初々しき恋のハリケーン
休みの前日は一番仕事が捗る。休みが待っているからというより、そういうルーティンになっている。
一日一日オールアウトし、休み前の最後の日には自分の身体と精神で円陣を組んでいるかのようで自然と声が出てくる。決して体育会系のことをやっているわけでもないのに。活力が出るならなんだっていい。何かと戦っていくのは嫌いじゃないし、声を一つ出すごとに前へ進んでいる気がする。そしてとことんやり切った次の日は、休息に励む。過ごし方は日々変わっているかもしれないが、サイクルは崩れることなく決まっていてその軌道上で自分のエネルギーを稼働させている。
帰りの電車でつり革にぶら下がり、早歩きで改札を抜けて夜の繁華街へ向かった。一応帰りを待つ人がいるのだが、これもまあ、ルーティンみたいなものだ。チェーンの居酒屋やクラブが並ぶ賑やかな通りを抜け、もう少し歩いたところで〈ゲン〉と書かれた暖簾を迷わずくぐった。
「いらっしゃい」とゲンさんの低い声が通ってくる。
先客は二人いて、一度ここで会ったことがあるデコッパチおじさんと、初めて見る着物姿のおばあさんがなにやら会話を楽しんでいた。
大きなお店ではない。カウンターに五、六席並んでいるだけで、落ち着いた古民家のような内装になっている。ゲンさんは聞き上手で客の雰囲気をうまく汲み取ってくれるし、満席時にはパイプイスを使ってでも案内をしてくれる。一方で嫌がる人もいるかもしれないが、堂々とタバコを吸いながら料理を作ってくれる豪快な人だ。寛大だけどめちゃくちゃなところが、俺にとっては肩の力が抜けて居心地がよかった。
カウンター越しにビールが手渡されると、デコッパチが「兄ちゃんおつかれ」と声をかけてくれたのでみんなで乾杯をした。なんてことない話をしながら最初のビールをゆっくり飲んだ。
「そういや俺が来る前、何話して盛り上がっていたんですか? 」
会話の流れから二人も初対面で、おばあさんがフネと呼ばれていることと最近店に来るようになったということを知り、気になったので聞いてみた。
「口説いていたに決まってるだろ~。兄ちゃん、まだ青くさいねえ」
生え際も口も下品な男だ。そしてバカみたいに笑い、芋の水割りを流し込む。なんだかとても気持ちよさそうだ。
「何言ってるんですか」とゲンさんが笑いながら会話に入ってきて、初恋の話をしていたのだと言って煙を吹いた。
「最近の若者は、どんな初恋をするのですか? 」
「そうですねえ、あまり変わらないと思いますよ。なんとなく気になって、これが好きなんだと自覚して……」
「かー! 違うんだよ~、俺は兄ちゃんの話が聞きてえなあ。そうだろ、フネさん」
ええそうですね、と言わんばかりにフネさんは口元に手をやって微笑んでいた。
BGMが止まり、昭和テイストの曲が流れ出した。聞いたことはないと思うのだが、なぜか懐かしく感じる。懐かしいというか、これが哀愁というやつなのか。一方でデコッパチはよく知っているようで、酒に酔い、自分に酔って歌い出した。
愛することに疲れたみたい 嫌いになったわけじゃない
俺以外の三人は、当時好きだったとか酒場にぴったりだとか言いながら盛り上がっている。なんだか悔しい。
でも俺もそう思う。しっとりと語られる詞。がちゃがちゃと気取らないアコースティックギター。濁りがなく優しくて力強い声。雰囲気と音楽の調和。酒場にはぴったりだ。ゲンさん、おしゃれなジャズよりこっちのほうが店には断然合っているんじゃないかな。
初恋の話をするにしてはあまりにもウブじゃない歌詞だと思ったけれど、ここまでお膳立てされたら気分が乗ってこないわけがない。
昭和音楽談義をしているところに、「それで、いつだったんだい」とゲンさんがハイボールと一緒に促してくれたので自然と話し出すことができた。
「そうですねえ、高校生の時でしたよ。高二のとき同じクラスだった子で」
「おー」とみんなが声を上げてニンマリしたかと思うと、デコッパチだけが「おせえな」とちょっかいを出してきた。それを笑って流し、話を続けた。
「放課後の掃除の場所が同じだったんです。大して広くもない場所だったので僕ら二人が担当に割り振られて。いろいろ話しているうちに……好きになっちゃってました」
穏やかにフネさんが話を聞く横で、デコッパチが表情だけで冷かしてくる。なんて顔をしているのだ。俺は猥談をしているんじゃない。淡い美談をしているのだ。
でもどうだろう。正直いつから好きになっていたのかはわからない。
一目惚れだったのかもしれないし、気が合うからだったのかもしれない。
関わっているうちに点数方式で好きになったのかもしれない。
恋の萌芽は彼女だった。わかるのはそれくらいだ。
「それで、その子との恋はどうなったんですか? 」
「付き合うことになったんです」
「まあ、それは素敵。告白はどちらから? 」
「そりゃあ、俺からですよ」
「なんて告白を? 」
「普通に……好きです、付き合ってください、と」
おばあさんと言えど、話に興味津々になっている。いや、おばあさんだからなのだろうか。女はいくつになっても恋バナが好きな生き物らしい。
「ほほ~う。君を愛してる、アイラブユー……なんてこと言うやつじゃなくて安心したよ。やるじゃねえかあ」
急にデコッパチが素直に茶化してこないから反応に困る。勝手に口角が上がりそうになって頬のあたりがむず痒い。当時の俺はただ単に言葉を知らなかっただけだと思うが、たしかにデコッパチの言う通りだ。プロポーズのような大事な場面で長々とシャレた台詞を言うキザな男は信用ならない。男には正面切ってやらねばならないときがある。
「でもお互い忙しくて……なかなか二人で遊ぶことがなかったんです。俺は体育会系の部活だったので下校時間が極端に遅かったし、その後は塾にも通っていたから一緒に帰っても寄り道とかできなかったんです」
なんとか時間作ってでも二人でいたくなかったのかい、と三人の目が言っているので、俺はそのまま続けた。
「ほら、これでもウチ、進学校だったんです。向こうも勉強がんばっていたし、俺もそれなりにやっていたし。もちろん部活も。文武両道っていうんですかね。たぶん僕も彼女もそこまでお互いのこと邪魔したくはなかったんだと思います。それでも時間あうときは会って遊んでましたよ、お買い物したり映画見に行ったりなんかして」
高校生として互いのやらねばならないことを尊重しているようで聞こえはいいかもしれない。目の前のことに励んでいる彼女だから惹かれたという部分もおそらくあったろう。
思い返すと、正直ただ恥ずかしかっただけというのが大きかった。
好きな人だと思えば思うほど、どうしていいかわからなくなっていた。
今まで気にしてなかったことが急に気になり出し、坊主なのにワックスをつけたり大口開けて笑いすぎないようクールを装ったりしていた。
ただし言ったことも事実で、少なくとも俺は自分のことで精一杯だった。
言い訳はいろいろしようがあるけど、とにかく俺がもう少しグイグイいけばよかったのは間違いない。
「まあ、会うってのも遊ぶのはごく稀で、ほぼ図書館で一緒に勉強だったんですけどね」と俺は笑ってハイボールを空にしてみせた。会話と曲の切れ目が重なって何もない瞬間をつなぐように、ゲンさんのタバコを吸う音が聞こえた。
「あれか、これがゆとりの草食系か」とデコッパチが笑うと、「昔とはいろいろと違いますから」とフネさんがフォローしてくれた。
昭和生まれのおじさんに言わせれば、男じゃねえな、といったところなのだろう。ゲンさんが虫くらいなら殺せそうな剣幕で腕組みをしている。
「初恋はいい思い出かもしれないけど、振り返れば反省ばかりだわ。映画のワンシーンみたいな言葉を言うものだと思い込んで、色っぽさを磨くことばかり考えていたものです。私なんてせっかく好きな人に告白されたのに、あろうことか、走って逃げてしまいました。結局その方とはそれっきり。これが私の初恋ですよ」
相変わらず微笑んだまま、フネさんは湯気も立たなくなった熱燗をお猪口に注いで少し口をつけた。
俺が「もったいない」と声を出すと、「だよなあ、そいつは俺だって言ってるんだけどよお」とデコッパチが重ねて大きく笑った。今となっては生え際の後退した親父くさいジジイがそいつなのかどうかは聞き流すとして。初恋からなんでも上手にやってのけた人は果たしてどれくらいいるのだろうかと思う。
そして俺は初恋の相手と別れたのだと言って話を締めた。
理由は彼女が他の人に心変わりしてしまったことだった。
でもその後彼女が他の人と付き合ったとか誰かのことを好きだとかいう話は聞いたことがない。
ゲンさんが次のハイボールを持ってきてくれたのでゴクゴクと飲んだ。
「失敗したなら次に活かせばいいんですよ。好きな人の前で正直でいることって案外難しいものよ、男の人はとくに」
うーん、と唸りながらもフネさんがなんとか続く言葉を繰り出してくれた。フネさんの赤い頬と耳を気付くと、自分は何を真面目に語っているのだろうと汗が出てきた。
ゲンさんは首肯きながら話を聞いた後、「不器用ですみません」と言ったので俺とデコッパチも後に続いてニコニコしっぱなしのフネさんに軽く頭を下げた。
「そりゃあ、知らないわけだからなあ、初めてのことだからよ。でも、恋はハリケーンなんて言うしバカになったもん勝ちだ」
デコッパチがふざけて言っているのか、真面目に言っているのか、大きな笑い声が続かないからどっちかわからない。そう思っていると、一口水割りを飲んだ後続けた。
「女房と一緒に過ごしてきて、お互い年もくって、ときどき思うんだよ。言葉で伝え、行動で示すってことに慣れちゃいけねえんだなあって。何かで聞いた覚えがあるんだけどよお、愛そうと思えば誰だって愛せるのだそうだ。恋人となるとそれだけじゃ足りなくて、少し特別なんだろうなあ」
結婚したらどうなのかはまだわからないが、今同棲している彼女は俺が仕事に出ている間にいろいろとやってくれている。ワイシャツは綺麗にアイロン掛けしてくれるし、早起きして弁当まで作ってくれている。感謝はしているつもりだが、これは当然のことじゃないし、誰に対してもやれることでもないのだろう。ふと同棲し始めた頃の新鮮さを思い出した。
「何が言いたいのかよくわからなくなっちったな。ようするにだ、人生いろいろってことだな」
とんでもなくざっくりと話をまとめて、デコッパチは水割りを飲み干してゲンさんからお猪口をもらい、フネさんのぬるさもなくなった熱燗をもらって飲んだ。
デコッパチよ、伝わるものはあったぞ。これでも同じ男だからな。先ほどもらったばかりのハイボールを体に流し込み、いつもより少し早めのお会計を済ませて店を出た。
席を立ったときにデコッパチは何かを察したように、「おう兄ちゃん、恋はハリケーンだぜえ」と言ってフネさんをまた口説きにかかった。彼は少々下品なだけだ。生え際が後退しているだけの、バカな男だ。
玄関のドアを開けると、暗い廊下に寝室から灯りが漏れている見慣れた光景があった。
「ただいま」
「ああ、おかえり、コウちゃん。お風呂まだ熱いと思うから早めにどうぞ~」
布団の上に寝そべって雑誌を読むカオリの姿があった。ほっとしたのは束の間。ふと最初の頃をいろいろと思い出し、急に当時の初々しい感情まで湧いてきて、お酒のせいとはまた違う身体の熱を帯びている気がした。
「なあ、いつもありがとな」
彼女は「突然なにそれ」と言って笑ってこちらを見た。そう、笑ったときに目が細くなるその顔に俺はやられたんだよ。
「俺は今でも好きだから。好きだから」
「えーっと……酔ってる? 」
「いや、そんなんじゃない。いつも待たせてばっかりだよなと思ってさ。なんていうか、こう、嫌いになったわけじゃないけど、愛することに疲れてないかなと……」
ずっとあの曲をリピートで聞いていたせいで頭から離れない。この流れでは、調子に乗ってひねりを利かせたことを平気で言ってのけるロマンチスト男じゃないか。変な顔して目をそらされるのも無理もない。
「とにかく、俺はどうしたらもっと好きだって伝わるか考えるよ。どうしたら全部伝わるか考えて過ごすよ。だからこれからもよろしく頼む」
カオリは体を起こして俺のほうを見たかと思うと、髪の毛をいじったり少しあたりを見たりした後また寝そべって雑誌のほうへ目を向けた。結局なんの反応もないので、「なんでもない、ちょっと飲みすぎたわ」と言って腕時計をはずしながらリビングへ行こうとした。
「それでも恋は恋、でしょう」
「あれ、なんだ、知ってたの? 」
「まあ、そういうことだから」
どういう意味か尋ねようとしたところ、「早く入って」と無理やり寝室から追い出された。よほど変なやつになっていたようで、かわいらしい笑い声が響いてくる。
やはり気取った野郎に聞こえてしまっただろうか。いや、酔っぱらいの言うことがバカらしかったのだろうか。言葉で伝えるのは難しい。
この時間でまだ起きているなら、次から少し早めに帰ろう。
そして明日の休みは久しぶりに、二人でどこか遠くへ遊びに行こうかな。
≪参考≫
恋(作詞作曲:松山千春)
2018.11.15 改訂済