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ゲット・アウェイ・ガールズ  作者: 中條利昭
第二部 〈狂獣〉篇
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第三章 3、鍵

 ロロたちと追いかけっこをする時間は、あっという間に過ぎていった。ぜいぜいと息が切れても苦しくなかった。足が遅くてロロたちを全然追いかけられなくても、そのうえロングスカートで走りづらくても、笑顔でいられた。楽しかった。

 時間を忘れるという表現がこれほど身に染みたのは初めてのことだった。途中で一度「いま何時くらいだろう」と気になったが、「まだだいじょうぶなはず」と高を括って欲に身を任せたのが、間違いだった。

 気がつくと森の少し深いところまで進んでしまっていた。そろそろ戻らなきゃ、と彼女たちに別れを告げて屋敷へ帰ると、母の車が停められていた。

 あの瞬間は、生きた心地がしなかった。そこでようやく自分の服が泥まみれであることにも気づき、とんでもないことをしてしまったと足が震えた。逃げ出したくなった。しかし足が動くようになる前に玄関の扉が開いた。

 母だ。蔑むような目で睨まれると、震えさえも止まり、身動きが一切とれなくなった。高圧的ににじり寄る母の手にはムチが丸められていた。

 無言で首根っこを掴まれると、体を引きずられた。


「すみません……申し訳ございません、お母様……」


 枯れた声に母は応えない。物置小屋へ連れて行かれると、中へ放り出された。

 鼻から床に落ちぬよう腕で顔を守ると埃が舞い、顔が痒くなる。

 背中に熱いものが走った。


「この出来損ないが!」


 もう一度背中が燃えると、自分がムチで叩かれているのだとようやく気づいた。

 狭い小屋に幾度もムチの快音が反響し、重なり合う。


「あんたはお留守番さえもできないの⁉︎ 家でじっとしてるのがそんなに難しいことなの⁉︎ しかもそんな泥だらけになって! はしたない!」


 やめて、やめて。

 声が出たかはわからない。音が鳴るたび自分の体が跳ねては落ちることしかわからない。背中、ふくらはぎ、横腹、腕。痺れと熱が無造作に広がっていく。

 音が途絶えると、母の息切れが聞こえた。


「そこで一晩反省していなさい」


 戸が閉められると、目が開けられているのか閉められているのかもわからなくなった。

 熱いものが右の目尻のあたりに溜まっていく。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 服の内側に忍ばせたお守りに手を当てる。


「おじいちゃん……助けて」


 亡き祖父を思う。

 何十年も前までは、この町は庶民の村だった。その村を経済的な発展に導き、この家を富豪の地位に導いたのは鍵師の祖父だった。この国の多くの鍵をこれまで以上に頑丈に作ることに成功し、一代で多大な財を生んだ。今や彼の鍵造りの技術は多くの国で取り入れられている。

 しかし彼は財を得ようとも庶民的な生活を続けた。地位や名誉というものにあまり興味がないのだ。


 ――俺はただの職人だからな。


 彼はよく、そう言って笑った。

 その人柄ゆえ多くの人に頼られ愛されてもいたが、彼のことを気に入らない人々もいた。彼の妻や娘――フミの母――その夫だ。

 技術を特許申請していればさらなる財産を得ることができたのに。

 貴族階級に近い地位を手に入れたのだから、もっと言葉や身だしなみを整えるべきだ。

 自分の立場がわかっていない。意識が足らない。

 多くの避難を家族に浴びせられようと、彼は気にしなかった。


「俺はただの職人だからな」


 そう笑うだけ。

 彼の工房は屋敷の裏から森へ五分ほど歩いたところにぽつんと立っていた。木造の小柄な建物。世界的な鍵師の職場とは思えぬそこは、住居も兼ねられている。屋敷を牛耳る娘たちに「ここにいる限りせめて身だしなみは整えなさい」と責められ拒否、家を追い出されたのだ。

 家族に疎まれる彼だが、フミはそんな祖父が好きだった。屋敷を抜け出して祖父の小屋に遊びに行ったときだけは、屋敷での鉄仮面を被らされたような生活から解放されるのだ。


「やっぱり俺たち一家は貴族階級なんて似合わねえんだよ。あいつらだって、金に目を眩ませる程度のちっぽけな器しか持ってねえんだから。なあ、フミ」


 祖父の大きな手に頭を覆われるの時間が、フミにとって最高の楽しみだった。心が落ち着く反面、どこか興奮してしまう、不思議な時間。


「なにが『我々は賎民の憧れたる高貴な存在でなければならない』だ。お前だって賎民の生まれの俺のガキじゃねえか。身をわきまえるべきはてめえらだよ」


 こうして強い言葉を並べる祖父の姿は珍しかった。いつもは家族との軋轢のことなど気にしない様子でフミに鍵造りのことを教えたり、フミの話を聞くことが多い。

 いま思うと、蝕んでいた病魔がもうすぐ命を奪いに来ることを、彼は察知していたのかもしれない。


「フミ。手を出せ。これをやる」


 手を出すと、その手に鍵が乗せられた。小指ほどの金属部に円形の黒い取っ手がついている。


「これって……」

「この鍵は俺が今まで作った鍵の多くを開けられる。マスターキーってやつだ。形状を見ればなんの鍵か、わかるだろ?」

「でも、こんなもの、わたし」

「いいからとっとけ。これは家族で唯一俺に優しくしてくれるお前へのプレゼントでもあり、私利私欲で俺を見放したお前の親への反抗でもある」


 祖父は笑い飛ばすが、フミは笑えない。


「悪用もできるが、きっとお前はそんなことしないだろ。違うか?」

「しないけど」

「これがあればいろんなものを開けられる。フミ。お前は今後さまざまな人間と出会うだろう。中には嫌なやつもいるだろう。立ち向かってやり返すことはしなくとも、そんなときにこの武器があれば、いざというときにそいつへ何かしてやれるかもしれない。しなくてもいい。してやれる、というだけで、お前に自信を与えてくれるはずだ」


 祖父の一言一言が胸に心地よく響いていく。フミのことを理解しているからこそ、痛いところに触れず、優しく包むことができるのだ。


「それを持っていると、誰かがお前の心の鍵を開けてくれるはずだ。同時に、お前も誰かの心の鍵を開けられる」


 心の鍵。

 自分は、それを閉じているのだろうか。

 考えたことがなかった。

 でも、きっと、そう見られているのだろう。

 両親といるときに心を閉ざしている自覚はない。しかし、いつも敬語で話している。背筋を伸ばして話している。言葉を選んで話している。

 でも、祖父といるときだけは、そうじゃない。言葉が、勝手に口から流れていくのだ。


「ま、お守り代わりにとっとけよ。袋もくれてやる」


 手のひらにすっぽり収まるほどの布袋を渡される。色褪せて燻んだ袋だ。


「ボロい袋だと思ったろ。これは俺のばあちゃんから貰ったものなんだ」

「おじいちゃんの、おばあちゃん?」

「ああ。ばあちゃんのこと、聞いたことあるか」

「ううん」

「だよな。俺の親はばあちゃんのこと嫌ってたし、存在しないことにしたいくらいだったからな。お前の親もきっとばあちゃんのことを口にしようともしないだろ」


 フミは首をかしげる。


「どういうこと?」


 祖父は誇らしげに答えた。


「俺のばあちゃんはな、〈魔の穢れ(マ・ゾルミ)〉なんだ」






 数日後、祖父は癌で亡くなった。家族はおろか、ときどき会っていたフミにさえ祖父は自らの病魔を悟らせなかった。自覚症状が何もないはずはないというのに。

 財産はあったのだからもっと早く検査を受けて入ればよかったのに、と母は落ち込んだ。フミも同じことを思っていたが、中身はまるで違う。母の言い方は、祖父が生み出す富が途絶えることを危惧するだけの言い方だった。

 ひょっとすると、祖父が病気のことを何も言わずに死んでいったのは、祖父を食い物にする母への反抗だったのかもしれない。

 しかし祖父の地位を利用して成り上がったフミの母は、この町の多くの財産を握っていた。父も都市部の大手企業の部長で、充分な財産を持っている。祖父の反抗はささやかなものに過ぎなかった。

 その後の生活は、祖父へ会いに行かなくなったこと以外はなにも変わらなかった。しかし、これまでにはなかった重苦しさがある。それは、日に日に重量を増していく。その理由に気づいたのは何週間も過ぎてからだ。

 母の厳しい授業時間は苦しいものだったけど、こっそり祖父に会いに行ってお喋りすることが、その苦しみを乗り越えるための糧や目標となっていた。それがなくなり、苦痛がただの苦痛になってしまったのだ。

 やはり自分は、心の鍵を閉ざしていた。

 そんな中で唯一サキは優しく接してくれた。両親がいないときには彼女自身の表情が明るくなっていたように思える。彼女もフミと同じように、ずっと心を閉ざしたまま作り笑顔で生きていて、フミと二人でいるときだけでも扉を開きたかったのかもしれない。

 使用人と令嬢という関係のため言葉は堅くなってしまうけれど、フミ自身、サキへ少しずつ心の奥にあるものを打ち明けられるようになっていた。祖父の鍵が、フミの扉を開けていく。サキの扉をも開けていく。

 フミが物置に幽閉されたのは、そんな矢先のことだった。

 翌日の朝、物置の扉を開けたのはサキだった。


「おはようございます。お嬢様」


 暗闇に目が慣れていたせいでサキを見ることができなかった。紙一枚ほどだけ開くと、行儀よく頭を下げるサキの姿があった。


「おはよう……あの、」

「お食事の準備ができております」


 そのまま踵を返し、去っていく。


「待って」


 追いかけようと立ち上がると、立ちくらみがし、体勢を崩す。身体中が痛むせいで平衡感覚を取り戻せずにつまずいた。サキの足音は止まらなかった。


「サ、サキ」


 すたり、と。

 足を止めてくれたが、振り向いてはくれない。


「余計なことは話さぬよう、厳しく申し付けられておりますので」


 首をかすかに振ったサキの頰には、青いアザができていた。

 これ以降、母がいようといなかろうと、サキはただの使用人だった。口角を上げても、目が笑うことはない。人形のようだった。

 祖父に続き、フミはサキをも失った。窓の向こうに耳を向けても、ロロたちの声は聞こえない。おそらく彼女たちは母に顔を見られている。無事だろうか。

 次々と大切なものが失われていく。自分が何かを失うだけじゃない。自分の周りの人が、自分が心を開いた人が、不幸になっていく。

 もう、全部消してしまいたい。

 すべて、消し去ってしまえ。

 欲に腕が震える。コップを叩き割りたい。食器を投げつけたい。ここから飛び降りたい。

 幾たびもの衝動が吠え盛るように現れては、虚しく鎮火していく。

 自分はなんて臆病なんだろう。なんてちっぽけなんだろう。

 毎晩フミは布団の中で泣いた。吐き出せない思いを涙で流そうとした。ひとつも心は晴れなかった。

 そして〈あの光〉が町を包みこむ。彼女に眠る闇を目覚めさせる光が。

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