43→2→43
ボランティア精神のかけらも持ちあわせることなく、二ヶ月間を無償奉仕させられてしまった。
あの地獄のような拘束時間と過重労働はなんだったのか、腸が煮えくりかえってしかたない。
労働詐欺もいいところなのに刑事事件にはならない、まったくもって不条理きわまりない。
ただ生まじめに生きてきただけなのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのか。
最後の給料日にバックレる悪逆非道の手口、神様も筋道も道理もあったもんじゃない。
社長宅へ単身乗りこむと口から出まかせ、飛びだすたわけ「逃げも隠れもしない」。
「てめえの舌は何枚あるんだ?」とその場で言えなかったのは、心のこりだった。
暴力に訴える腕力も技術もない、これこそ怠慢というものの蓄積にちがいない。
決闘や窃盗に明け暮れた少年期は更生を経て、賞賛されるべき栄光に変わる。
更生せずにヤクザにクラスアップしたとしても、創作物が美化してくれる。
そんな時節を持たなかった私は、怠惰に怠惰を積みかさねて生きてきた。
ドラクエのレベル上げに費したあの時間を、勉学に注ぎこんでいれば。
自分のパラメータを向上させようとしなかった結果で、いまがある。
だからといって、労働の対価をもらえない理由にはならないはず。
私の努力不足と社長の卑劣さが、合致していいはずがないのだ。
「おめえの努力が足らねえ」と、「殿」から何度も言われた。
まったくそのとおりだが、まったく納得できなかった言葉。
努力の足らない連中ばかりなのに、私ばかりが言われる。
この憂き目も殿のせい、殿の話をしなければならない。
私の会社は派遣会社、殿は派遣先の会社の正社員だ。
派遣会社の正社員、ハローワークで見つけた求人。
土日祝完全週休二日制のみに憧れて、応募した。
そこは求人票どおりだったので、文句はない。
職種は、フォークリフト免許必須の倉庫員。
前職は運転手で、倉庫業は未経験だった。
リフトの技術不足で、最初は役たたず。
しだいに慣れていって戦力になれた。
そして殿に引きあわされてしまう。
能力を見こまれたのが運の尽き。
地獄の一丁目への入口だった。
地獄はだんだんと深くなる。
私はまだそれを知らない。
後悔はさきに立たない。
理不尽きわまりない。
地獄を望んでない。
気楽に生きたい。
働きたくない。
たかが仕事。
夢をみる。
ニート。
隠居。
眠。
安穏。
小説家。
夢にみた。
されど仕事。
プロレタリア。
死にたくはない。
地獄にいたくない。
筋なんてくだらない。
予見は俯瞰のみにある。
私はそれを知ってはいた。
平穏はだんだんと遠ざかる。
どうして殿と呼んでいるのか。
もちろん本名であるわけもない。
たけし軍団構成員と、理由は同じ。
ふざけてなどいない、いたって真摯。
一片のまじり気もなく殿と呼んでいる。
崇敬の対象への尊称以外の何物でもない。
倉庫業のイロハを、殿に叩きこまれたのだ。
出庫のために計算されつくした、入庫の美学。
工程から完了まですべてが、効率の芸術である。
『三國志演義』における諸葛孔明の知謀のようだ。
戦国時代に産まれていれば、天下を取っていたはず。
こんなちんけな倉庫ではなく、国のための職にあれば。
殿には天下国家のための仕事をしてもらいたかったのだ。
そうであれば、国民の多くがしあわせになれたはずなのだ。
殿の傑物性はまったくの場ちがいで、私はそれを惜しむのだ。
殿に関わることがなかったら、私は安穏にすごせていたはずだ。
私自身の成長もなかったが、私はそんなものを望んでいなかった。
他者が無能に見えて苛だつことが増え、精神衛生的によろしくない。
私が殿を敬して遠ざけたかった理由は、激情的な殿の性格にあるのだ。
五年ちかくを殿の側にあったが、怒鳴られない日を探すのは至難である。
毎日毎日なにかしら常態として怒鳴られて、罅割れるような日々をすごす。
日々をびくびくしながら送り、メンタルヘルスは危機的状況に追いこまれる。
キャパシティーの超過とプレッシャー、半端な有能さは命取りでしかなかった。
傑物に従わなければならない凡人の苦悩、私の骨身に沁みこまされた教訓である。
「右腕」と呼ばれることに堪えられない、すべてはまわりの無能者のおかげである。
私よりも有能な人間が辞めてしまったために、私がその役を負わされるという理不尽。
殿のオーダーをこなして怒鳴られる回数を抑えることが、生きのびるための望まぬ成長。
能力が上がって評価を得たところで給料が上がるわけではないから、まったくばからしい。
私が殿の次元に近づくことでますます、殿にとって手ばなすことのできない人材になるのだ。
労働地獄の堂々めぐりはこうして幕を開け、明けることのない長い夜をすごす破目に陥るのだ。