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ゲット・アウェイ・ガールズ  作者: 中條利昭
第一部 〈あの光〉篇
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第一章 9、負け犬

 少し足が痺れてきて、重心を右から左に移す。何度このようにして重心を入れ替えただろうか。

 歩き回りたくて仕方がなかったが、じっと待っていないといけない気がして、シオリはその場に立ち続けていた。


「おじさん、お名前は?」

「そういえばまだ名乗ってなかったね。僕は……」


 男は表情を曇らせ口ごもった。

 シオリは首をかしげる。


「どうしたんですか? 名前忘れちゃった?」

「いや、そう言うわけじゃないんだけど……お母さんから名前聞かなかったかい?」

「聞いていないです」


 そっか、と男はつぶやき、村へ顔だけを向けた。シオリはその横顔を見上げ、目元を覗こうとしたが、サングラスのツルが太くて目は見えなかった。

 少ししてから彼はしゃがみ、目線をシオリの高さに合わせた。


「僕の名は、ハイド。現実から逃げだした、負け犬の名前さ」


 微笑んでいるが、どこか物悲しげな表情だった。

 それから、眉を曲げ「ごめんね」とつぶやいた。


「旅の前にこんな暗い話はすべきじゃないね。なにか、明るい話でもしよっか」

「……うん」


 明るい話、という句で、シオリが真っ先に思い出したのは、昨日ユリアがカフォを捕まえようとした話だった。


「あっ」

「どうしたの?」

「そういえばジャネルやユリアに臨海部に行くって伝えてなかった」

「お友だちかい?」

「うん」

「残念だけど、もう挨拶に行く時間はないかな」

「うーん……」


 水に沈んだような泥のような、濁った罪意識があった。しかし、次第に泥は沈殿し、水は澄んでいくものだ。


「まっ、いっか。もう会えなくなるわけじゃないし」


 ハイドは微笑を浮かべるだけで、シオリの言葉には応えなかった。彼は逃げるように自らの手首に目を向ける。


(あ、腕時計だ)


 田舎育ちのシオリにとってそれは、言い伝えられたお宝のように輝いたものだった。その感動を口にする前に、ハイドが小さく息をつく。


「もう時間だね。残念だけど、僕と君の二人旅になってしまいそうだ」

「もう?」

「ごめんね」


 悲しいけど、どうせ一泊二日だから。とシオリは開き直ることにした。


(その二日間、お母さんから自立して生活できたら、きっと誉めてくれるはず)


「うん、わかりました」

「じゃあ行こうか」


 ハイドは左手をシオリに差し出した。

 シオリは差し出された手を掴む。温かいけど、皮膚が乾いてカサカサしていた。

 杖が支える右脚は、左足よりも少し細く見えた。


「その脚、どうしたんですか?」

「これは大昔にできたものさ。おかげで僕は人生のほとんどをこの杖と共にしている」

「脚、痛いんですか?」


 ううん、とハイドは首を振る。


「何もしなければ痛くないよ。動かしづらいだけ。もうとっくに慣れたから、動かしづらいとも感じないかな」


 それからしばらく、ハイドはシオリにラソンとの暮らしについて質問を続けた。おそらくただの場繋ぎだろう。あるいは、シオリを安心させようとしているのか。

 シオリはそれを感じ取っていた。

 そして、同時に思う。


(どうしてこの人は私を安心させようとしているのだろう)


 嫌な予感がした。

 ひとつ疑問に気づいてしまうと、次々と疑問が湧きでてしまう。

 そもそも、どうして母は急いでいたのか。タムユを誘うつもりだったのならハイドとの待ち合わせをもう少し遅い時間にして、先にそちらに行けばよかったのではないか。


「あっ」


 ふと昨日のことが思い出された。

 キールたちに襲われ、最終的に怪我させてしまったことを。キールは副村長の孫だ。

 そして、昨日タムユがラソンを訪ねて何かの話をしていた。タムユさんの父は村長だ。


「どうしたの、シオリちゃん」

「……」


 ハイドの声は既にシオリの耳に届いてなかった。彼女の幼い頭の中で、不器用に組み立てられるパズル。そこに目一杯の容量を取られ、他人の声に耳を傾けられるほど余裕がなかったのだ。

 キールは事あるごとに言っていた。


 ――この村には、おれたち〈神の末裔(シン・トルファ)〉しかいらねえんだよ! 〈魔の穢れ(マ・ゾルミ)〉は出ていけ!


 今回、キールはクウに噛まれて怪我をした。

 それがきっかけで、今日なにか起こるんじゃ……。

 追い出される? それとも――殺される?


「シオリちゃん?」


 ゾッとしたものがシオリの背中一面を這う。

 もしこの推論が合っているのだとしたら、ラソンの行動にも辻褄が合う。昨晩やさしくしてくれたのは、昨日の事件がきっかけでこうなるかもしれないと察していたから。最期になるかもしれないから。


(早く私を村から出さないと、私が殺されちゃうかもしれない。だからひとりで村に残って……)


 シオリはハイドにその考えが正しいかを聞こうとした。でも、やめた。多分教えてくれない。シオリのために。


(ハイドさんは、私を護るために、ここに……)


 キールに怪我をさせたのは他でもないシオリだ。つまり、この日ラソンが処刑されるのだとしたら、それは自分のせいということ。

 自分が許せなかった。自分が一枚の紙だとしたら、この場でビリビリと引き裂いてしまいたい。

 彼女は決心する。


「おじさん、ごめんなさい」

「え?」


 シオリはハイドの手を振り払い、村へ精一杯走り出した。

 自分のせいで母が死ぬかもしれない。

 そう思うと、居ても立ってもいられるはずがなかった。


「待つんだシオリちゃん! 戻ってはならない!」


 ハイドは追いかけようとする。

 だが。


「ぐっ……!」


 膝から地面へと落ちる。走ることを古傷が許してくれなかった。彼には、みるみる遠ざかっていく後姿を目で追いかけることしかできない。

 そんな自分のやるせなさに、地面を殴った。


「くそっ……」


 あと少しだった。

 あと少し歩けば。


「……」


 怒りの後には悲しみが訪れる。どうしようもない寂寥(せきりょう)感に包まれる。

 溜息がこぼれた。自らに訪れる運命すべてを恨むような溜息だ。


「お前はまだ僕を(むしば)み続けるのか……」


 もうほとんどシオリの後姿は見えなくなっていた。


「すまない、ラソンさん……」


 ハイドは杖に力を込め、立ち上がる。


「あなたの愛娘を、僕は護れなかった」


 目を瞑る。そこに見えるのは暗闇ではなく、自らを囲む巨大な壁だった。叩いて叩いて、やっとひとつ壊しても、その向こうにも壁が山脈のごとく並んでいる。抗ったところで意味はない。生まれた頃から眺めていたこの景色は、未だにほとんど変化していない。

 その中で唯一できることは、開き直ること。仕方がない、そういうものなのだ、と。

 村へ背中を向け、彼は静かに足を踏み出す。

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