第二章 6、〈闇〉
「もう一匹おるぞ! 上や! フミ!」
ゼンが叫んだ瞬間、フミの耳は枝のしなる音を捉えた。上だ。
見上げる。木の枝に立つ猿と目線があった。兇猛な暗い目。木々の影に、血の色の体毛が浮かび上がっている。
――フミ! 逃げて!
昔の光景がフラッシュバックする。〈あの光〉の翌日。暴走した子が木から飛び降りてきた光景。血塗れの少女。
――消し去ってしまえ。
自分の心の声。そして、誰かの声。
――こんなわけのわかんない世界、全部消してしまいたい。フミがいなかったら、きっとあたしはそう願ってた。
それは、初めてできた同世代の友達の声。命の恩人の声。
彼女はもういない。
なぜなら。
――すべて消し去ってしまえ。
フミが殺したから。
フミが甲高い悲鳴をあげ、飛びかかる猿へ手を伸ばすのを、メアリの目はスローモーションで捉えていた。体のあらゆる汗腺から脂汗がねっとり出てくるのを感じる。
口を開けると、弾かれたみたいに時が動き出した。
「しゃがめ! なにかに掴まれ! 早く!」
シオリがしゃがんだのが見えた。だが、フミのすぐそばにいるユリアは困惑し、立ち止まっていた。
「いいからしゃが……」
猿の手とフミの手が重なると、メアリの声が暴風に消された。
空気を引き裂くような破裂音。
ユリアは自体が掴めず、ほとんど反射的にフミの脇腹へしがみついていた。
細い体へ回した腕が引き剥がされそうになる。地につけた足が浮きそうになる。わけもわからず、ユリアは堪える。多量の砂が脚へ、腕へ、頰へ吹きつけようとも。
ふと、暴走したシオリへ抱きついて沈めたときのことを思い出す。よく似ている。でも、抱きついた体は熱くなかった。
混沌が耳を包み、右も左も、上も下も、わからなくなった。そんな中、なにか硬く重たいものがくるぶしにぶつかり、ユリアの足が浮いた。
ユリアのふくらはぎへ拳大の石がぶつかり、体が浮くのを、歪む視界の中でシオリは目にした。
「ユリア!」
地面に這いつくばりながら精一杯叫ぶ。自分の声なのにほとんど聞こえない。右耳と左耳のすぐそばでそれぞれ竜巻が吹き荒れているかのようだった。
ユリアはフミの背中へ首を引っ掛けていたため、足が浮いてもフミへしがみつくことに成功していた。少しでも油断すればフミを軸に体が回転し、足がフミの手へ吸い込まれていたかもしれない。
フミの掌を中心に嵐が発生していることだけは、シオリには理解できた。ただの嵐ではない、中心へすべてを吸い込んでいく。砂や石、木の枝や葉が彼女の掌へ吹き飛んでいく。しかし蓄積はされない。彼女の掌ですべてが消えるのだ。
狼が宙に浮くのを横目に、猿がすでにいないことに気づいた。足を無残に振りながら、狼はフミに引っ張られていく。彼女の掌の前で、狼はあっけなく消えた。
風は――そもそも風と呼べるものなのかはわからないが――フミの手の向く方向がもっとも強く見える。猿がいた木だ。その木があらぬ角度に捻じ曲がっているのは、本当に曲がっているのか、曲がって見えているだけなのか。
手は高いところへ向いているため、地面に近ければ近いほど風は弱くなるらしい。メアリの「しゃがめ」という指示は適切だった。とはいえ数十歩ぶんも離れて伏せるシオリでさえ力を入れて踏ん張らなければすぐさま吹き飛ばされそうなほどだ。
(そうだ、メアリは)
先まではシオリの右にいたはずだ。そちらへ目を向けるが、いない。吸い込まれてしまったかと思ったが、違った。シオリの左前方――フミの背後へ向かって匍匐前進している。シオリの背後を通ったらしい。
おそらく風はフミの背後がもっとも弱い。シオリも慎重に進んでいく。
メアリはきっと逃げるために動いているのではない。背後からフミへ近づくために動いているのだろう。
嵐を封じるために。
「嘘やろ」
話には聞いていた。フミの能力が暴発すれば、あたりのすべてが彼女の掌へ吸い込まれてしまうと。その言葉のイメージと、実際に目にしたものは、まるで違っていた。
フミを中心に景色が歪んで見える。中心ほど顕著だ。ただの暴風ではああはならない。あれは光すらも吸い込んでいるのだ。
急ブレーキをかけ、パワーウインドウを閉める。車体が慣性でないものに引っ張られるのを足裏で感じる。車体が動きを止めてからサイドブレーキをかけて一息つく。距離が充分にあり、こちらがフミの背中側であるためなんとかなっているが、正面側だったらどうなっていたか。大きな木の枝や石、そして猿、狼。フミの小さな手のひらでは到底収まらないようなものが、その手の中へ吸収されていく。この車だって近づけば吸い込まれてしまうかもしれない。
「こんなん、どうやったら止められんねん」
メアリの話を聞くところ、フミは過去にこの能力を使ったことがあり、かつ現在も生きている。すなわちこの能力は間違いなく一度収まっている。フミの死以外の手段で。そのあたりについて、メアリからは詳しく聞いていなかった。
メアリは這いながらフミの背後へ向かっていた。光すらも吸い込む圧倒的な闇の中でも、メアリの目は光を失っていなかった。
「頼むで、メアリ」
あのときと同じだ。
荒れ狂う暴風の中、メアリは三年前の夏を思い出していた。
〈あの光〉で暴走した子たちを倒し、エリカとともに生き残った後だ。あの惨劇がこの村だけのことなのか、もっと広範囲で起きていることなのかを知るために隣町へ向かっていた時。
生き残った者たちを仲間にしようとも、ゲット・アウェイ・ガールズと名乗るよりも前だ。
隣町は内陸部の中でも数少ない『町』と呼ばれる場所だった。ミルサスタほど広くないが立派なところだ。
一握りの憧憬を手に歩いていると、少女の悲鳴が聞こえた。
「なんだ?」
遠い悲鳴だった。道なりの方角。
次の瞬間、地を揺らすような轟音が響いた。
慟哭に似た痺れが背筋を走る。
気が付けばメアリは走り出していた。
「行くぞ、エリカ」
「オーケー、ボス!」
どうしてあのとき自分は走ったのか。今でもよく考える。
悲鳴の主を助けたいとか、そんな綺麗なものではないだろう。
進むにつれて音が強くなる。風が吹き、木々が同じ方向へ揺れている。ただ揺れているだけでなく、木々がそもそも傾いて見えた。世界がねじれて見えるのだ。
「なんだよこれ」
徐々に景色の歪みも大きくなる。
エリカが何かを叫んだ。しかしその声が聞き取れない。まるで耳に蓋を被されているみたいだった。
歪む視界の中で、小さな黒が見えた。少女の後ろ姿。艶のある黒髪。数十歩の距離だ。この揺らぐ風景の中でなければもっと早くに気づいていただろう。
彼女へ向かって風は吹いている。いや、吹いているのではない。彼女がすべてを引きつけているのだ。その引力に、ひとりの女児の記憶が引っ張り出される。
メアリは脚を止め、立ち尽くす。エリカが隣に立ち、肩を揺らした。すぐ耳元で何かを叫んでいる。聞こえない。耳には入っているのかもしれないが、もはやメアリの視界にエリカは入っていなかった。きっと「危険だから逃げるべきだ」というような内容だったのだろう。
メアリは踏み出す。一歩、また一歩。エリカが叫ぶ声が虫の羽音のように聞こえた。
近づくにつれて風は強くなる。脚を踏ん張らせていても皮膚が引きちぎられてしまいそうな恐怖さえ覚える。それでもメアリは進み続けた。
残り五歩くらいだろうか。ついにメアリの体が浮いた。後ろから硬いもので殴られたように世界が回る。それでもなお、メアリは視野の中央に妹の影を捉え続けた。
吸い込まれる勢いのまま、メアリはその子へ抱きついた。やわらかい髪が頰をこする。懐かしい香りだった。
手を伸ばす。女の子の手のひらへ。腕と腕を重ねるように。
手の甲に掌を重ねる。親指と親指を。人差し指と人差し指を。小指と小指を。添わせる。
その手を包むように握る。女の子の指に力は入っていないが、得体の知れぬ力が押してくるのを感じる。おぞましい力だった。少しでも添わせた指がずれれば、たちまち指を持っていかれるだろう。
肘から先、腕の内側が熱くなっていく。筋肉が引きちぎれそうだった。
徐々に少女の掌が丸く畳まれていく。それにつれ、押してくる力も強くなる。
負けてたまるか。諦めてたまるか。
今度は、絶対に救ってやる。
メアリは音なき雄叫びをあげる。
ついに掌が閉ざされた。
フッと吸引力が消える。飛ばされてきたものが墜落する。歪んだ世界が反動で逆方向にしなり、揺れ続けて元に戻る。
「ボス!」
エリカの声が遠かった。いや、エリカはもういない。抱いていた女児が一回り大きくなっている。あのときよりも重たくなった体に耐えられず、足がよろけ、メアリは尻餅をついた。
膝の上には寝顔。やすらかで、やわらかい。閉じられた目から涙が流れた。その涙を指でぬぐい、小さな体を強く抱きしめた。




