第四章 1、獣たち
〈神の新砦〉本部から車で一時間。国随一の都市ホルンを南へ抜けたところにある村が、狂った獣の集団を目撃したという村リュートだった。
村の長へ簡単に挨拶を済ませ、シオリとユリア、ゼンは再び車に乗っていた。
「ちょっと嫌な感じだったね、あの人」
「うん。怪しんでたね。コンタクトレンズつけ忘れたのかと思っちゃった」
「しゃあないって。怖い思いしてるところ助けを呼んだのに、いざ来たのが文字通りの女子供やねんから」
この村は広かった。敷地のほとんどが畑か水田であるため、のどかだった。建物はホルンのように向きを揃えておらず、まばらに建っている。雰囲気は内陸部によく似ているが、どこからどこまでが村の領土なのかが目でわからないところは臨海部っぽかった。内陸の集落はどこも森に囲まれており、森の中は具体的に線が引かれていない。学び舎の先生の中には『共有の土地』と言う人もいれば『動物たちの土地』という人もいた。しかし臨海部にはそのような曖昧な場所がない。境が目に見えず、移動する感覚が曖昧だ。
シオリは「臨海部という言葉はこちらでは使われない」「あえて言うなら都市部だけど、都市じゃないところもある」とユメが言っていたのを思い出していた。ここはまさにそのような場所だ。
「今後こうやってどっか訪問することはあると思うし、ああやって煙たがられることもあるやろうけど、気にせんほうがええで。きっちり仕事して実力見せつけたったらええねん」
もうじき着くで、とゼンは走る速度を緩める。
右にも左にもフェンスが途切れなく伸びている場所だった。向こう側は森が深い。このフェンスは〈あの光〉以前から敷かれていたのだろう。
「ぎょーさんの狼が目撃されたのはこの辺みたいやな。人家もすぐそこにあるし、ここらの人からしたらたまったもんやないやろなあ」
「フェンスを飛び越えてこなかったのが不幸中の幸いですね」
「せやな」
車から降り、フェンスの前に立つ。本当は境界の門から内陸部に入ってここの向こうに迂回したかったのだが、残念ながら車が通られるような道がこのあたりの内陸側にはなかったのだ。
というわけで、このフェンスをよじ登っていくことになった。
「年甲斐もなくちょっとワクワクするなあ。おふたりさんは大丈夫やとして、ウチが登ると重さでフェンス壊れへんかな。あ〜、昨日おなかいっぱい食べたのが悔やまれる」
「それくらいじゃ変わらないですよ」
苦笑すると、ゼンは嬉しそうに笑った。
無事にフェンスを乗り越えて境界の森へ入り進んでいく。禁止されていることを行うとき特有の高揚感があった。
幹に傷がついた木がところどころ見受けられる。狂った獣は臨海部の人間だけでなく内陸部の自然にも影響を与えているようだ。
一時ノ二折(約十五分)ほど歩くとゼンが「もうそろそろ最終兵器出すか」と立ち止まった。
「最終もなにも、まだ始まってませんが」
「気にすんな」
こうして内陸部を歩いたところで狂った獣に遭遇できるかどうかは怪しかった。政府による内陸部の調査でもそう頻繁には出くわさない、とサルコウが言っていた。サルコウはよく政府の調査に同行しているため、情報が入ることがあるのだ。
そこでゼンが提案したのが、その最終兵器だった。
彼女はポーチからハムを取り出した。朝食によく登場する、円くて薄いハムだ。それを一枚一枚あたりにばらまく。合計二十四枚。
「これでどや。おなかすかせて来るやろ」
「原始的な手法ですね」
「こんな美女が三人もおる上にハムにも寄って来んかったら、今度からあいつらのこと『特殊性癖』って呼ぶわ」
「やめてください」
肩を落とした直後、三人は同時に息を止めた。かすかに音がしたのだ。音は遠い。
ここへ来る道中でゼンが言っていた。警備兵の多くが口を揃えて『遠くで動物の気配を感じた直後に奴らは走り寄ってくる』と。普通の肉食動物ならしばらく様子を伺って来る、と。シオリはあまりそれを意識したことはなかったが、思い返すとそのパターンの記憶が強い。
今回は走り寄って来なかった。しかし茂みの中から睨まれているのは伝わる。ただの狼だろうか。
そもそも狼は肉食だが人を襲うことは珍しいと言われる。内陸に住んでいて狼に襲われたという話は聞いたことがなかったし、挑発したりこちらから無理に近づくことさえしなければ危険はないとも教わってきた。
だからシオリは、この時点で相手は狂っていると思っていた。また、このドロっとした血なまぐさい視線は、奴らのものだと確信を持てるものだった。
しかし狼はなかなか近寄ってこない。姿を現さない。
ゼンがつぶやく。
「狂ってない動物か思ったけど、この目は嫌な感じやな」
シオリは頷く。
茂みをゆっくりと動く音は絶え間なく聞こえる。確実に少しずつにじり寄ってきている。理性を失った彼らではありえない行動だった。
そうして時は粘るように過ぎていく。
「どっちや」
まだその姿は見えない。
狂った獣が群れているというだけで、これまでとは違うものをシオリは感じていた。いま目の前にいる相手は群れではないが、そのぶん別のところにその嫌な予感が移行したような感覚だ。
(……ちょっと待って)
たったいま、彼女は何かに触れた気がした。思い違いをしているような。
(――そうだ)
どうして相手が一匹だと思っていた?
刹那、背後――すぐそばの茂みが揺れた。
彼女たちがそれに気づき振り返った頃には、獰猛な狼の牙がシオリの眼前に迫っていた。
その顔面を、シオリは横から殴る。眼の下の毛皮に拳が食い込むと、狼は木の幹へ体を打ち付けた。
「危なかった……」
シオリは胸を撫で下ろす。背後の敵の可能性にいち早く気づくことができなかったら危なかったかもしれない。
「ナイスや、シオリ」
「ありがとうございます」
しかし安堵は束の間だ。狂った獣は体を強打されたくらいではびくともしない。また、先ほどから茂みを揺らし続けてシオリたちの気を引きつけていたもう一匹が俊敏に駆けてきた。
「来たな特殊性癖」
「来たのに結局そう呼ぶんですか」
「そっちは頼んだで」
ゼンは走り寄る狼へ向かって跳んだ。
彼女が狼の顎を蹴り上げるのと、シオリが食らいついてきた狼を再び吹き飛ばしたのが、ほぼ同時だった。
その直後。
「もう一匹来ました!」
ユリアが指を差すが、
「もう一匹ちゃうで」
その背後にはさらにもう一匹。
それどころではない。
四方八方から草を掻き分ける音が聞こえてくる。
「囲まれてますね」
腰の剣を抜き、振るう。狼が後方へ跳ねて避けると、シオリもユリアの元へ退いた。
「これだけおると、あんまり躊躇してられへんな」
ゼンも剣を取り出して薙ぎ払う。その一振りは避けられてしまうが、ゼンの剣さばきは軽やかだった。
「あんまり綺麗に死なせてやれんで、すまんな」
大きく踏み込みながらの突きは、狼が地に足をつけるより先に、首を刈り取った。血しぶきを避けるように、ゼンはシオリたちの元へ戻る。
「うじゃうじゃおるな」
「そうですね。たぶん、十以上は」
「罠でしょうか」
動物が罠を仕掛けてきている。普通の動物ならまだしも、相手は狂った獣。
(おかしい)
シオリの抱く違和感は、全員が共有していることだろう。事実に直面しているというのに現実のこととは思えなかった。
三人は互いに背中を合わせ、視覚を補う。それぞれ剣を構え、感覚を研ぎ澄ませる。
奇襲を仕掛けて来た一匹も唸りながら距離を取り、ほかの仲間が近づくのを待っていた。
「ユリア、無理はしないでね」
「わかってるよ。でも、ユリアだって戦えるんだから。あんまり甘やかさないでね」
「うん、期待してる」
グルル、と唸る声が次々と近づいていく。木の上には数匹の猿がいる。弦をピンと張ったような睨み合いが続く。
合図はなかった。いや、それはシオリたちに聞こえなかっただけかもしれない。
獣たちが一斉に襲いかかる。表情は狂気に満ちているというのに、その動きはあまりに統率が取れていた。
まるで操られているかのように。




