとうございます。今日はありがとうございました」
「お礼を言うのはこっちだよ。付き合ってくれてありがとね。やっぱり焼肉食べると、お祝いしたって気になるな~」
皿洗いを終えてちゃぶ台に突っ伏し余韻に浸っていると、うららははっとして体を起こした。
「どうしたんですか?」
「焼肉の臭い、移ってないかな」
うららはくんくんと犬のように鼻を鳴らして、袖や襟元の匂いを嗅いだ。
「う~ん、自分の香りはよく分かんないや。氷彗はどう? 臭う?」
そう言うと、うららはぐいっとこちらに身を寄せてくる。
氷彗の中で解けていた緊張が、一気に蘇った。
肩口がぶつかるほどに近付かれると、うららの無防備な首筋が目の前に迫る。
なめらかな輪郭に囲まれた白い肌が、艶めかしく網膜を刺激した。
「その…………とっても、安心する香りだと思います」
「ん? そ、そっか? 臭いが残ってないならよかった」
うーん、と伸びをするとうららは立ち上がってこちらに手を差し出す。
「さて。じゃあ、〆にアイスでも買ってこようか」
「もう……いっぱいですよ」
お腹も心も。
最後の言葉は胸にしまい、氷彗は差し出された手を取る。
そして、二人は秋の夜へと踏み出していった。
今回はここまでです。
以前のような週刊連載が厳しい状態ですが、お付き合いいただければ幸いです。
それでは、次回もお楽しみに!




