習作長篇③
短くもない時、彼にとっては長くもないわずかな時を経る。猿という種の生存期間はとっくにすぎて人間のそれの十倍くらいの時を経ても、彼の初めての眷属はぴんぴんしている。ただその姿形は変容し、胴と四肢が伸びて人間のような形になっている。人間のように二肢で立ち、道具を操る。体毛の上から具足を着飾って、人語を弄する。いまは「猿王」と名のっている。
猿王はみづからの眷属である猿たちを使役し、人間世界を支配しようと目論む。彼はそれを思いとどまらせようと説得する。人間たちを愛したわけでも、猿王の身を案じたわけでもない。戦争になれば、圧倒的な妖力を具えた猿王の勝利に終わることは目に見えている。じつにつまらない。
「猿王よ、そんなことをしてなんになる」
「おれはこの世の悦楽と富貴を貪りつくしたい」
「だから、それがなんになるのだ」
まったく、ばからしい。彼は、ともに見て語らう同胞を欲したのだ。そんな彼の想いも知らず、猿王は隠似神社で人間の真似事をしている。
「では訊くが、隠似よ。あんたはなにが目的で、生きつづけるんだ?」
猿王の不意な問いに、彼は返答を詰まらせる。生きつづける理由や目的など、考えたこともなかったからだ。生きているから、生きている。ただそれだけのことであった。同胞を欲したのも、ただの暇つぶしでしかない。ただ、退屈したくなった。おもしろい見世物があって、ともに語らう者があればそれでよかった。
「まあ、体のないあんたには永遠にわからんのだろうがな」
猿王の言葉が、身のない彼に刺さる。では、体を持てばよいのだろうか。体を持てば、生きる理由やら目的やらが理解できるようになるのだろうか。ならば肉体を持ってみようと、彼は考えた。彼が入るべき器を創造し、猿王の目論見を打ちくだいてみるのもおもしろい。ただの暇つぶしではある。
どのような肉体を捏ねあげるべきか。それもまた、初めての試みである。人間たちが「蟲」と呼ぶ、ほかの星でも見てきた下等な生命を参考にする。生きるために合理的な構造をしており、彼にもわかりやすかった。肉体への理解がなければ、肉体を創造することなどできない。
蟲の体を捏ねあげたところで、猿王を止めることなどできない。踏みつぶされて終いだ。これに高等な生命であるところの、人間の肉体をかけあわせる。二肢で直立し、四肢で道具をあつかう。彼は念じる。イメージの抽出。無から有を取りだす。
飛蝗の頭、強靭な顎。緑色の皮膚は、甲虫の硬度。人間の胴体に六肢。上中四肢にそれぞれ五指を具え、その腕部に蟷螂の鎌を収納する。下二肢は人間の脚のうちに、飛蝗の後肢の発条を具える。背には蜻蛉の翅を六枚収納し、自在に空を舞う。猿王と戦うための、機能的な肉皮。
捏ねあげた容器に、彼はすっと入りこむ。実なき身を、蟲人の体に隈なく定着させる。浸透。蟲人を取りこむように、蟲人に取りこまれる。受肉。蟲人と彼は同化する。
肉を持ったことに、彼は強烈な違和をおぼえた。長い長い時を、彼は実体のない存在として生きてきた。見える。聞こえる。臭う。触る。肉を持ったとたん、感覚が彼の体に刺さる。体を持つということは、こんなにも耐えがたいものであるのか。人間が言う「痛み」や「苦しみ」とはまさしく、これのことにちがいない。彼は瞬時にそう理解し、崩れて土に横たわる。腹の奥から異物がこみあげ、口からげえげえと粘液を吐きだしつづける。肉体を持ったことを、彼は後悔した。
吐きおえて口中がからからになってようやく、苦しみが消える。彼は下二肢で立ちあがる。見える。聞こえる。臭う。触る。体に具わった機能が彼に定着し、違和感が薄れる。上中四肢を振り、鎌を出し入れする。下二肢で跳びはねる。頭でくるりと、半球を描く。背にある六枚の翅を出して、細かく震わせて浮揚する。なじむ。肉体を持ったことで得た窮屈さを、彼はたのしんだ。後悔を忘れた。
腹部が内側へと吸いこまれる感触があることに、彼は気づく。これは「飢え」というやつだと、彼は即座に悟る。なるほど。これを癒すために、「食う」という行為を必要とするのか。飢えをかかえつづけるのは、耐えがたい。なにかを食って体内を膨らませれば、この吸着は収まるにちがいない。
眼のまえに、一匹の猿がいる。猿王の眷属がわがもの顔で、このあたりを闊歩しているのだ。上右肢の鎌を出して一閃、猿の首を掻ききる。瞬時のことに、死んだことに気づいていないかのような猿の顔。その首をかけ、縦に割れる口を大きく開く。ばりばりがつごつと、猿の頭を骨ごと砕く。顎の力でどうにか咀嚼できたが、臼歯はぎざぎざの牙に替えたほうがよい。口いっぱいにひろがる、猿の頭の感触。脳漿と肉、骨と筋。臭い、味。猿の味が舌をよろこばせ、飢えをみたしてゆく。食うという行為が心地よいということを、彼は体感する。もっといろいろなものを味わってみるのもおもしろい。肉体になじんだ彼の心は躍った。