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ゲット・アウェイ・ガールズ  作者: 中條利昭
第二部 〈狂獣〉篇
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第三章 2、フミ

 体が重たい。布団から起き上がる気力もない。寒い。ストーブをつけて布団に潜っていても体が震える。

 もう涙は枯れた。ふとんのあちこちが湿っている。じきにこれらも乾く。乾くと、どうなるだろう。自分が消えてしまうような気がした。でも、それも悪くない。それでいい。


(わたしなんか、いないほうがいいんだ)


 能力を使えば、みんなが危険にさらされてしまう。そんな力を使わないようにしても、咄嗟のときに溢れ出てしまう。意識がなくなり、目がさめると体がぐったり重たい。

 まともに戦う力もないから役に立てないし、それどころか気を遣われてしまう。

 自分さえいなければ、みんなもっと笑顔になれるのに。

 メアリと出会い、ゲット・アウェイ・ガールズの一員となり、シオリとユリアと出会い、楽しかった。見えない力で内陸に閉じ込められていても、他に誰もいなくても、楽しかった。充実していた。〈神の新砦(シン・オウガンツ)〉に来てからは劣等感は増したけど、みんな優しかった。ちぎれかけそうな紐を、なんとか繋いでくれていた。初めての任務で警備兵の手当てをしたときは怖かったけど、うまくこなすことができてちょっぴり自信がついた。

 そんな溢れた時間を自ら壊してしまった。

 臆病ゆえに。


(またわたしはひとり……)


 ――この出来損ないが!


 その叫びとともに耳の奥でムチの音が鳴る。背中が痺れ、掛け布団を蹴り上げた。記憶の中の痛みだというのに、たったいま打たれたように傷跡が熱い。


 ――あんたはお留守番さえもできないの⁉︎


 内陸にいるときもときどき発作が起こることがあったが、ここまで大きいものは久々だった。


「ああ……っ」


 喉を潰すように声を枯らし、痛みに耐える。何度もなんども痛みが走る。体のあちこちが不規則な蠕動(ぜんどう)で震え続ける。記憶の中のムチを持つ女性――母が部屋から出て扉を閉めた頃には、フミの体は布団からはみ出てしまっていた。

 乱れた呼吸と脂汗が消えていくにつれて虚しさが積もっていく。木製の古い床がひんやり冷たい。物置の中でひとり泣いていたあの頃の記憶が蘇っていく。

 あの日は確か、いつものように母から勉強を教わる、何気ないお昼すぎだった。窓は閉めていたけど、子どもたちのはしゃぐ声が漏れ聞こえていた。


「下品な発声ね。あのような下賤(げせん)の者にならぬよう、しっかりお勉強しましょうね、フミ」

「はい。お母様」


 ほのかに首を傾げて頰をあげ、答える。昔から躾けられていた笑い方だった。小さな頃は上手にできると褒められていたが、このときはもう褒められることもない。その代わり、笑い方が大きくなりすぎると、ぶたれてしまう。

 その後も子どもたちの声はやまなかった。近所で遊んでいるらしい。


「まさかうち敷地内に入ってるのではないでしょうね」


 母がそうして眉間にしわを寄せると、電話が鳴った。母が美しい所作で席を立つと、フミは窓の外へ顔を向けた。テーブルと窓まで間隔が空いているため、町の遠くのほうしか見えない。三階からの景色を邪魔するものはなく、空が広々としていた。あの広い空を飛ぶ鳥は、きっと気持ち良いのだろう。


「なんですって」


 母の声色が下がるのが聞こえた。


「かしこまりました。いまから向かいますわ」


 神妙そうにそう言うと、彼女は受話器を落とし、張りついたような顔でフミを見遣る。


「フミ。私はお父様の仕事場へ向かいます。お留守番をお願いしますね」

「はい。お母様。いってらっしゃいませ」


 腰を軸に深く頭を下げる。緩やかに頭を上げると、母はすでにいなかった。

 取り残されたフミは背筋を伸ばしたまま、外の声に耳を傾ける。


「待てー」「きゃー」「タッチ! 逃げろ!」


 敷地内で遊んでいるのだとしたら、これから外出する母に怒られてしまう。ハラハラとしたけど、母の声は一向に聞こえない。はしゃぐ声と走る足音が続いていく。


(前に思いきり走ったのはいつだったかな)


 何年も前だったかもしれない。

 フミはずっとこの屋敷で育てられてきた。庭はともかく、その外に行ったことなど数えられるほどしかない。同じような歳の子と遊んだこともない。

 外で遊んでいる彼らはいくつくらいなのだろう。

 踏み寄る静かな足音と衣擦れの音が片方の耳に入る。


「サキ」


 フミが短く名を呼ぶと、使用人のサキはにっこりと微笑んだ。

 黒くやわらかい服に、同じ色のふわりとしたスカート。その上に白いエプロンを重ねている。髪はうなじのあたりで束ね、頭のてっぺんにはホワイトブリルが添えられている。英国の伝統的な使用人衣装らしい。

 サキは二十代だけど掃除も料理も上手な、美しい女性だった。フミの物心がついたときから一緒にいる、家族のような存在だった。母がいるときは母が勉強や裁縫、作法などを教えてくれ、忙しいときはサキが教えてくれる。母は厳しいけど、サキは優しかった。だから、母が仕事でいないときは、ちょっぴり嬉しくもある。


「お外が気になるのですか。お嬢様」

「ええっと……」


 うふふ、とサキは表情を崩す。母がいないときにだけ見せる表情だった。


「では、出ていらしてはいかがでしょうか」

「え、でも」

「少しくらいは良いでしょう。現在お屋敷には私とお嬢様しかいません。お母様は一時間と一折ほどは帰ってこられないと仰っておりました。一時間ほどで帰ってきていただければ、お母様にも見つかりませんよ。多少お洋服が汚れたとしても、庭でお体を動かしていたことにすれば良いのです。敷地さえ出なければ、たまの運動はお母様も推奨してらっしゃいますから。私も夕食の準備をしながら庭を眺めていたことにします」


 どことなくむずむずしてしまう。無意識に両手を重ねて太ももに挟み、指を動かしていた。スカートだからあまり動くのには向いていないけど、体を動かしたくてたまらなかった。

 友だちってどんな存在なのだろう。誰かと遊ぶってどんな感じなのだろう。

 フミはずっと母に押さえつけられていた。町の子どもたちは貧しくて汚いから接してはならない、と。年に一度会うだけのいとことしか遊んではならない、と。彼女はいい人だけれど年がずっと上だし、正直に言うと一緒にいてあまり楽しくなかった。

 もっと、はしゃぎまわりたい。

 フミはおそるおそる立ち上がる。


「本当にいいの?」

「ええ。いってらっしゃいませ。あまり泥まみれになりませんように」


 サキと窓を交互に見る。胸に手を当てる。ドキドキしていた。


「ありがとう、サキ。いってきます」






 外に出ると、じわりとした暑さに目が眩んだ。風は涼しくて心地いいものの、陽は強く湿気も高い。長いスカートの中に熱が溜まるのを感じる。

 子どもたちはすぐに見つかった。ふたりの男の子とひとりの女の子。敷地を囲む鉄柵の近く、門から少し離れたところにいた。

 母の車がないことを確認し、門を出る。サキはああ言ったけど、フミとしてはあの子たちの遊びをちょっと眺めるだけのつもりだった。でもフミは門を出ていた。きっと自分は彼らと遊びたいと思っているのだろう、気づくとおかしくて苦笑した。その愉快さが、徐々に緊張へと変わっていく。食道を掴まれたみたいな不安があった。

 彼らの笑顔は屈託なく輝いていた。ときどき歯茎が見える笑い方は、綺麗ではない。でも、綺麗だった。

 彼らと自分は別の世界にいる人だ、と感じてしまう。母からもそう教わってきた。自分たちは高貴な場所にいて、彼らにとって憧れの存在だと。高嶺の花であるために、我々は上品で慎ましい存在であらねばならないと。下々の者たちと共にいてはならない、と。

 フミが彼らに話しかけられないでいるように、彼らも自分に話しかけることはできないだろう。

 そう、引き返そうとしたときだった。


「あ!」


 わんぱくな女の子の声が、背中に当たった。振り向くと、彼らはフミへ手を振りながら走ってきていた。


「ねえねえ! あなたもしかしてこのお屋敷の人?」


 女の子は短い髪をふたつ結んでいた。お化粧ブラシのようなそれがぴょうぴょん揺れるのがかわいらしいけど、顔や声には男の子っぽさがあった。


「は、はい。そうです」

「そうなんだ! やっぱり綺麗な子だね〜。ほら、あんたたち謝りなさいよ」


 男の子ふたりはたじろいでいる様子だった。


「なんのことでしょうか」

「このお屋敷に住んでる娘さんはあたしたちと同い歳だって聞いたことがあってね。きっとこの建物みたいに綺麗な子なんだろうなあ、って言ってたら、このふたりが『どうせ大したことねえよ、ガキはガキだろ』って失礼言っちゃって。ほら、とっとと謝んなさい」

「ご、ごめんなさい」

「わ、あ、謝らないでください! わたし、そんなに綺麗じゃないですよ! あなたと同じです!」

「ロロ。お前、遠回しにブスだって言われてるぜ」

「ほう、なかなか言ってくれるわね、あなた」

「わあ! 申し訳ありません! そんなつもりじゃなくて……!」


 わはは、と彼らは大声で笑う。


「ごめんね、ちょっとからかっちゃった」


 つられてフミもクスリと笑う。

 こうしてお話ができただけでも嬉しかった。もう満足だし、ここでさよならを告げて屋敷へ戻ろうとさえ思っていた。でもロロと呼ばれた女の子は「ねえねえ」と手を叩いた。


「もしよかったら、あたしたちと一緒に遊ばない?」

「え」


 硬直するフミとは対象的に、彼らはうんうんと頷いていた。


「いいんですか?」

「モチのロンよ! あたしはロロ。こっちの坊主頭がケンで、そうじゃないほうがユウトよ」

「オレの扱い雑すぎね?」


 ユウトがそう顔をしかめると、ロロもケンも、フミも笑った。


「わたしはフミです。わたしなんかでよろしければ、その、よろしくお願いいたしします」


 深く頭を下げる。するとロロたちの笑い声が止まった。


「どうかしました?」

「いや、ほんとうに育ちのいいお嬢さんなんだなあって思って。あたしたちにはそんな堅苦しいこと言わなくていいよ」

「でも……」

「うちらはフミが敬語使うような相手じゃないって。もっと気軽に行こうよ」

「え、あ、はい」

「はい、じゃなくて、うん」

「はい。――あ、うん」


 ロロは得意げに頷く。


「よろしい」

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