第三章 4、夢のために
狂った獣の討伐に内陸部へ入る計画は、翌日に実行されることになった。
そのことがメアリらの耳に入ったのは、その「翌日」たる日の朝食後。
「もうですか」
「複数の狂った獣たちが目撃されちゃってね。場所はここから車で三十分くらいのところにある、内陸のフェンスのすぐそばの村なの。フェンスが頑丈なところだとはいえ、いつ乗り越えてくるかもわからないからね。村の人たちとしても、政府としても、早くなんとかしたいみたいなの」
「政府としても、か」
これまで散々胡散臭かった上に、ユメの件でさらに政府は疑わしい。
また、この日サルコウが早くから出かけていた。政府に呼ばれているのだ。
「気持ちはわかるけど、疑いすぎも良くないと思うわ、メアリちゃん。情報は政府を介しているとはいえ、今回は民間の村からの要請なんだから」
形式上〈神の新砦〉は政府の機関だ。情報が村から直接来るのではなく政府から来るのは仕方のないこと。
「……ですね。さすがの政府もあいつらを操ってるわけではないでしょうし」
少々興奮気味になってたな、とメアリは思う。ずっと頭のどこかにフミのことがあって、あいつを救いきってやれなくて、冷静な判断ができなくなっている。
「いまからゼンを叩き起こしてきますね。シオリちゃんとユリアちゃんはゆっくり準備してきて」
「あれ、メアリは」
「メアリちゃんには待機してもらうわ」
「え?」
驚くメアリ。シオリとユリアはあまりそのような様子はなく、むしろ腑に落ちるような顔を見せた。
ユリアが得意げに言う。
「全員が出ちゃうと、いつもみたいに出動命令が来たら対応できないから。ですよね、マーラさん」
「正解よ、ユリアちゃん」
「やったー!」
「理屈はわかるが、ユリアに指摘されるのは屈辱的だな」
「なんで⁉︎」
そうは言うものの、きっとそれだけではない。
マーラに目を向けると、視線があった。ふふっ、と上品に笑う。
一時間後、マーラがあえて言わなかったことを、ゼンは堂々と言った。
「フミになにかあったときに守ってやれるのはメアリ、お前だけや。もし出動命令がきたらセリュウに向かうよう言ってあるから心配すんな」
この日、セリュウは自宅待機だった。昼以降は本部にいることも多いが、一日中こちらに来ないこともある。ここのところはメアリらに仕事を任せているおかげか、本部に顔を出すことは以前よりも少なくなっていた。
「頼むで。いってきます」
ゼンが大きく手を振ると、つられてメアリも控えめに手を振る。
ゼンはともかく、シオリとユリアは大丈夫だろうか。
メアリは危惧していた。
このあいだの猿の奇襲を除くと、複数の狂った獣と同時に戦ったことはなかった。なぜなら彼らは群れないからだ。群れるより先に殺し合いを始めるだろう。
そんな獣たちが複数いることには誰もなにも言わなかったが、「複数の狂った獣たち」と聞いて全員が違和感を覚えていたはずだ。そもそも普通の獣と狂った獣の外見上の違いはほとんどない。体の汚なさ、動きの異常さ。そのような抽象的なもので決めるしかない。
群れているのであれば、実際は狂っていないのかもしれない。そうならいいのだが、複数で狂っていれば、なにが起こるのかわかったものではない。
任務には行きたかった。現場を実際に見てみたいし、シオリたちも心配だ。こうしてじっとしているのも性に合わない。
落ち着かなかった。屋内にいる気にもなれず、中庭を歩き回る。フミの部屋へ目を向けて耳をすますが、静かだった。その代わりに別の音が近づいてきた。マーラの足音だ。
「ねえ、メアリちゃん」
「なんでしょう」
「ちょっとお茶しない?」
そう言って、彼女は朝と同じ含み笑いを浮かべた。
食堂へ戻り、いつもの席に座る。テーブルはいくつもあるのに、いつも同じ席に座っていた。慣れた場所なのに、ここのところ隣が空いていて肌寒い。
台所でお茶を淹れる音が響いて聞こえる。思うと、ここにひとりでいるのは初めてかもしれない。
マーラはメアリの左に座った。ふわりとしたスカートの衣擦れの音が、こしょぐったかった。
「お仕事には、もう慣れたかしら」
「はい。これほど寝つきがいい日々は生まれて初めてじゃないかというくらいには、落ち着いて仕事ができていると思います」
メアリは、マーラのことを苦手に思っていた。苦手というほどではないかもしれないが、これまで自分が歩んできた影の世界とは相反する空気感が、かゆいのだ。自分の人生にも、彼女のように気品のある道を歩むターニングポイントがあったのかと内省してしまう。
「それならよかったわ。いつ敵に襲われるかもわからない生活をずっと送ってたんだものね。特にメアリちゃんはあの子たちのお姉ちゃん的存在だから、みんなを護るために気を張っていたのでしょう。ここでは思う存分脱力しなさいな」
お姉ちゃん的存在。
妹のことが脳裏をよぎり、次にフミのことが浮かんだ。
自分はしっかりとその立場をまっとうできているのだろうか。
「できてるわ、きっと」
「え」
うふふ、と目尻にシワを寄せるマーラ。
「いま、自分はみんなのリーダーとしてちゃんとできてるのか、みたいなこと考えてたでしょ。そんな横顔だったわ」
お茶を一口含み、メアリと視線を合わせる。
「わたしには、メアリちゃんはすごく立派に映ってる。だから心配しないで。フミちゃんはもちろん、シオリちゃんやユリアちゃんも、あなたといると心なしか安心しているように見えるの。みんなしっかりしてて大人っぽいけど、メアリちゃんに背中を預けているときは年相応の女の子ね」
湯飲みに口をつけると、心地よい香りが鼻を抜けた。仄かなのに、芳醇な渋み。
「そう言っていただけると、ありがたいです」
「どういたしまして」
身体の内側からぬくもりが回ると、心の中心にある冷たい部分があぶり出されるようだった。
自らの選択は、正しかったのだろうか。
あれから何度、自己に問いかけては首を振っただろう。
「フミちゃんのことは突発的なことだから仕方ないわ。いつかやって来るかもしれなかったことが、いま来ちゃっただけ。あんまり悔やまないで」
「いままでフミの〈魔力〉に、はフミ自身もオレも、目を逸らしてきました。シオリやユリアにもあの力のことは教えなかった。でも、そうして蓋を閉めてきたから、今回こうして余計に拗らせてしまってるんじゃないかという気がしてならないんです」
初めて口に出した弱音だった。一口だけのつもりだったのに、次々と言葉が溢れ出してしまう。
「シオリもユリアも運良く助かっていますが、もう少し立ち位置が悪かったどうなっていたか。きっと、能力についての知識が生命線になる。オレの選択肢があいつらの命を奪っていたかもしれない。そう思うと、いままでのやり方は間違っていたんだ、って」
「そうかもしれないわね」
肯定の言葉が胸に刺さる。表面的なお世辞ではない、優しい槍。
「でも、それはあなたなりにフミちゃんのことを熟考した結果でしょう。あなたは悪くない。その選択肢が間違っていたかもしれないと思うなら、これから修正していけばいいの。もう終わったことをうだうだ気にする必要はないわ」
「これから……」
どうすればいいのだろう。
わかっている。フミの扉を叩かなければならないことくらい。
どんな強さで叩けばいいのだろう。どんな言葉をかければいいのだろう。
「どうすれば、あいつを救えるのでしょう」
「救おうと思う必要は、ないのかもしれない」
「え」
うふふ、とマーラはまた意味深に微笑む。
「メアリちゃんは、将来の夢、あるかしら」
意味深を通り越して怪訝と言えるほどの切り替わり方だった。
「急に、なんですか」
「もしこの仕事がその夢を邪魔するものだったら、ごめんなさいって思って」
この人は何を企んでいるのだろう。
目の奥を覗こうと思っても、こちらの顔が熱くなるほどの柔和さしか見えない。彼女がもう一段口角を上げると、たまらなくなってメアリは目を逸らした。
「そんなことは、ないです」
「なにか力になれることがあったら言ってね」
この二年半の間、時間はたっぷりあった。お金など存在しない世界で、たくさんの本を読むことができた。だが、不安は大きかった。
訥々とメアリの口が動き出す。
「オレの夢は、海外に行くことです。行って、貧しい人たちの心を救いたい。政府や偉い奴らでは救えない連中と友達になって、元気にしてやりたいんです」
十八歳にもなって――成人にもなって、こんな夢物語を話すことに、気恥ずかしさはあった。しかしマーラといると、止まっていた二年半が巻き戻されたような感覚に陥ってしまう。
「どうしてそう思うようになったのか、聞いていいかしら」
「フミと出会ったからです。元から海外には行きたいと思っていました。この狭い国では見られない景色をたくさん見たいと」
お茶を含む。熱は冷めてきているのに、香りはまだまだ健在だった。
「フミは複雑な境遇で育ってきました。厳格な家に生まれ、村の他の子たちと遊ぶことも許されず、心を閉ざしていたみたいなんです。その上、あんな恐ろしい力を手にしてしまった。オレと出会った後も、しばらくは人形みたいでした。なのに、突然涙を流したり、刃物を見つけて自身の喉に突き立てたり。見てて苦しかった。そんなあいつを、オレは見捨てたくなかった。妹に似た、あいつを」
妹のことを口にしたのは初めてだった。シオリはもちろん、フミやエリカにも話したことがなかった。
ずっと塞いでいたものが口から流れると、止まらなくなってしまう。
「〈あの光〉で妹は暴走しなかった。オレはあいつを護ってやらなくちゃと必死になって戦った。でも、護ってやれなかった。自分勝手な理屈かもしれないですが、妹を救ってやれなかった償いとして、フミを救いたかったんです。できるだけ一緒にフミといて、あいつを笑顔にさせようと頑張って、なんとかあいつの笑顔を取り戻すことができました」
あの瞬間は、心から救われた気がした。誰かを助けようとして、自分が助けられていたのだ。
「それに味をしめた、って言ったら変かもしれませんが、自信がついたんです。オレには救われない人を救う力があるって。あのときのフミは、きっと、国がいくらお金を動かしたところで救ってやれなかったと思います。そんな救われないやつらをもっとたくさん助けたいって、オレは思うんです」
そのためには、世界で最も広く使われている英語を身につけたい。本当に貧しい人たちは英語圏の国以外に多いかもしれないが、母国語以外の言語をひとつでも覚えられれば、自信に繋がるだろう。
「でも、不安なんです。これまでも内陸でフミと一緒に英語の本を読んで勉強をしてきましたが、読み書きはできるようになっても喋られるようにはならない。そもそも〈魔の穢れ〉は海外に発つことができない」
海外へ行くにはパスポートと呼ばれる証明書が必要になる。〈魔の穢れ〉はそれを取得することができないのだ。なぜなら〈魔力〉が海外の兵器として自国へ向けられるのを、このランフ国が恐れているから。
気味が悪い存在なのだから、本当は追いやりたいのだろう。しかし、この国は〈魔の穢れ〉を恐れ、差別することで押さえつけてしまっている。そのため多くの〈魔の穢れ〉はこの国を恨んでいる。彼らが外へ出れば、この国へ牙を向けないとも限らない。
〈魔の穢れ〉になったがゆえに生まれた夢が、〈魔の穢れ〉であるがゆえに叶わぬ運命にある。それでもいつか時代が変わることがあるかもしれない。そう信じながらメアリは生きてきた。
しかしマーラが意外なことを言う。
「パスポートくらい取られるんじゃないかしら」
「え」
「パスポートを取得するときに生まれのことや家族のことも調べられたりするけど、メアリちゃんはそもそも〈神の末裔〉として命を授かったんでしょ? カラーコンタクトさえしていればバレないと思うわ」
言われてみればそうだった。
〈魔の穢れ〉はパスポートを作られない、という概念に囚われていて、そのことを忘れていた。今はカラーコンタクトがある。製造禁止されているそれの対策までは行われていないだろう。身辺調査による審査でも、メアリが引っかかる余地はない。母が〈魔の穢れ〉のシオリは駄目かもしれないが。
「そっか……」
「メアリちゃんは英語を学びたいんだよね。じゃあ、わたしが英語を教えてあげましょうか」
「え?」
この日、何度こうしてマーラに驚かされただろう。
「こう見えてわたしは英国へ留学したことがあるくらいには英語を話せるのよ」
「本当ですか⁉︎」
「そんな嘘言ってどうするの」
マーラの嫣然とした微笑みには、都会の輝きがあった。
メアリの育った村では女性が高等教育を受けることはほとんどなかった。留学なんてもってのほかだろう。女は男のために馬鹿であれ、とでも言わんとする風習が、メアリは大嫌いだった。都会に生まれていれば、と何度も思った。
だから、マーラへ苦手意識があったのだ。女性として立派な上、佇まいや会話からも気品や育ちの良さが感じられる彼女へ。自分が得ようとして得られなかったものを持っている彼女へ。嫉妬の念さえ少なからずあっただろう。しかし、
――これから修正していけばいいの。もう終わったことをうだうだ気にする必要はないわ。
マーラの暖かさに、深さに、包み込まれる。
(こんな人に、オレはなりたい)
目指しているところは違う。上品になりたいわけでもない。
もっと奥深く。言語化できない芯の部分。強さ。
憧憬を感じる。心を、奮い立たせられる。
気がつけば、メアリは立ち上がり、頭を下げていた。
「もし迷惑じゃなければ、英語を教えていただけませんか。できれば、フミも一緒に」
「ええ。喜んで」
唇を噛み、表情の動きをこらえて頭をあげる。マーラと目が合うと、抑えきれなくなって顔を緩めてしまう。十八歳の、垢抜けない少女の笑みだ。
「じゃあまず、授業の前にすることがあるわね」
「はい」
救おうとするんじゃない。素直な気持ちで、語りかけるんだ。
マーラがメアリにしたように。
呼び鈴が鳴ったのは丁度そのときだ。
「あら、どなたかしら」
マーラはポケットから携帯電話を取り出し、耳に当てる。
〈神の新砦〉本部の門には電子式の呼び鈴がある。来客がそれを押すと、マーラの部屋や食堂、彼女が仕事で使う南校舎でチャイムが鳴らされる。それは彼女の携帯電話にも連動し、本部のどこにいようとも来客へ受け答えをすることができる仕組みらしい。
「はい。〈神の新砦〉ホルン本部です」
電話などの受け答えをするとき、マーラはいつもよりトーンが高くなる。仕事用の声だ。
「え、……あ、はい。少々お待ちください」
珍しく慌てた様子のマーラに、メアリの眉が寄せられた。獣の気配を感じたときの表情だ。
「女の子のお客さんなんだけど、メアリちゃんとフミちゃんを呼んでるの」
「オレと、フミを?」
「お名前と要件だけでも伺ってみましょうか」
メアリは応えない。マーラも来客へあえて質問をすることはしない。無為に刺激を与えるべきでないと感じているからだ。
ゼンやセリュウならともかく、メアリやフミの名前を知る者はほとんどいない。いるとすれば仕事で顔を合わせた警備兵くらいだろうが、彼らは女の子ではない。そうなると、その相手は自ずと絞られてくる。なぜメアリらがここにいることを知っているのかという疑念はさて置いて。
「ちょっと嫌な予感がする……。セリュウくんを呼ぼうかしら」
「いえ、オレひとりでだいじょうぶですよ」
メアリは薄く笑い、外へ向かった。
来客用の門は食堂から近い。食堂を出てすぐに校舎同士をつなぐ渡り廊下があり、渡り廊下の中央から中庭の逆方向へ数十歩のところだ。任務で外へ出るときも中庭で訓練をするときも渡り廊下から外に出るため、靴はいつもそこに置いてあった。上履きを脱ぎ、靴を履き替え、門へ向かう。門扉に隠れて誰かが立っているのが見えた。
メアリの足音が聞こえたのだろう。その誰かは門から顔を覗かせた。
「あら、久しぶりね」
「てめえは……」
顔を合わせた時間も少ないし、言葉を交わした記憶もほとんどない。しかし、その顔はよく覚えている。ふたつも同じ顔があれば、嫌が応にも記憶に残る。
「確か、マユと言ったか」
「ええ。覚えてくれててありがとね」
丸まった毛先を触りながら応える。影の中で浮かび上がる緑色の瞳が、妖しさを一層引き立てていた。
二年半前、研究所で会った双子のひとり。〈魔力〉は双子のもう片方の元へ瞬間移動するものだったか。その能力を利用し、ルーインに捕まるふりをして最後の最後にリザを奪い去った。奴らに捕らわれたふりをし続けていた、小賢しい女。
「ところで、あなたひとりかしら。フミちゃんは?」
「いまはいない」
「あれれ。ちょっと話が違うわね。わたしたちの情報が間違ってるのかしら。それともあなた、なにか隠してるのかしら」
マユは腕を組み、徐々に音程を下げながら言葉をぶつけてくる。嫌味のある言い方だった。
メアリは鼻を鳴らす。
「てめえらごとき、オレひとりで充分だ、と捉えてくれればいい」
「言ってくれるじゃない」
「片割れはどこだ」
「これから合わせてあげるわ。心配しないで」
吐息の多い話し方がメアリの癪に障る。聞きたいことは山積みだった。だが、それは後でこいつの首根っこを掴みながら聞けばいい。
「目的はなんだ。何をしに来た」
うふふ、と光る唇は、高慢だった。
「いまのあなたたちの実力が知りたくて。お手合わせ願えないかしら」




