序説
澁澤龍彦の『少女コレクション序説』は彼本人が自賛しているように、秀逸なタイトルである。その「序説」を、そこから拝借する。歴史と三國志に傾倒した中学時代、三年の冬に書いたのが始まりだった。考証も推敲もなにもない、愚にもつかない仮想の三國志。受験勉強をほっぽりだすほど、「書きたい」という衝動に抗えなかった。それからずっと、その衝動をかかえながら生きてきた。
二十余年の苦節。齢四十を手まえにしたこの数ヵ月、その衝動が消えてしまうとは思いもよらなかった。書けない。書きたいものが見あたらない。スランプとはちがうような気がしている。このまま書けなくなってしまうのではないか......不安と焦燥。二十余年の蓄積は、すべて水の泡。
精魂を傾けて投稿した力作が黙殺されたこと。日々の労働で精神を害したこと。書けなくなった理由は、複合的に交わっているのだろう。書けなくなってしまった事実がつらい。作品を書いて黙殺されることよりもつらい。このまま死ぬまで、潰えてしまっているのか。このまま惰性で生きつづけなければならないのか。書けなくなってしまった私の人生に、いったいなんの意義があるのか。
日曜朝の、喫茶店がよいは継続している。なにかしら書かなければならない......焦燥と強迫。それもついに行きづまる。なにも思いつかなくなって、息が詰まる。フルーツティーソーダをまえに手をこまねくこと数分、苦肉の策は降りる。書けないことを、書いてみたらどうか。
「実験詩小説集」のタイトルを思いつく。書けないことを書こうという試みで、物語性はまったくない。「書かないことが文学なのだ」などと嘯いていた時期もあったが、「書けないこと」と「書かないこと」はまったくちがう。「書けないこと」を書こうという試みは、それこそ文学なのかもしれない。私の心は躍った。闇のなかに差した、一筋の光明に思えた。これでまた、書くことができる。
「実験」と書いて、「リハビリ」と読ませる。ルビは振らない。「実験」はそのまま、「じっけん」と読んでほしい。もう若くはない。新進気鋭の気負いによって変革をなそうとか、そんな大それた野心はない。私が「私」を取りもどせるかどうか、真の意味での実験であるのだ。
本作は完結を望んでいない。継続させることに意義がある。本作の完結はそのまま、私の絶筆になるだろう。「実験」と銘打つからには、いわゆる「実験的」なものでなければならない。投稿するものには、ある種の縛りを設けたい。もしくは、詩や小説の範疇から逸脱したものを。あるいは、縛りのないものも投稿するかもわからない。思いつくままに書いていきたい。全体としての筋はとおさない。会社に筋をとおした結果、給料二ヶ月未払いの憂き目に遭う。筋をとおすことのばからしさを知ったのだ。
偶然にも拙作を目にしてくれたみなさま。折れかかる私の拙いリハビリにおつきあいいただけることがあれば、さいわいであります。