第三章 6、鍵を開けて
朝食が半分残ったお盆を枕元に、フミは布団に潜っていた。部屋はストーブで暖かいし、布団も暖かいけれど、ときどき震えるほど寒く感じてしまう。
メアリがドアの前に置いてくれる食事は、おなかが減ったときだけでも取りに行きたかったが、体がだるくて布団から出られないこともあった。今朝は比較的良好だったので取りに行けたが、肝心の食欲はあまりなかった。
マーラのご飯は美味しい。これを、以前のようにみんなとお喋りしながら食べたい。彼女は心から思っているのに、どうしても体が動いてくれない。ムチに打たれた痛みや、正体のわからない痒みにのたうち回って布団から飛び出して、そのまま戻れない時さえあった。
みんなと合わせる顔がない、とか。みんな危険な目に遭わされて自分を恨んでいる、とか。
そんなことを本気で考えているわけじゃない。
誰も気にしていないことくらい、わかっている。
フミもみんなに会いたがっている。みんなもフミに会いたがっている。
それくらいわかっているのに。
(なんで動かないの、わたしの体)
汗や涙で枕が湿気ていた。気持ち悪い。枕を脇によけてうつ伏せになる。腕に顔を埋めた。
そうしていると、階段を上がる足音が聞こえてきた。それが廊下を歩くものに変わり、近づいてくる。このゆったりとした優しい音は、きっとメアリのものではない。
扉がノックされる。
「フミちゃん。ちょっとお話しない?」
マーラだ。
いつもご飯を作ってくれてありがとう、と言いたい。
こんな仕事のできない役立たずを捨てないでくれてありがとう、と言いたい。
でも、声が出ない。
「今日は朝からいろいろあってね。いまここにはわたしたち二人しかいないの。サルコウさんは政府に呼ばれてるし、ゼンやメアリちゃんたちも緊急のお仕事に行っちゃってね。こんなときに限ってやるべき事務仕事もあまりなくて。退屈だから、ちょっと付き合ってくれないかしら」
緊急の仕事ってなんだろう。
疑問符が浮かび、すっと鬱屈な闇に消えていく。ストーブの暖かさ、鳥のさえずり、ふとした疑問。すべてが、ただの無機質物質へと果てていく。
「そうね、どんなお話をしようかしら。あんまり考えずにきちゃった。うふふ、ごめんなさいね」
茶目っ気のある言い方に、フミの頰がかすかに緩んだ。
「もうすぐ春ね。日中はときどき、ちょっとだけだけど陽気を感じるようになってきたわ。中庭の花壇にも、じきに芽が出てくるんじゃないかしら。フミちゃんはお花、好きかしら。シオリちゃんとユリアちゃんは造花のかわいいブレスレットつけてるから、お花好きそうよね。意外とメアリちゃんが一番詳しかったりして」
頰がさらに緩んだ。声を出して笑いたい自分がいる。でも、それを押さえている誰かがいる。
「今日ね、メアリちゃんとお喋りしたんだけど、いい子よね。見た目はちょっと怖いし、実際にやんちゃしてたみたいだけど、話すとすごく素直でいい子。フミちゃんたちのお姉ちゃん、って感じよね。一周通り越してお母さんに見えるときさえもあるわ。ほんとしっかりしてる。尊敬しちゃう。一緒にいればいるほど、好きになっちゃう。フミちゃんはメアリちゃんのこと、好き?」
好き。
大好き。
面と向かっては言えないけど、大好きだ。大切な人だ。
(メアリさんがいなかったら、きっとわたしはもう死んでいる)
「メアリちゃんは海外に行きたいみたいね。貧しい人を救いたい、って。すごく立派な夢。わたしも若いときは海外に憧れを持っててね。英国に留学までしたの。向こうはすごく魅力的で、楽しかった。刺激的だった。ずっと住みたい、って思った。でもわたしは〈神の七砦〉の家柄だから、外に住むことは許されなかったの。なにかあったときにこの国のお手伝いをする使命があるから、って。勘当されてでも海外に住んでやる! って思ったりもしたけどね。結局親の言う通りにして、自分の夢を折っちゃったの。いまこの緊急事態に〈神の新砦〉としてここにいるわけだから、親が正しかったってことになるんだけど」
フミもずっと親の言う通りにしてきた。自分の気持ちを自ら折りながら暮らしていた。
ときどき自分の気持ちに素直になったけど、その結果たくさんのものを失ってしまった。
心を表に出す勇気をなくしてしまったフミに、その勇気を取り戻してくれたのは、メアリだった。
「夢を持った人って、キラキラしてるよね。メアリちゃんがすごく羨ましい。絶対に夢を叶えてほしいなあ。だからわたしは、あの子に英語を教えることで、背中を押すことにしたの」
英語を話せるって言ったときのメアリちゃんはかわいかったわ、とマーラは笑う。その破顔した表情がドア越しに見えた気がする。
そこで初めて、フミは自分が仰向けに寝返りしていたことに気がついた。
「フミちゃんは、夢、持っているかしら。嫌じゃなかったら、聞かせてほしいな」
具体的な夢は何もなかった。でも、自分を救ってくれたメアリと一緒に海外に行って、メアリの手助けをしたい。
それは、果たして夢と呼んでいいいのだろうか。
「夢ってね、どんなことでもいいの。世界を救いたい、っていう壮大なことでも、誰かにとっての大切な人になりたい、っていう些細なことでも。いまのわたしの夢は、メアリちゃんやフミちゃん、シオリちゃん、ユリアちゃんの力になりたい、ってこと。自分が中心にいないような些細な夢だけど、体の底から力がみなぎってくるわ」
体の底から、力が。
久しい感覚だった。
(わたしの夢は――)
「メアリさんを、支えること……です」
自分の耳にすら届かぬ、掠れた音だった。マーラの元には到底届いていないだろう。しかし、マーラはその言葉の続きに耳を傾けているかのように、それ以上話さなかった。
「わたしも、マーラさんと同じ……自分のない卑小な夢、です」
少しずつ喉を通る息が大きくなっていく。
「だから、いまは、わたしを助けてくれた……メアリさんに、恩返しをしたい」
声の掠れが消え、代わりに眼球に涙が溜まっていく。
「メアリさんと一緒に、どこへでも行きたい。一緒に海外に行って、一緒に誰かを救いたい。メアリさんが、大好きだから」
「立派な夢ね」
その一言は、まるで抱擁のような温もり。
「ずっと思ってたの。わたしとフミちゃんはどこか似てる、って。まだお互いあまり詳しくないけど、これからいっぱいお話すると、共通点がどんどん見つかっていくかもしれないわね」
「はい」
「もしよかったら、顔を出してくれないかしら。お顔を見ながらお話ししたいわ」
フミも顔を出したいと思っていた。マーラの顔が見たい、と。でも、
「体が、動いてくれないんです」
足に力が入らない。腕にも、胴にも。さっき寝返りを打てたのが不思議でならないほど。
「動きたいのに、動けないんです……。まるで鍵を閉めたみたいに。でも、その鍵が見つからないみたいに」
「フミちゃん」
その一言を最後に、扉の向こうが静かになった。十数秒の間だった。
ゆっくりと、そして柔らかく、マーラが続ける。
「その鍵を開けてあげたいわ。でも、わたしには、それはできない。自分の鍵を開けられるのは、自分自身だけなのよ。だって、あなたの扉の鍵を持っているのは、あなただけなのだから」
フミは胸のお守りをぎゅっと握る。
この閉ざされた扉は、きっと心の扉だ。動かないのは体だけど、原因は心の扉だ。きっと。
恐ろしい力を持つ自分を、誰も恨んだりなんかしていない。
そんなことは判っている。判っているけど、誰かが耳許で囁くのだ。
――そんな力を持つお前は生きてはならない。
――人の前に出てはならない。
――このまま憔悴して死すべきだ。
「みんな扉を開けたいの。でも探せども探せども鍵は見つからない。この部屋にあるはずなのに。他の人にできることは、見落としがちなところを教えてあげることだけ。ズボンのポケットの中にはない? 玄関の靴箱の上にうっかり置いちゃってない? 案外、テーブルの真ん中に堂々と置いてあったりしない? 実はもう、手に取ってたりしない?」
もう、手に――。
――この扉の向こうにいる者が、お前の母のようにムチを持っていないとは限らない。
また誰かが囁く。
(マーラさんは、そんな人じゃない……)
――なぜそう思う。
(うるさい……。邪魔をしないで。わたしの周りにいる人は、みんないい人なんだから)
――信じれば信じるほど、裏切られた時の衝撃は計り知れないだろう。
フミは気づいた。ああ、そうか、と。
(あなたは、怖いの?)
――なに?
(そう、あなたは怖がっているんだね――いえ、あなたはわたし。わたしはあなた。怖がっているのはわたし)
黒い靄が見える。人の形をした、黒い靄。あれはきっと、わたしの本心。
マーラの暖かさを思いながら、語りかける。
(ありがとう。あなたは、わたしを護るために鍵を握っているんだよね)
――。
(でも、もうだいじょうぶ。ごめんね、あなたから目を逸らし続けちゃって。強大な力を持つあなたを無視しちゃって)
歩み寄っていく。足の裏の冷たさをしっかり感じながら。
(怖かったよね。わたしも怖いよ。ほんとうはみんなわたしを疎んでるんじゃないか、って。でも、それは実際に聞いてみないとわからない。聞いてみてもわからないかもしれない。でもね、たとえみんながわたしを憎んでたとしても、怖がっていたとしても、これから光を積み重ねていけばいいの)
フミは、彼女を抱きしめた。
(ありがとう。これから一緒に歩んでいきましょう)
鍵が開かれた音がした。
フミの前にもう黒い靄はない。
涙でぼやけた、いつもの教室だ。メアリやシオリ、ユリアとおしゃべりしたり、遊んだり、お泊まりしたりした、いつもの部屋。
布団を剥がして立ち上がる。ふらついたけど、倒れなかった。フミの体は、もうひとりじゃない。
木製のひんやりした床が気持ちよかった。
ドアのすりガラスにマーラの輪郭が映る。目に溜まった涙が頰を伝う。
鍵を開け、ドアを引く。
部屋に陽が差した。暖かい。
マーラが微笑む。
「よく頑張ったね、フミちゃん」
「マーラさん……」
フミはマーラの胸に飛びついた。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
「なにも謝ることはないわ。これから積み重ねていけばいいんだから」
頭を撫でてくれるマーラの手は大きかった。
ずっとこうしていたくなる。甘えていたくなる。でも早くみんなに謝らないと。でも、やっぱり、もう少しこうしていたい。
顔が熱くなってきたとき、マーラが話し始めた。
「そのメアリちゃんなんだけどね。さっき緊急のお仕事に行っちゃった、って言ったじゃない。ゼンとシオリちゃんユリアちゃんはそのお仕事に行ったんだけど、メアリちゃんは別件で出て行っちゃったの」
「別件……」
マーラの胸から顔を離し、見上げる。
「ここでわたしとお留守番する予定だったんだけど、ついさっきお客さんが来てね。メアリちゃんを連れて行っちゃったの。ほんとうはフミちゃんも一緒に連れていきたがっていたんだけど、メアリちゃんが『お前らなんてオレひとりで充分だ』なんて強がっちゃって」
「え」
連れていく? ひとりで充分?
「訪ねてきたのはひとりだったんだけどね。名前は、ごめんなさい、覚えてないわ。でも、メアリちゃんがその子に触れた途端、ふたりともどこかに消えてしまった、って言ったら、フミちゃんなら伝わるかしら」
嫌な鼓動が胸を叩いた。
(もしかして――)
「マヤさんと、マユさん?」
「そうそう、そんな名前だったわ。お手合わせ願いたい、ってメアリちゃんを連れていったの」
二年半前、ルーインに捕らえられたときに一緒に暮らした双子。優しくていい人だったけど、実はルーインたちの仲間だった。
あれ以来彼らは接触してこなかった。
どうして、いま。
「訪れてきたのはひとりだけでしたか」
「ええ。髪が長くて大人っぽい子だった。歳はメアリちゃんより少し下くらいかしら」
マユだ。ということはきっと、どこか遠くにマヤがいて、そこへ瞬間移動したのだろう。
「居場所はわかりますか」
訊きながらも、その望みは薄いと思っていた。しかし、
「わかるわ。メアリちゃんは内陸部にいる。無線を持って行ってくれたから、場所がわかるの」
無線には発信機がつけられていた。緊急事態があったときに効率よく仲間を呼ぶためだった。
「ひとりで充分とか言いながら、充分じゃなかったときのことまで考えてるなんて、ちゃっかりしてるわよね」
「ほんとですね。メアリさんはさすがです」
「じゃあ行きましょうか。わたしの車で向かいましょう。急げば二折(約十五分)くらいで着くと思うわ」
でも――。
居ても立っても居られないというのに、ふとフミの心に陰りが生まれた。
「わたしみたいな役立たずが行っても、邪魔にならないでしょうか」
「なるわけないじゃない」
即答だった。
「フミちゃんがいるだけで、きっとメアリちゃんの力は百倍増しよ。それに、力を持っていようと持っていなかろうと、人の役に立てるかどうかは、いつだってあなた次第なんだから」
「……はい!」
廊下を走り、階段を駆け下りる。
一回の渡り廊下の靴箱に置かれた車のキーを取り出し、駐車場へ向かう。
マーラの車は丸っこい軽自動車だった。セリュウやゼンの車は怪我人を運べるように大きいが、マーラは買い出しでしか車を使わない。そのため軽量のモデルを使っているのだ。
「あっ!」
車に乗ろうとしたところでマーラは翻った。
「しまった! わたしの車じゃ内陸部には入られないわ。わたし門番の方と顔見知りじゃないから、証明書持ってこなくちゃ」
現在内陸部に入ることが許されているのは政府の側の人間のみだ。〈神の新砦〉もその一員に入る。しかし、その証明書がなければ入られない。ゼンやセリュウは門番に顔が知られているため何もなくても入られるが、マーラではそうはいかないのだ。
「しかもサイレンがないから急げないじゃない! 一刻を争うっていうのに。ああ、セリュウくんの車のキーさえあれば万事解決なのに」
セリュウは待機している自宅と本部にそれぞれ車を持っていた。正確には自分の車は自宅の一台のみで、本部の車は〈神の新砦〉のものだ。普段はセリュウ専用であるため、彼はその鍵をいつも持ち歩いている。
「本部の備品なんだから本部に置いておいてほしいってあれほど言ったのに!」
珍しく慌てるマーラに目を丸くしつつ、フミはセリュウの車に目を向けた。
車の鼻の部分に、鷹を模した銀のエンブレムがついている。ランフ国最大の自動車メーカーであるフィル社の象徴だ。古語で「風」を意味し、英語で「心が満たされる」を意味するフィルという言葉が社名の由来。
「証明書取ってくるから待っててね」
「待ってくださいマーラさん!」
フミはセリュウの車へ駆け寄りながら、懐に手を入れる。
「フミちゃん?」
彼女が取り出したのは、お守りだ。いつも肌身離さず持ち歩いている、祖父がくれたお守り。
それの口を開き、指を入れる。その指が掴んだのは、小指ほどの金属部に円形の黒い取っ手がついた鍵。車のキーだ。フィル社の鍵を製造していた祖父が遺したマスターキー。
車の鍵穴へそれを差し込み、回す。ガチャリと重たい音が響くと、フミは運転席の扉へ手をかけ、開いた。
「マーラさん、どうぞ!」
「あらまあ」
戸惑いながらも運転席に乗るマーラ。彼女にキーを渡し、フミは反対側から助手席に乗った。内陸でずっと乗ってきた車に比べ、景色が高くて広い。
ギュリリ、と音を立てて始動するエンジン。大きい車ならでは迫力のある音だった。
「やっぱたまらねえな、この音」
「ん?」
誰の声?
隣のマーラを見上げる。車内には彼女とフミしかいない。吊り上がる口角からは八重歯が光っていた。
「フミちゃん、グローブボックスからパトランプ出してくれ」
「え、あ、はい……?」
助手席前の収納スペースからそれを取り出し、疑問符を浮かべながらもマーラに渡す。その疑問符はもちろんパトランプに対してではない。
「サンキュ」
パワーウィンドウを開き、それを車の天板に取り付け、サイレンを鳴らす。至近距離からのそれは耳をつんざく。窓を開けていると溜まったものではない。フミは顔をしかめるが、マーラは窓を閉めながらも興奮を噛み締めるように歯を見せていた。
「ヒャッハー! 久々に興奮してきた! 行くぜフミちゃん!」
「え、誰」
アクセルが一気に踏み込まれ、ハンドルが豪快に左へ回される。甲高いドラフト音に体を引っ張られながら、マーラ(?)とのドライブが始まった。




