第一章 6、暗い夜
――トン。
わずかな物音。シオリは目を覚ました。小さな音だったが、まだ眠りの浅かった彼女を起こすには充分だった。
シオリは目だけを向ける。母の布団の方向だ。そこには誰も寝そべっていない。ラソンはタンスの前に立っていた。
長い髪を留めていない母は、なにかを握りしめて玄関へと、ゆっくり、こっそり、向かっていった。シオリを起こしてしまったことには気づいていないらしい。
ラソンはそのまま部屋を出た。シオリは物音を立てないように布団から抜け出す。母親の行動が気になって仕方がなかった。
素の足の裏から伝わる床は冷たく、思わず声を上げそうになった。すたり、と踵からつま先へ床を伝わせる。身震いがする。数歩進んだところで、自分が文字通り息を殺していたことに気づき、うっ、と苦しい声を上げそうになった。がんばって堪え、ゆっくりと息を吸い、母の後を追う。
しばらくすると、こそこそと声が聞こえた。最初に聞こえたのは母の声だったが、静かに話しているため内容が聞こえない。
母の後に聞こえた声は、男のものだった。
(だれ……?)
シオリは慎重に歩み続ける。目を瞑ったままでも歩き回れそうなほど慣れた廊下も、このときは初めて通る山道のように怖かった。壁に手を添えて、ひとつ唾を飲む。
玄関から見えない寸前のところまで立つと、なんとかその話を耳まで届かせることができた。
「ひとつお願いがあります。これを、預かっていてくれませんか。シオリが大きくなるまで」
母の声だった。そして、自分の名前。
(大きくなるまで? どういうこと?)
「……かしこまりました」
重々しい老けもなければ、軽々しい若さもない声だった。
シオリは片目だけを壁から覗かせた。
手前には母がいて、こちらに長い髪を見せている。そのすぐ向こうには誰かが向かいあって立っている。月の光が逆光となり、よく見えないが、暗い色の長い布を身に纏っているのは、わかった。この村では見かけないものだった。
好奇心があり余り、シオリはもう片方の目も壁から出してしまう。
あ、しまった!
ばれてしまう、とシオリは再び頭を引っこませた。心臓がバクバクと鳴っていて、それが母まで届いてしまうんじゃないかと不安になって、またバクバクと鼓動する。
ふたりは黙ったままだった。
どうやらシオリには気づいていないらしい。
ふう、とシオリは胸を撫で下ろす。それと同時に、ひとつ気がついた。
(ここから聞き耳を立てなくてもいいんじゃない?)
少し迷った挙句、シオリは決めた。今度は『すたり』ではなく『とん』と踏み出した。
「どうしたの?」
シオリは目を擦りながら声を出す。
ラソンが、はっ、と振り返る。シオリと目があって数秒後、糸が緩んだようにラソンは肩を落として微笑んだ。
「びっくりした……起こしてしまったかしら。ごめんなさい」
「ううん、私はだいじょうぶ」
「ごめんね、シオリちゃん」
その声は、男のものだった。
「おじさん、だれ?」
シオリは左足を半歩退けていた。怪しげな男へ警戒心を向けて。
男は、夜だというのにサングラスをかけていた。
月明かりの逆光で顔の細かな部分は見えない。さらに目元が隠れているため、年齢は一層うまく掴めない。四十代くらいだろうか。
一瞬だけ、記憶の片隅に残っている父の面影が彼に重なる。だが、一瞬だけだった。
男の右手には地へと伸びる杖があった。もしかすると、見た目よりも年齢は上なのかもしれない。
シオリの警戒心を読み取ったのか、男よりも先に母が言った。
「この方はね、私のお友だちよ。なにも警戒することはないわ」
「……そう、なの?」
次は男が言った。
「このサングラスは確かに怪しくて怖いかもしれないね」
さきほど聞き耳を立てていたときに聞いた声よりも、一段明るい声色だった。
「でも、これを取っちゃうと、もっと怖いんだ」
「怪我しているんですか?」
「そんなもの、かな。うんと昔の、深い傷だよ」
その語尾はかすれていた。声が先ほどよりも低くなっていた。
「……大きくなったね、シオリちゃん」
「おじさん、私と会ったことあるんですか?」
「きみがまだ赤ん坊の頃にね」
覚えてないでしょうね、とラソン。
シオリはさっぱり思い出せなかった。
「起こしてしまったのは申し訳ないけど、ちょうど良かったよ。きみにお話があるんだ」
男はしゃがみ、シオリと目線を合わせた。
シオリは男の服に目を向けた。あまり見たことのない、さらりとした藍色の綺麗な布に、彼女は半ば見とれていた。
「やっぱりこういう服はあまり見慣れないのかな」
「うん……」
その声は、子どもから大人へと変わっていく女の子の響き。
「こういう服、着てみたい?」
「……ちょっとだけ」
「じゃあ、買ってあげるよ」
「ほんとうに!?」
夜だということを忘れて声を上げた。反響した声を聞いてそれを思い出し、「ごめんなさい……」と頭を下げた。
大人ふたりは笑う。
「もちろんだよ。だから明日、僕と一緒にホルンへ行こう」
「ホルンって、臨海部の?」
「うん」
シオリたちがいるヘンデ村は内陸部に位置する。このランフ国という島国においては、おおむね内陸部は田舎で、臨海部は都会である。その中でもここヘンデ村は特に田舎で、ホルンは臨海部の中でも特に都会だった。
「ほんとに! 私、臨海部にすら行ったことないよ! どれくらい行くの!?」
言い終えた後に「あっ」とこぼしてバツが悪そうに暗闇に謝るシオリに、男は再び陽のように微笑みかけた。
「もちろんだよ。そうだね、一泊二日くらいの旅になるかな」
「お母さんも一緒だよね?」
男の表情が曇った。
「え?」
母の顔も見上げるが、目を合わせてくれなかった。くすんだ色だった。
「もしかして、一緒じゃないの……?」
ラソンはしゃがみ込み、シオリよりも視点を下げ、娘の瞳を見上げた。
母の瞳は、儚く揺れていた。
「ごめんなさいね。私はどうしても行けないの」
「お仕事?」
「そんなものかしらね」
はあ、とシオリは溜息した。
「そっか……」
都会が楽しみなのは間違いない。でも、母がいないなら、それと吊り合うくらい寂しくもあった。せめてクウを、と思うものの、怪我をしているから無理はさせられない。
はあ、ともうひとつ、溜息が鳴った。それは、男のもの。
「本当はラソンさんも誘う予定だったんだけどね」
そして、その先をラソンが続ける。
「その代わり、明日の朝にタムユさんを当たってみるわ」
「タムユさん? どうして?」
「シオリを任せられるから、かしら」
彼女も忙しいから、急に誘っても断られるかもしれないけど。とラソンは眉を曲げて付け加えた。
「でも、旅好きでよくどこかに行ってらっしゃるから、きっと喜んでくださると思うわ」
少しだけシオリの頬が緩んだ。
母と行けないのは残念だが、タムユとならきっと楽しいに違いない。
ラソンの言う通り、タムユは商人だというのに、近頃よく店を閉めてどこかへと行っている。いい商売道具がないかを探している、と本人は言っているが、ちょっとした土産物くらいしか持って帰ってこないので、もしかするとただ単に旅をしたいだけなんじゃ、とシオリは考えていた。
そのとき。
「誰だ!」
男が身を翻らせて叫んだ。
その動きは、まばたきをしてしまうとまったく見えないほどの速さだった。そして、シオリの指笛のようによく通る、戦士のような大きな声だった。親子はびくりと体を揺らした。
男が向いている先にいた影を、シオリは目で捉らえられなかった。だが、物音を立てて逃げていく音は聞こえたので、そこに誰かがいたことは認識できた。
その疾風のような動きの後、杖を持つ男はバランスを崩し、地面に倒れ込みそうになった。
あっ、と親子が声を漏らしたのも束の間、男はなんとか立てなおした。
「だいじょうぶですか」
ラソンは男の肩に手をかける。
「だいじょうぶです。反射的に動いてしまったものの、やはり体は鈍ってますね」
この人は昔、警察官か何かだったのかな、とシオリは思った。警察官という人たち自体見たこともないが、悪い人たちと戦う職業だとは聞いたことがあった。
「やはり、僕がここに来ると怪しまれるようです。明日の朝は村の外れで落ち合いましょう」
ラソンは少し考えてから「そうですね」と答えた。
「時間は村の人たちが行動を始める八時よりも前……七時くらいにしましょうか」
「かしこまりました。では、僕はこれを」
そう頷いて男は左手を少し動かした。それを見てラソンは「お願いします」と。シオリは「それなに?」と指を差した。シオリの低い目線からではそれが何かの本であることと、その上になにかが乗っていることしかわからなかった。
答えたのはラソンだった。
「これはね、私の日記と髪留めよ」
「髪留め!」
ラソンはお風呂上がり以外は後ろ髪をひとつに束ねている。そのときに使っているのが、その髪留めだった。シオリの手のひらほどの大きさで、色は海のよう。波のように滑らかで艶やかな白い模様は、母の声のように柔らかで温かくもある。
「お母さん、もう髪留めないの?」
シオリは、ときおり揺れる束ねられた髪と、露わになる母の耳、首筋、すべてが大好きだった。もちろん、この青い髪留めも。
「これ以外にも髪留めはあるわ。ただね、この髪留めは、お父さんがお母さんにくれた、大切なものなの」
「じゃあなんでそれを渡しちゃうの?」
すると、ラソンの目が曇った。暗闇の中ではあるが、シオリの目には確かにそれが映った。
「そうね……大切なものだからこそ、かしら。こんなこと言っても、わからないわよね……。ごめんなさい」
不貞腐れて頬をふくらませるシオリの頭を、ラソンは優しく撫でる。頬の膨らみが少しずつ小さくなるのを確認してから、ラソンは男に言った。
「明日の朝が早くなってしまったことですし、今日はもうシオリを寝かしつけます」
「はい。では、僕も引きあげることにしましょう。明日の朝七時頃にこの町の門を出てしばらく歩いたところで、また」
その後、シオリとラソンは先ほどまでと同じように布団に入っていた。
「ごめんなさいね、起こしてしまって」
「うん、いいよ。どうせ明日早起きだってわかったんだから」
ほんの少し、角のある言い方。シオリはそれを表に出さないようにしていたのだが、横を向いて寝る娘の背中を見つめる母は察してしまったようだった。
「……そうね、ごめんなさい」
それから、ふたりの間にしばらくの沈黙が流れた。
臨海部へ行けるのは嬉しいけど、母と一緒ではない虚無感は。そして、自分だけが置いてきぼりにされたような孤独感は。
子ども扱いしないでほしい。心のどこかで思うものの、そのまた逆のどこかで「早く大人になりたい」と思う自分もいて。頭がごちゃごちゃで、とてもじゃないけど、気持ちよく眠れる気がしなかった。
シオリの後ろで布団が擦れる音がした。
振り向くもんか、なんて思っていたわけでもないのに、シオリは振り向かなかった。
そんなとき。
背中いっぱいに、母の温かさが広がった。
眠たくなるほど温かくて、
「おなかを痛めて産んだ子が、あなたでよかったわ、シオリ」
目が覚めるほど冷たかった。
「……うん」
有袋動物の親子のような姿勢のまま、ふたりは暗い夜に瞼を閉じた。