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第8話 燻製・もくもく・不完全(前編)

こちらのお話は、


・二人がご飯を作って食べるだけのお話です。

・ファンタジー要素はありません。

・幽霊、あやかし要素はありません。

・ミステリー要素はありません。


また、科学的説明はあくまでスパイスです。

つまらなかったり、面倒くさければ、読み飛ばしてもらっても全然大丈夫です。


以上の点にご注意の上、お腹を空かせてお読みください。

 ❄❄❄


 指導教官の居室に呼び出されて議論するのは、やはりまだ緊張する。

 安らぎと酸素を求めて、氷彗は息を吸った。


 進捗報告用に作ったレジュメが、ぺらりとめくられていく。そのたびに、目の前の飯塚の反応が気になる。

 彼女の目尻はやや吊り上がっており、それが何だか怒っているようにも見えてしまう。


 カチコチと、無機質な音を繰り返す壁掛け時計に目をやると、議論を始めてからすでに一時間以上経っていた。


「いいね」


 メガネの銀縁に指を添えて、飯塚は静かに独り言つる。

 最後までレジュメを確認すると、デスクの脇に置いていたタブレットを素早く操作した。

 文献管理アプリから先行研究の論文をピックアップし、両者のデータをしげしげと見比べる。


「他の解析と照らし合わせてみないことには、はっきりと言えないけれど……うん、悪くない。これなら夏の学会に、まとまった結果を発表できるよ。参加登録の〆切には、まだ余裕があったね?」


 氷彗は手帳を開いて、スケジュールを確認する。


「はい、たしか来週末までだったかと、思います」

「じゃあ、しておくといい。きっといい経験になるよ」


 飯塚の表情が緩むと同時に、張り詰めていた空気も緩んでいく。

 最後に今後の方針と参考文献を提示され、議論はお開きとなった。


「しかし、あれだね。鳥見川くん。前よりずいぶん物腰柔らかになったよ」

「そう、でしょうか?」


 めったに雑談を振ってこない飯塚から、不意にそんなことを言われて氷彗は戸惑った。


「あぁ、間違いない。ここに配属されたての頃は、結晶みたいにガッチガチだったからね」

「かも、しれません」


 たしかに、議論中に詰まったり言い淀んだりすることは減ったと思う。

 昔からあがり症で人見知りに悩まされてきた氷彗からしてみれば、これは大きな前進だった。


 なぜだろうと考えてみると、脳裏でうららがにっこりと笑っている。

 変化のきっかけをくれたのは、間違いなくあの人だ。


「最近、よく話す人が出来たので」

「そうかい。それはよかった。なら、ついでに先輩たちとも話してやってくれよ」


 話のつながりがよく分からず、目をぱちくりとさせていると、飯塚は補足した。


「君、実験スケジュールの交渉しないから、いつも夜に実験しているんだろう? それで、彼らも後ろめたく思っているんだよ。もしかしたら、君が言い出せないから、いやいや夜に実験してるんじゃないかって」

「そ、それは違います」


 とっさに手を振るが、思考を整理していると否定できない部分もあり、氷彗は視線を泳がせた。


「あ、いえ……ちょっと前までは、そうだったかもしれません。でも、今は違います。ちゃんと理由が出来たんです。夜に実験したい理由が」


 まさか一緒に夜食を食べたい相手がいるからこのままがいい、とは言えるはずもない。そこは曖昧にごまかした。


「分かったよ、そういうことなら」


 含みのある言葉の後、全てを見透かしたみたいに、飯塚はいたずらっぽく釘を刺した。


「塔山君にゾッコンなのは別に構わないけど、好きが高じて田宮研に移らないでくれよ。君には期待しているんだから」


 指導教官から冗談を聞いたのは、これが初めてだった。

 最初、まじめな内容かと思っていた氷彗は、からかわれたと気づくなり、全身が熱くなった。


 ❄❄❄


氷彗 【今日は夜食どうしますか?】

氷彗 【なにか、リクエストあれば言ってください】


 飯塚との議論の後、最寄りのスーパーが閉まるまでに今日の食材を揃えようと思い、氷彗はメッセージを送った。

 研究棟を出て大学のメインストリートに差し掛かったところで、ピロリンと返信の通知音が鳴る。


うらら【おいしいおつまみが食べたーい!】

うらら【今日はお酒飲みたい気分だから】


 「お酒」という言葉に焦点が合うと、ふと以前うららが酔っ払っていた時の光景が思い出された。


 やっぱり、すごく面白いし、おいしいね……氷彗の料理は――


 あの時、へべれけだったとはいえ、うららは氷彗のことを名前で呼んでくれた。


「うらら……うらら、せんぱい」


 魔が差したのか、気の迷いなのか、唇から大切な名前がこぼれる。

 のどが震えて鼓膜に響くと、全身がゾワゾワとむず痒くなった。じんわりと、耳まで熱を帯びているのを感じる。


 これは、まだハードルが高い……


 ぶんぶんと首を振って、肥大化した羞恥心を胸の隅に追いやり、料理に思考を集中させた。


 おつまみ……おつまみ……

 ナッツ、枝豆、ソーセージ、チーズ、かまぼこ、冷奴……


 思いつくまま、それらしいものを頭の中で並べていく。

 どれもお酒と一緒に食べるには良い組み合わせだろうが、いずれも料理という行為には結び付きにくい。


 悩んでいると、ひらひらと何かが視界の端に入り込んで、鼻先をかすめていった。

 それは、秒速5センチメートルで舞い散る、ピンク色の雨だった。


「桜……そうです、サクラチップ」


 閃きに合わせて、パチンと両手を合わせる。

 氷彗の中で、今日の料理が決まった。

中編へ続きます。

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