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ゲット・アウェイ・ガールズ  作者: 中條利昭
第一部 〈あの光〉篇
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第一章 8、村の方針

「シオリ、起きなさい」

「ん、んん……」


 少し早い起床。眠れなかった昨晩。

 母に逆らってこのままずっと布団に抱きしめられていたかった。

 ずっとこうしていると、ずっと母といられるかもしれない。

 そんなありえないことさえも思ってしまうのは、寝ぼけているからだろうか。


「早く仕度しなさい。ご飯食べて行くわよ」


 昨晩は不貞腐れていたシオリだったが、「うん、わかった」と眠たい目を擦りながら起き上がった。朝ごはんの温かい香りが彼女の手を引っ張るようだった。






 朝ご飯を食べ、支度を始めた。臨海部に行くなら、とラソンはシオリにワンピースを渡した。一着だけ持っている夏の洋服だった。


「じゃあ行きましょう」


 ラソンはシオリに掌を差し出す。いつもの髪留めをつけず、髪を下ろしたままのラソンと背景の青空との組み合わせは、どこか新鮮でありながら不安定でもあった。


「うん。行ってくるね、クウ」

「アゥ!」


 傷はまだ癒えていないとはいえ、クウはもうすっかり元気になっていた。

 シオリはクウに手を振って母の手を握る。温かいけど、その芯に冷たさがあった。さっき食器を洗っていたからだろうか、それとも。

 シオリの心にも、穴が空いたような冷たさがあった。

 母とお出かけ。なのに、それは村の門まで。


「どうしたの? お体の調子悪いのかしら」

「ううん、なんでもないよ……」


 ごめんなさいね、とラソン。憂いを含んだ笑みだった。


「そういえばシオリ、朝の鐘が鳴る前に外に出るなんて珍しいんじゃないの?」


 この村では朝の八時(一日を二十四で割り、正午を十二とした、八番目の時間)に鐘が鳴らされる。これは村人の目覚まし代わりにもなっており、中にはこの鐘こそが健康の秘訣だと主張してやまない老人もいる。


「初めてかも」

「さすがに初めてではないんじゃないかしら」


 ラソンは苦笑する。

 彼女は毎日鐘よりずっと早く起きる。村人が行動を始める前にタムユの店で買い物を済ませてからシオリを起こすのだ。八時の鐘はいつもその少し後。


「もうタムユさんのところ行ったの?」

「いいえ、まだよ。あなたを見届けてから行くわ。どうせまだお店は空いてないのだから。ちょっとだけ門で待ってもらうことになるわ」


 タムユの店が開くのは七時だった。現在時刻はその少し前くらいになる。

 ちなみに七時ではまだほとんどの住民は外にすら出ない。そんな時間に店を開いているのはタムユくらいである。その理由は差別対象であるラソンが訪れやすくするためであり、そうでない住民にも気持ちよく買い物してもらうためでもある。


「あの男の人って、どんな人なの?」


 夜なのにサングラスをかけていた、杖の男。


「そういえばあまり話してなかったかしら。そうよね、よくわからない人と一緒に出かけるのは怖いわよね」

「そんなこと……」

「強がらなくていいわ。あの人は私のお友だち、だとは言ったわよね。そうね……、とても優しい人なのは間違いないわ」


 友だちだと言っているのに、どこか説明しづらそうなラソンを、シオリは不思議に思う。


「仲良くないの?」

「そんなことないわ……でも、そうかしれない。あのかたは、私のお友だちというよりは、お父さんのお友だちなのよ」

「お父さんの?」


 シオリの物心がつく前に父は事故で亡くなった。そのため、彼女は父の顔を知らない。霧に浮かんでいるような面影が、記憶の隅にかすかに残っているだけだった。


「言われてみると、私とはそんなに多く接してないかもしれないわね……」


 溶けるような声を出し、気持ちを切り替えるように、ラソンはひとつ、ぎこちのない笑みを浮かべ、シオリの手をぎゅっと握った。


「安心なさい。あのかたはね、私よりもずっと、ずっと、冷たいものを知っているの。だからこそ、私よりもずっと、ずっと、心は温かいわ」


 よくわからない言葉だった。シオリがその意味を理解していないと知りながら、ラソンはそれ以上なにも言わなかった。シオリも、なにも訊けなかった。






 親子は村の門を抜けた。


(お母さんと手をつないでいられるのもあと少し。このまま、あの人が現れなかったら、ずっとこうしていられるのかな)


 しかし、廻り続ける世の中は残酷なものである。


「いらっしゃったわ」


 視点の低いシオリは、目を凝らして初めてその姿を確認することができた。昨日と同じ藍色のローブをまとう男が立っていた。

 彼もラソンたちに気づき、手のひらを見せて小さく手を振った。


「おはようございます」


 十五歩くらいほどの距離まで近寄ると、男が笑顔を見せた。サングラスもローブも昨日と同じもののはずだが、近寄って見てみると、光を吸い込んでいるような不気味さが煌めいていた。母の手を握る力が、おのずと強くなってしまう。


「おはようございます」


 少し深めにラソンは会釈する。

 シオリは無言で頭を下げた。


「ほとんど時間ぴったりですね」

「なんの運でしょう、計算したわけではないのですが。では、私はタムユさんを呼んできます。シオリをよろしくお願いしますね」


 もう一度ラソンは頭を下げた。今度はさっきよりも、ずっと深く。正式に人にものを頼むときのものだ。


「はい」


 男の声は、凛と力強かった。

 臨海部に行くこと。それは、自身の想像を遥かに超える重たいことなんじゃないか。

 ふと、シオリはそのような気がした。

 でも、どうしてそう感じたのかは、よくわからなかった。


「一時ノ折(約三十分)が経って、私が戻ってこなかったら、タムユさんは行けなかったのだと思っていただいて構いません。タムユさんが準備に時間をかけていたとしても、私はひとりで戻ってきますので。そのときはふたりで向かってください」


 ラソンはもう一度――今度は浅めに――頭を下げ、村へと戻っていった。






 タムユは昨日の村の会議を盗み聞きしたのか。そして、結果はどうだったのか。

 それが気になっているせいか、()()()()()()()気持ちから背を向けても、村へ戻るラソンの足は自然と早くなっていた。

 事情を話せばタムユさんはきっとシオリについていってくれる。

 ラソンはほとんどその確信を持っていた。そしてタムユと一緒に門へ戻り、()()()()シオリに会いたい……。

 昨晩タムユから会議を盗み聞きすると聞いたときは、深く動揺したものだったが、今となっては、どうだってよかった。それ以上の恐怖が心臓を締めつけているのだから。

 でも、とラソンは思う。


(村役場の決定が私を追い出すものだとしたら、シオリも一緒に追い出されることになるかもしれない)


 シオリがそうして傷つけられるくらいなら、こちらのほうが良かったのだろう。

 ふと、昨日のシオリの笑顔が記憶に蘇った。健気で無垢で、人生で唯一愛した夫をそのまま縮めて女の子にしたような笑顔。


(昨日優しくしたのは間違いだったかもしれない……)


 胸の奥から溜息がこぼれると、会いたい気持ちが、抱きしめたい想いが、ぽっかりと空いた穴から漏れ出てしまった。心臓の前で、ぎゅっと手を握る。娘の手のぬくもりが、まだ残っていた。

 手を握ったまま歩き続け、家屋の角を曲がるとタムユの店が見えた。まだ朝が早いので誰も歩いてはいないが、その店だけはさも当然のように開いている。

 だが。

 ピリッとしたものが鼻に刺さった。足が止まり、指先が震え、瞳孔が開く。反射的に筋肉がこわばる。息を殺し、耳に、鼻に、意識を集中させる。


(これは、血のにおい?)


 おそるおそる、足音を最小限にとどめて進んでいく。距離を詰めるにつれて血の味が脳を犯していく。

 そして、開いている店の中を覗いたとき、それが見えてしまった。


「タムユさん!」


 血と痣と泥でボロボロになっているタムユが、床にうつ伏せて倒れていた。


「ど、どうしたのですか!」


 汗や泥で荒れた髪が顔の大部分を隠していた。わずかに見える頬は、真っ青な痣だらけだった。


「タムユさん!」


 しゃがみこみ、タムユの体をさするが、反応はない。脈はあるようだが意識はなくなっている。


「いったい何が……」

「よお、〈魔の穢れ(マ・ゾルミ)〉」


 さあ、っと血の気が引いていく。

 ラソンは振り返る。十人ほどの男たちがいた。全員役場の人間だ。いやらしい笑みを浮かべ、店の出口を塞いでいる。

 その中央で軍を率いているのは副村長の息子であるジョーだ。


「思ったよりも早かったな。お前が来るのはもう少し後だと思っていたのだが。まあ、待ち時間が減ってくれたのだから、俺たちとしては嬉しい限りではある」


 ラソンはこの男が嫌いだった。自らの地位の上昇のためなら手段を選ばず、むしろそのために差別を利用している節さえある、この男が。

 思わず、いや、思わずでなくとも、ラソンの眉は不快の形に歪んでしまう。

 それに――。

 その後の言葉を、彼女は飲み込み、声を低くする。


「なるほど、ね」


 その声に、男たちが半歩退き、身構えたのが肌に伝わる。もう出すことはないだろうと思っていた、若いころを思い出す声色だった。

 ラソンは冷静にこの状況を読んでいた。たやすくそれを可能にしたのは、タムユが会議を盗み聞きすると事前に聞いていたからだろう。


「察しが良いようで助かる。口を動かすより、体を動かすほうが俺は好きなのでな」

「私を追い出すことが決まったのか、それとも――」

「処刑」


 人の言葉を遮って横取りするのが趣味だ、とでも言うかのような醜い言い草だった。生き物とは思えぬほどの無表情だが、言葉の端に、快楽の色が見えた。


(悪いけど――やはり、この男は嫌いだ)


 倒れているタムユを一瞥(いちべつ)する。(むな)しさ、やるせなさ、そして怒り。様々な感情が、心の奥で煮えたぎっていた。


「彼女は村長の娘のはずよ。こんなことしたら、あなたたち、村長に役場から追放されるんじゃない?」

「なにを間違っている。これは村長の命令だ」


 それは、想定していた最悪の答えだった。


「〈魔の穢れ(マ・ゾルミ)〉に肩を貸すやつも穢れだ。〈神の末裔(シン・トルファ)〉じゃない。この村には神聖なる〈神の末裔(シン・トルファ)〉しか必要がないのだよ。昨日、そう村の方針が決まった」


 村長の性格からして、自らその選択をするとは、ラソンには到底思えなかった。

 この男と副村長がそうするように仕向けたのだろう。

 きっと、正義感の強いタムユのことだから、役場でその決定がされた時点で飛び込んだに違いない。そして、この男たちに囲まれ、倒されてたのだろう。

 溜息とも舌打ちとも言えない音が、ラソンの口からこぼれた。


「悪趣味ね。私への見せしめのために、わざわざタムユさんをここに運ぶなんて」

「良い演出だろ?」

「で、ここで私を殺そうというわけなのかしら」

「解ってないな。俺は町中で白昼堂々血を流す趣味などない」

「白昼堂々でないのがお好みかしら」

「よく解ってるじゃないか」


 ジョーは血のようにねっとりと踏み出した。その動きが空気の膜となって伝わり、体中に張り付く脂汗のような嫌悪。

 ジョーを睨む。その手には、人の腕ほどの刃渡りを持つ刀が納められていた。


「娘はどこだ?」


 ラソンの瞳孔が開く。体の外へ、熱いものが噴きあがりそうになるのを、なんとか抑える。


(落ち着け、落ち着け……)


「……もしかして、娘にも危害を加えようと?」


 できるかぎり平生を装おうとしたが、声は震えていた。


「親子共々、という村長の命令だ。将来何をしでかすか、判らぬからな」


 親子共々。

 舌の上で苦みを転がし、眉をしかめる。


(この男の残忍性と人心操作の力は……)


 怒りなのか情けなさなのか。そこに生まれたのは、形状が不透明な、灰色の感情だった。

 シオリの笑顔が、その中で輝いた。我が子でなければ気づかぬほどの、かすかで、巨大な光。


「残念だけど、娘はもうこの村にはいないわ」

「なぁるほど」


 全てを見透かすような憎たらしく見下した眼球だった。


「それは残念だ。昨日の夜に来ていた、あいつが連れて行ったのか?」


 木の棒で打ちつけられたような痛みが胸に走った。

 ラソンの驚いた顔へ、ジョーはかすかに口元を釣り上げる。

 ひとつ息をついて、ラソンは口を開けた。


「……ということは、あのときの影はあなただったのかしら」

「ご名答」

「あなたの間抜けな逃げ腰を拝められて嬉しい限りね」


 にっこりと笑い返すと、ジョーは顔を歪め、唾を吐いた。


「ムカつく女だ。まあいい。ひとつだけ聞こう。お前とあいつは何を企んでいる?」

「私が考えているのは、シオリの幸せだけよ」


 泣けるねえ、と歌劇じみた仕草を取るジョー。普段ほとんど表情を動かさないこの男の、大げさなそれは、吐き気がするほど気味が悪かった。

 一歩一歩、近づいてくる。とうとうラソンの隣に立ち、タムユを見降ろした。


「無駄話はこれくらいにしようか。そろそろ民が動き始める時間だ」


 ジョーは気絶したタムユの首に刀を当てた。


「素直に来てくれるな?」

「……はい」


 ジョーの口元に、彫りの深い皺が寄る。


「連れて行け」


 抵抗することはできた。だが、それはしたくなかった。煽るような目線を送ってくるジョーの好きなようにはさせたくなかった。

 殴りたい……。

 その衝動を、必死に堪える。

 ラソンは他の男によって手錠を掛けられ、拘束された。タムユは別の男の肩に担がれた。


「手錠って、冷たいのね」

「なかなか味わえないだろ? 感謝しろよ」


 ジョーやその取り巻きたちが揃って歩き始めたのを確認して、ラソンは密かに安心した。シオリがまだ村を出てすぐのところにいるとは、悟られていないようだった。

 このまま役場へ連れていかれ、私の命が奪われる頃にはもう、シオリたちは出発しているはず。

 これでいい。

 これで、良かった。

 娘を護ることができた安堵感に小さく息を吐くラソンも、今晩の酒の味を想像する男たちも、気づいていない。

 気を失っている女の指が、男の背中で小さく震えたことに。

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