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EX−l-1l おでん・失恋・昔話(中編)

前編からの続きです。

 塔山のどか。

 桜の研究室に一昨年から勤務している秘書である。


 正確な年齢は分からないが、学部卒で初めての職場がこの研究室ということだった。留年せずストレートに就職したのなら、桜の二つ年上になる。


 年齢が近いとはいえ、話した内容は事務関係がほとんどで、桜にとって職場の同僚という距離感の存在だった。


 それなのに、不思議な感覚だ。


 今、桜はその職場の同僚の部屋にお邪魔し、シャワーを使わせてもらった上に、下着以外の服一式を借りていた。こんな経験は生まれて初めてだ。


 向こうはずぶ濡れで走っていたこちらの事情も聞かず、「風邪ひいたら大変ですから、とりあえず上がってください」と招き入れてくれた。


 借りた服の襟元を整えると、自分が使っている物とは違う洗剤の残り香が、鼻腔をすり抜けていく。それが桜の緊張をさらに煽った。


「塔山さん。シャワー貸してくださって、ありがとうございます」

「いいですよこれくらい。風邪をひいてしまう前でよかったです。それより私の服のサイズ、大きすぎませんでしたか?」


 着替え終えて、扉が開いたままのダイニングに入る。のどかはキッチンに立ち料理をしていた。


 すらっと伸びた背筋が、彼女の鼻歌に合わせてメトロノームみたいに揺れている。湯気に当てられた頬はしっとりと潤んでいて、それが妙に艶めかしく見えた。


 いつの間にか舐めるような視線になっていた桜は、ハッとしてブンブンと頭を振った。


「い、いえ! そんなことは全然! ちゃんとクリーニングしてお返しします」


 のどかは、こちらを見て可笑しそうに笑った。


「あはは。飯塚さん、そんな固くならなくても大丈夫ですって。私、今は勤務時間外のオフモードなんで」


 こちらの緊張を汲んでか、のどかな口調がおどけたものになる。

 桜からしてみれば、こんな妙な状況だというのに落ち着いている方がどうかしていると思うのだが。


「雨強いけど、本当に泊っていかなくていいですか?」

「泊まっ!? ……終電にはまだまだ余裕があるので、大丈夫です!」


 突拍子もない提案に、つい口調が強くなってしまった。


「そっか……まぁ、晩ご飯だけでも食べていってくださいよ。今日は、おでんを作ったんです」


 そう言うと、のどかは鍋の取っ手を掴み、テーブルの鍋敷きの上に置いた。

 中身はたっぷりのだし汁に浸った様々な種もので賑わっている。熱気とともにコンソメ風味のダシの香りが、鼻腔を抜けて食欲を刺激した。


「塔山さんは夕食、自炊されているんですね」


 研究の忙しさにかまけてすっかりインスタント食品に頼っていた桜は、久しぶりに見る手作りの料理に目を奪われた。


「始めたのは今年からです。というのも最近、この先生の料理本にはまっていまして」


 のどかは足早にキッチンに戻ると、一冊の本を取ってきてこちらに見せた。

 表紙に記された著者名をトントンと指で示しているが、有名人だろうか。


 あいにく桜はその名前に心当たりがなく、また見かけない苗字だったので読むことすらできなかった。


「あめ……はれ?」

「あれ? ご存知ありません? 雨晴水星さん。最近、ラジオやテレビで調理解説してる現役の研究者です。この先生の解説がおもしろくて。調理のプロセス一つ一つを、どうしてそうするのか科学的に説明しているんです」


 パラパラとめくられるページには、pHや分子の拡散、タンパク質の変性などが料理にどんな影響を及ぼすのかについて、わかりやすい文章でまとめられていた。


 平易な言葉が使われているものの、取り扱われている知識は高校から研究レベルまで及んでいて、桜も知的好奇心をくすぐられた。


「確かに料理解説本というより、どちらかと言えば読み物の科学本ですね」


「ですよね。ちなみに、今日のおでんもこの本を参考に作ってみたんです。大根の細胞膜が崩れるのは60℃以上。ここからダシが浸みていきます。ただし、泡で煮崩れてしまうので沸騰させるのは厳禁です。煮込むのは大体80℃くらいがベストな温度だそうです……って、いけない! 忘れていました」


 のどかはまたまたキッチンに戻ると、今度ははんぺんを持ってきた。


「はんぺんは温めすぎるとしぼんでしまうので、食べる直前に入れるんでした。ダシをかけてさっと温めれば……今度こそ完成です」


 「どうぞどうぞ」と促がされるまま席に着くと、たっぷりの種ものが盛られた深皿が桜の前に置かれた。


「いただきます!」

「……いただきます」


 誰かと向かい合って、手を合わせてご飯を食べるなんて、いつ以来だろう。

 自分の記憶を振り返りながら、桜は大根を摘んだ。パクリと頬張ると、最初に熱が口の中を支配した。思わず大きく口を開いてハフハフさせていると、徐々に風味がわかってくる。


 ダシをたっぷり吸い込みながらも、大根は煮崩れることなく果肉のような柔らかい歯ごたえを残していた。それを楽しみつつ噛み進めていくと、コンソメのダシがじゅわっと溢れてくる。

 和風だしとは異なる香ばしさは新鮮で、初めて食べる料理みたいだ。


 次に桜が選んだのは茹で玉子。飴色に染まった白身はプルルンとした食感がたまらない。こちらもダシがよく浸みていて、淡白な白身にも味がしっかり移っていた。


「いかがですか?」


 舌鼓を打っていると、のどかが頬を緩めてこちらを覗き込んできた。恥ずかしくて桜はさっと目を伏せながらも、素直な感想を伝えた。


「おいしいです……とっても」

「やった!! コンソメって洋風ですけど以外と和風の種ものとも合うんです。あ、そうだ。〆にはうどんもありますよ!」

「そ、そんなに食べられないと思うんですが……」


 桜はそんな予感がしていたが、実際深皿にあった種ものを全部平らげる頃には満腹になっていた。


 最後に残ったダシ汁を、喉の奥へと注ぎ込む。

 秋雨で冷えた体はシャワーでとっくに体温を取り戻していた。

 だが、このおでんはそれとは別に、桜を内側から優しく温めてくれたのだった。


「ごちそうさまでした」


 食材とのどかへの感謝の意を込めて、桜はしっかりと手を合わせた。


***


 おでんを二人で食べた後、桜は帰る前に後片付けを手伝うことにした。シャワーも服も借りて、夕飯までご馳走になったので、せめてこれくらいはしないと申し訳なくてたまらなかったからだ。


 鍋の底をスポンジでこすりながら、桜は隣に立つのどかに問いかけた。


「あの……塔山さん。一つ聞いてもいいですか?」

「はい?」


「どうして、私に声をかけてくれたんですか? 私だったら、怪しくて引きますよ。絶対に話しかけません。こんな……雨の夜にずぶ濡れで走ってるような人なんて」


 自分のことなのに、改めて口に出してみるとなんて痛々しいのだろう。ぎゅっと手に力が入り、スポンジから泡が飛び出した。


 のどかは、しばらく唇の前に指を添えて考えていたが、やがて小さな声で囁いた。


「だって……放っておけなかったんですよ」


「でも、事情もわからないのに」

「でしたら、聞いてもいいんですか? 事情」


 そう言われると、言葉に詰まる。

 のどかは苦笑して手を振った。

 

「あ~、別に言いづらいことでしたら大丈夫です」

「いえ。本当、大したことではありませんから」


 桜は決心して息を吸った。

 早く、こんな想いは過去のものにしてしまおう。


「ただ、私のつまらない勘違いで……失恋しただけですから」


 自嘲たっぷりに、ありのままの事実を吐き出した。


 よくあることだ。つまらないことだ。あまり気にするな。

 

 そんな言葉が返ってくることを期待していた。

 でも、次に鼓膜を震わせたのは必死な言葉だった。


「それは……大したことですよ! ぞんざいに扱ってはいけません!」


 驚いて鍋の底から視線を移すと、のどかから真剣な眼差しを注がれていた。


「……塔山さん?」

「私も昨年、失恋しました。地元の幼馴染ですけど……彼が好きだったのは姉の方でした。私は、ずっと勘違いしていたんです。彼は自分のことが好きなんだって。バカみたいに、ずっと。だから、本当のことを知ったときは……もう辛くて悲しくて」


 一気に語られたのどかの事情に呆気にとられ、桜の思考が止まる。


「だから、飯塚さんがどれだけ辛い思いをしたのか、全部とは言いませんけど分かります」


 あ、ダメだ……


 直感的に、桜はそう悟った。

 何かが、自分の中でせり上がってくる。


 とっさに手で顔を隠そうとした。

 でも、泡が付いていてそれは出来ない。


「そういう時は無理しないで、押しつぶさなくていいんですよ」


 見ないようにして、そのまま洗い流そうとしていた気持ちが、のどかな言葉と一緒になって流れ込んできた。


「ちゃんと吐き出して、すっきりしましょう」


 無防備な背中をのどかの手がさすった。

 瞬間、一筋熱い滴が頬を伝った。


 それが押しつぶしていた気持ちなんだと分かると、ますます止まらなくなって、桜は嗚咽を響かせた。

 年甲斐もなく情けなく泣きわめく桜に、のどかはずっと寄り添ってくれた。


 この日以来、桜がのどかに抱いた印象は「お節介な人だな」という、その程度のものだった。

 そして、その思いが変化して深まっていくのに、さほど時間はかからなかった。

後編に続きます。

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