43→2→43
たかが仕事で生き死にを賭すようなくだらない、充足のない鬱々としたすばらしい年月だった。
殿のプロとしての意識は手の届かない高嶺にあって、凡人らとの意識の乖離は甚だしかった。
私も凡人のうちのひとりにすぎず、貧乏ゆえに働かざるを得なかっただけの怠け者である。
さっさと終わらせてとっととこの苦役から解放されたい、その一心で黙々とやるだけだ。
残業で稼ぎたいとかそういう意識は毛頭なく、殿の下にあってその想いは強まるのみ。
一生懸命やることで殿にとってますます欠かせぬ人材となり、地獄をめぐる悪循環。
殿がいなければ現場は終わらない、殿の下にあることで心身は危機に瀕していた。
殿に怒鳴られることのないまわりの無能者どもが、早く帰れる恩恵にあずかる。
努力と能力の足らない連中への憎しみは募るばかり、まったくばかばかしい。
殿の暴威暴圧がせめて公平に、連中にも行きわたるのであれば納得できた。
恐怖と不公平感が私を圧しつぶし、安逸のない地獄がつづいたのである。
早口で滑舌もよろしくない殿のオーダーを聞きとるのは、至難である。
「一回で聞きとれ」と、訊きかえせば怒鳴られる理不尽と無理難題。
聞きとれずにオーダーとちがうことをすれば、命を取られかねぬ。
にっちもさっちもいかないプレッシャー、どうしようもない闇。
せめて訊きかえして確認することをゆるされたら、気は楽だ。
もしくは、早口と滑舌をどうにか矯正してもらいたかった。
五十人ちかくいた会社のなかで、どうして私だったのか。
職業選択の自由を封じられなければならなかったのか。
私ごときが二番手だなんて、人的欠乏もいいところ。
派遣の私は派遣らしく気楽にやりたいだけだった。
「社員にすっから」との殿の言に、私は苦笑い。
冗談じゃない、逃げられなくなるじゃないか。
私にとってデメリットばかりの提案を固辞。
殿とともにあることが最大のデメリット。
待遇は変わらない、金の問題でもない。
給料が倍になってもつづけられない。
倍になった金が、重荷になるはず。
私はただ、安逸と安寧を求める。
文士になりたいとねがうのみ。
なりそこねてのいまがある。
不労所得とニートに憧れ。
労働に意義なんてない。
食うために働くだけ。
貧乏を憎んでいる。
金持ちを羨んだ。
働けど働けど。
楽にならず。
労働地獄。
労働者。
罪人。
闇。
底辺。
模範囚。
働かない。
働かざる者。
食うべからず。
じっと手を見る。
金に囚われた穢れ。
洗いおとせない不浄。
落ちぶれて落ちぶれて。
見返りなしには動かぬ手。
この両腕がなくなったなら。
もう働かずに済むのだろうか。
ここで大陸の故事を思いだした。
なんとも血腥い、美談とされた話。
庶民が王に両脚を斬られそうになる。
庶民は赦しを乞う、そりゃあそうなる。
見苦しいやつめと剣を振る王に、箴言が。
「綱を牽けるよう両腕で勘弁してくれよ」。
家族を養っていかねばならない貧困のゆえに。
見あげたやつよと王は笑って庶民を赦したとか。
現代人の感覚で、美談でもなんでもねえわと思う。
そりゃたしかにその庶民は立派、勤労者の鑑だった。
理由は忘れたけれど、自国民の両脚を斬ろうとする王。
自国の貧困対策などなにひとつできていない、暗愚の王。
程度の差こそあれ、この構図はなにひとつ変わっていない。
上に立つ連中が愚劣きわまりなく、下層が労苦を強いられる。
現場は優秀だったけれど、上が無能で負けた大東亜戦争の構図。
その構図がそのまま私の五年間に合致し、敗戦の理由を得心した。
事務員は雁首そろえて事務の素人、現場に丸投げして定時で上がる。
殿の傑物性でまわる現場とまわされる私、それに胡座をかくだけの上。
班長職長よりも平社員の殿の裁量、殿がいなければ「できない」で終了。
殿がこなしてしまうから上はつけあがり、態度をあらためようともしない。
しょせんは他人事。人の痛み苦しみに鈍感な、無能の輪に愚鈍を掛けたバカ。
バカなだけならまだ赦せもするが、自分たちを賢いと思っているのが赦せない。
そういうバカが事務所にも現場にも、奇蹟のように綺羅星のごとく集まっていた。
そんな肥溜のような職場になぜかひとりだけ、殿のような傑物がまぎれこんでいた。
天の配分、まるで屑の水滸伝。そこに巻きこまれてしまった私は、能力不足の盧俊義。
心身を害した私は数ヵ月、「書けない」というこの世の地獄を見た。真の責苦であった。
43→2→43。地獄のつづきはまた、異なる字脚と縛りで綴ろうと考える。乞うご期待。
石川啄木のサンプリングをしたが、詳しくもないしファンでもない。伝えきく人間性は嫌い。
職場の同僚だったらたぶん、憎しみを向けている。仕事ができたのかは、寡聞にして知らない。