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ゲット・アウェイ・ガールズ  作者: 中條利昭
第二部 〈狂獣〉篇
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閑話 読書家シオリ

 夜寝るのが遅かった朝はなかなか目が開いてくれないのに、朝早く起きてしまったときは妙に意識が冴えているのは、どうしてだろう。

 そんなことを思いながらシオリは体を起こす。まだ陽は昇っていない。遮光カーテンを開けると、冷気がシャツの下に潜り込んだ。遠くの空が赤みがかっている。赤く染まった木々が枯れ始めていることが、こうして高いところから町を見ているとよく判った。


(もうすぐここに来て一年)


 できるだけ下を見ないようにしながらカーテンを再び閉じる。時間も早いし、もう少し横になっていようかと思ったが、やめた。茜色の毛糸で編まれた上着を羽織り、上履きを履いて部屋を出る。

 用を済まし、顔を洗う。部屋に戻って本を読もうと思うが、いま手元にある本は読み終えたばかりだった。次の本を図書館から借りてきていない。図書館に行くには渡り廊下を超えなければならないが、この時間は寒いので行きたくなかった。

 部屋に戻ろうかと階段を横切ったとき、階下から光が漏れているのが見えた。


(マーラさんが朝ごはん作ってるのかな)


 目も冴えているし、手伝いに行こうか。

 手すりに手をかけとき、シオリは違和感に気づいた。

 料理をする音が聞こえない、と。

 マーラがご飯を作っていると、このあたりでは鉄板や包丁の音が聞こえるものだが、それがないのだ。

 別の部屋の電気かもしれない。ユリアたちを起こしてしまうのも悪いので、あまり音を立てないように階段を降りる。気を使っているだけなのだが、悪いことをしているような気持ちになって、ちょっとだけワクワクした。

 電気はやはり食堂から漏れていた。一階まで来れば二階以上で寝ている人を起こしてしまう危険性もないだろう、とシオリは普段通りに歩き、食堂の戸を叩いた。


「はい」


 マーラだ。

 シオリはゆっくり戸を開けて頭を下げた。


「おはようございます」

「あら。おはよう、シオリちゃん。どうしたの?」

「ちょっと早く起きてしまいまして。もう一度寝る気にもなれず廊下に出たら明かりがついていたので、来てみました」

「たまにはそんな日もあっていいのかもしれないわね。お茶、淹れてくるね」

「あ、いえ。お構いなく」

「シオリちゃんは偉いね。ゼンなら喜んで甘えるでしょうに」

「あはは……」


 マーラは手元に置いた本を、再び手にした。シオリからは単行本の表紙上部の『エスケープ』という文字が見えた。


「もしかして、『エスケープ・ザ・ワールド』ですか?」

「ええ。シオリちゃんは、読んだことある?」

「はい。内陸部を放浪していた頃に三巻まで読みました」


 あの頃は時間が余るほどあったため、各々適当に娯楽を探していた。シオリがもっとも時間を費やしたのが読書だ。

 『エスケープ・ザ・ワールド』を見つけたのは平凡な民家だった。作家名がランフ国らしいものなのにタイトルが英語であることが珍しくて手に取ったのだ。

 あらすじを説明するのは、難しい。娯楽性が低いからだ。しかし近未来的な世界観ながら描写などが妙に現実的で、唯一無二と言えるほどの変わった魅力があった。


「シオリちゃんの歳の子が読むには難しい気もするけど、さすがね」

「ありがとうございます。読書には小さな頃から親しんでいたので」


 舞台は現実世界とよく似ている。英国と呼ばれる国も存在している。しかし英国は決して大きな国ではない。ただし英語は世界共通言語だ。

 世界でもっとも力を持っている大国が、元々は他の国々の植民地で歴史が浅いという設定は奇抜だった。多くの小さな国が手を取り合い、それぞれの文化や法律を残したままひとつの国として統一し、世界一影響力を持つ大国となったのだ。

 舞台となる島国を含め、英語圏以外の国で勉強される英語は、多くの場合その国の訛りらしい。まるで英語という名前の言語が英国発祥のものではないかのように扱われることは奇妙とさえ言える。

 異世界の物語なのに「英語」「英国」など現実と同じ言語や用語が登場するところは、おそらく好みが分かれるだろう、とシオリは感じていた。

 作中の時間は巻を進めるごとに緩やかに進んでいく。世界情勢も著しく変化していく。しかしそれらは背景に過ぎず、物語は普通の人たちの普通の生活に焦点が当てられている。

 特に主人公たちの周りに大きな出来事も発生しないため、この話の設定が単なる突飛なものあればそれほどの魅力はないだろう。この話の最大の魅力は、ひとつひとつの出来事に複雑な事情が織りなす理由が感じられることだ。海の向こうで起きた災害がテレビに流れ、それを「あらあら」と他人事のように聞きながらも、しばらくするとその国の農作物の値上がりが描かれたり。しかしそれが物語の主軸に影響を与えることはない。ただ、主人公ではない誰かの人生や仕事に大きな影響を与えているのだろうと、想像を膨らませざるを得ない力がある。


「三巻といったら、携帯電話が仕事の場に普及し始めた頃かしら」

「はい。あの頃は私たちの世界でも携帯電話が存在してましたが、携帯するには大き過ぎましたし、手のひらに収まるほど小さくなるなんて考えられませんでしたが、実際になりましたね」

「四巻ではテレビがテーブルみたいに薄くなってるの」

「へえ」


 四巻以降は見つけられていなかった。三巻の発刊が八年ほど前だったため、続きが出ているか三巻で終わってしまったかのどちらかだと思っていた。


「今は何巻まで出ているんですか?」

「この間ちょうど十二巻が出て、いま読んでるところ」

「そんなに進んでいるのですね」

「ええ。最新の十二巻ではね、携帯電話からボタンがなくなってるの」

「え?」

「スクリーンだけになるの。そのスクリーンを触って直接操作するんだって。すごいよね。しかも大人から子どもまで誰もが持つものになってて」


 本当にそんな日が来るなんて、とてもじゃないけど信じられないわ。

 マーラは興奮気味に破顔する。


「精巧に練られた背景や登場人物たちの人間関係、感情の機微の練られ方が広く評価されているけど、新刊が出るたびに『馬鹿馬鹿しい』って批判が沸くのも面白いよね。あの舞台では当たり前のことだから原理が説明されるわけでもないし。でも、『エスケープ・ザ・ワールド』序盤のサイエンス・フィクションに、今や時代が追いついてるのも事実で」


 まるで予言書みたいで面白いわ、と。


「単なる希望あふれる未来予測じゃなくて、それに伴う社会問題なんかがうっすら出てくるところも興味深いのよね。技術がどんどん明るくなっているのに、社会がどんどん暗くなってるようにさえ見えるし。最新刊なんて――ネタバレになっちゃうわね。ごめんなさい」

「いえ、お気になさらず」

「いつも思ってるんだけど、シオリちゃんの歳でそんな丁寧な言葉を自然に使えちゃうの、すごいね」

「そうですか?」


 村にいた頃、母とよろず屋のタムユがお互い敬語で話していることに憧れを覚え、シオリは真似をするようにして自然と敬語を学んでいた。現在はマーラの授業や空き時間の読書で敬語の勉強をしている。相手を立てる表現や自分を遜る表現の美しさが、シオリは好きだった。ユリアは頭を抱えて発狂するほど苦手だそうだが。


「もっと砕けててもいいのよ。みんなわたしたちに敬語を使うけれど、家族みたいなものだとわたしは思っているから」

「私もそう思っていますが、その……気恥ずかしくて」

「かわいい」


 微笑むマーラに、シオリは顔を熱くする。


「と、図書館には置いてないですよね。『エスケープ・ザ・ワールド』」

「置いてないわ。でもわたしの部屋には全巻あるから、貸しましょうか?」

「いいんですか?」

「もちろんよ」


 止まっていた物語が、再び動き出す。

 言葉にならない静かな興奮が、シオリの中に広がっていた。口角が自然と上がる。

 マーラも嬉々とした表情を浮かべていた。


「身の回りに読んでる人がいなくて寂しかったから、いっぱいお話ししましょうね」

「はい!」


 窓の外が明るくなり始めていた。ここに来て一年近く経過したが、この時間の食堂の景色は初めて見たかもしれない。

 たまには早起きして活動するよう心がけよう。

 意外な出会いや発見があるかもしれない。

 シオリは決意する。


「楽しみがひとつ増えたわ。さっそく本を取りに行きたいけど、その前に朝ごはんの用意をしましょうかしら」

「お手伝いします」

「あらら。お言葉に甘えちゃおうかな」


 つらいことや悲しいことを乗り越え、シオリはここまでやってきた。その苦労は無駄じゃなかったんだと、改めて感じる。

 未来への悩みや不安はある。過去を思い出してモヤモヤすることもある。だからこそ、それを忘れられる時間が輝いて感じられる。

 いまは、ゆっくりしたい。もう少しだけでいいから。

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