第二章 2、時
学校を改築して作られた〈神の新砦〉本部。この建物にはふたつの校舎があった。
シオリたちが寝泊まりし、朝食をとったのは北校舎。会議が開かれるなど仕事の場として用いられるのが南校舎だ。その南側にはグラウンドがある。一周歩くのに数分かかる空いた土地は、シオリたちにとっては広大に感じられた。小集落なら丸々ひとつ入るかもしれない。しかし、臨海部の学校のグラウンドとしては狭いらしい。
グラウンドは木よりも高いフェンスで囲まれている。その内側に成人男性の背ほどの石壁が建てられていた。シオリはそれを何気なく見ていたが、聡いメアリはマーラに質問する。
「どうしてあのように二重に建てられているのですか?」
いまだにメアリの敬語はどこか痒い。その度に口元を緩ませたユリアと目が合う。そしてメアリに睨まれる。
「いい質問ね。外のフェンスは元々学校で使われていたものだけど、内側はここを買い取ってからサルコウさんが建てたものなの」
「買い取った?」
「ええ。ここはね、仕事の場として使われているけれど、正確にはサルコウさんの私有地なの」
驚愕する一同。大都市近隣の土地がそうそう買える価値のものでないことくらい、シオリたちにも想像はできた。
わたしも値段は怖くて聞けないわ、とマーラ。
「子どもたちはボール遊びしたりするから、高いフェンスが必要になるの。でも、わたしたちが暮らす上で必要なのは、高いフェンスよりも、一般市民から覗き込まれにくい壁。グラウンドで修練したりもするし、そういうのを見られるのって、あまりいい気がしないでしょ?」
「たしかに」
この大きな建物を歩き回るのは探険のようで楽しかった。大勢の子供達が廊下を歩き、教室で並んで授業を受ける様子を想像する。その像が正解なのかはわからないが、わからないということが、一層ワクワクさせた。
「この建物はわたしたちだけでは広すぎたから、あなたたちが来てくれて、ちょっと埋められた気がするわ」
数十もの教室があるが、現在使われている教室はほんの数個だった。昨日シオリたちが泊まった部屋は「新しい人が来たときのために」と清掃されていた部屋だったらしい。部屋の数には余裕があるので、今後ひとりひとつずつ教室を持つことになるのだとか。ひとりだと少し寂しいから、いつもは誰かの部屋にいて、次の日はまた別の誰かの部屋に行って。ということをしても楽しそうだ。
一通り歩き回った後、南校舎二階の教室に入った。
教室の中心やや前方に五つの机が置かれていた。向かい合わせに引っ付けられている。ふたつは廊下を背に、ふたつはグラウンドを背に、ひとつは黒板を背にする形だ。
黒板側の席にマーラが座り、彼女から見て左前にシオリが座る。隣にユリアが座った。
窓からはグラウンドのフェンスが見えた。シオリの視線の高さよりもフェンスの背は高い。
青空だった。シオリの正面にぽつんとひとつ雲が浮かんでいる。それを眺めていると、メアリが正面に座って影となった。
「昨日の今日で急に決まったことだから、これからどんな勉強をどのようにすればいいのかわからないのだけれど、しばらくは適当な世間話がてら話を掘り下げたりして、身近なものの成り立ちや生活に役に立つようなお話を、わたしの知る限りでお話しようかなあと思うの。どうかしら」
楽しそう、とシオリは思うが、ユリアは唇を結んで眉を曲げている。それを見て、マーラは苦笑する。
「教科書を用いてお堅い勉強をしようなんて思わないから安心して。まずは論より証拠ね。さっき『時間についてのお話をしよう』って言ったと思うんだけど」
マーラは人差し指を立てた。
「みんなは一時間の半分のことをなんて言う?」
なんとなく質問の意図はわかった。
まずメアリとフミが答える。
「三十分」
「わたしも三十分です」
この話題はシオリたちの間でも以前に上がったことがあった。
シオリとユリアはありのまま答える。
「三十分とも言いますが、一時ノ折とか、単に一折とかって言います。メアリには古いって言われたけど」
「ユリアたちの村ではみんな使ってたし」
シオリは丸い時計を思い浮かべる。短針が一周する間に十二時間、長針が一周する間に一時間が経過する時計だ。その時計を丸い紙として、半分に折ると半円になる。長針が一時間の半分(三十分)で描く軌道だ。
一時間を半分に折って、一時ノ折。もう半分に折った十五分は一時ノ二折。略すと二折。
「そうね、折という単位はこの国で古くから使われてるから古いといえば古いんだけど、未だに使われてもいるのも確か。若い子が使うことは減ってるみたいだけど、わたしはまだまだ使うわ。このお話は一旦置いておいて、次の質問いいかしら」
「はい」
「一日は二十四時間だよね。じゃあ、一時間は六十分? それとも、二十四環?」
「分を使うことが多いけど、環を使うこともあります」
「おじいちゃんおばあちゃんは環を使ってました」
それぞれが答えたり頷いたりするのに合わせて「うんうん」とマーラも頷いてから続けた。
「一時間が二十四環、一環が二十四途。この単位はおじいちゃんおばあちゃんの単位って感じはするね。わたしもあまり使わないけど、サルコウさんはたまに使うわ」
ユリアは尋ねる。
「どうして呼び方がふたつもあるんですか?」
「なんだでと思う?」
シオリは同じ質問を母に尋ねたことがあった。悩むユリアへ、その言葉をなぞる。
「環や途はこの国ならではの単位、分や秒が世界中で使われてる単位で、世界に合わせようとしてるから、って聞いたことがある」
「シオリちゃん、大正解。偉いわね」
マーラの笑顔が、母と重なった。
顔が熱くなる。こうして褒められたのはいつぶりだろう。
「その、お母さんから聞いたことがあって」
「それを覚えているってことが大事なのよ」
「……ありがとうございます」
どういたしまして、とおっとり微笑むマーラの顔を、シオリは見ることができなかった。
マーラは続ける。
「シオリちゃんの言ったように、いま世界では何時何分何秒って言い方が主流。これは元々は英国の単位なの――もちろん言語は違うけどね。昔、戦争で世界中に植民地を作って、その単位を広めて。世界中で単位が統一されているほうが都合がいいから、英国とは関係のない国も対立している国も、その単位を使うようになったのよ。機械への影響の大きさもあるし。この国で広まったのはほんの何十年前の話だから、まだ時環途の単位も残ってる。あなたたちがわたしくらいの歳になったときには、もうなくなってるかもしれないわね」
単位がなくなる。多くの人に親しまれたものがなくなる。
ユリアが呟く。
「ちょっと、悲しいかも」
「わたしもそう思う。時環途の単位はゆったりしてて、わたしは好き。この国の歴史を辿っていくと、大昔に時分秒の単位が一度やってきてるのは知ってる?」
知らなかった。最年長のメアリすらも「初耳です」と前のめりになっていた。
「他の国から大勢の人がやってきてね。この閉ざされた島国にいろいろなものを伝えたの。その人たちは時分秒を使ってて、この国の人たちにそれを教えたんだけど、結局やってきた人たちも一緒に時環途を使うようになって。一途がだいたい六秒ちょっと。秒に慣れると大きすぎる単位だけど、ゆったりとした魅力があるのでしょうね」
その魅力ある単位が、『統一されているほうが都合がいいから』という理由で消えてしまうかしれない。それは、ひどく冷たいことに思えた。
多くの機械が開発され、人々の生活に多大な変化が生じたことによる犠牲。
実際に時環途を使っている人は、どう感じているのだろう。
そう思ったとき、ふと故郷のことを思い出した。
文明の進化を拒み、時代から置いていかれた田舎の村。
これまで「どうして便利なものを拒むんだろう」と何度も疑問に感じていたが、その理由がちょっとだけわかった気がする。
少し間を置いてマーラが続けた。
「もう少し大きな単位を見てみましょうか。一年は三百六十五日よね。それは地球が太陽の周りを一周回るまでに三百六十五回自転するからだけど……このあたりはわかるかしら」
彼女はフミを向いていた。もっとも幼いからだろう。
「はい。わかります」
はっきり答えるフミ。
しかしシオリとユリアは首を傾げて顔を合わせる。
そーっとユリアが手をあげる。
「あのー、自転ってなんですか」
「そんな申し訳なさそうにしなくてもいいわ。疑問を持って質問するっていうことは、素晴らしいことなんだから」
ユリアの顔が紅潮した。さっきの自分もきっとこんな顔だったのだろう、とシオリは恥ずかしくなる。
「いまは朝だけど、時間が経つと夕方になって、夜になるよね。で、また朝が来る。これは地球が回っているからっていうのは知ってるかしら」
「うん」
「そのように地球が回ることが自転。それに対して公転っていうのが、一年かけて地球が太陽を回ること。イメージとしては、ユリアちゃんがその場でくるくる回るのが自転で、この教室を一周歩くのが公転ね」
地球がそのようにして動いているのは聞いたことがあったが、名称は初耳だった。
自分たちよりも幼いフミのほうが知識が豊富であることは、この二年半で何度も感じていた。その度情けない気持ちにもなったが、フミは「シオリさんたちがバカなわけじゃないです。わたしは親からいろんなことを教わっていたので」と申し訳なさそうに言った。いまもフミは目線を落としている。
「一年が三百六十五日なのは必然性があること。でも、どうして一日は二十四時間なんだろう、って考えたことはない? 一日をどう割るのかなんて自由でしょ? なんで二十四なんて、中途半端な数字にしたのかな。十とか二十で区切ったほうがキリが良くて計算しやすいような気がしない?」
確かに、とシオリとユリアの口から漏れる。
一日以上の時間を数えるときにわかりにくい、と思ったことはある。一日が二十時間だったらわかりやすいのに、と。
各々がそれぞれ思考にふける。最初に口を開けたのはメアリだった。
「二十四という数字は、三でも四でも、六でも八でも割ることができる。時間は三十時間、四十時間と一日以上を加算して数えるよりも、半日、四分の一日、三分の一日というように徐算で数えることのほうが多くて都合がいいから、でしょうか」
「半分正解よ。でも、百点満点の答えだと思う」
「というと」
「もう半分は、考えてそうそうわかることじゃないの。まず、わたしたちは一年を十二で割って一ヶ月としてるでしょ? これは、月が満ちて、欠けて、また満ちて。の周期がだいたい三十日だから。月の周期を基準にしてるから『一ヶ月』。三百六十五日を三十日で割って約十二ヶ月。この十二という数字を使ってるの。十二時間を半日として、二十四時間を一日をする。メアリちゃんの答えは、この十二という数字が偶然三でも四でも、六でも割ることができて都合が良かった、というお話なのよ。諸説はあるのだけれど、十二という数字がそうやって色々な数字で割ることができて気持ちがいいからこそ、一日も十二で割ろう、二十四で割ろうというふうになったとも言われるわ」
マーラがにっこりと笑う。その目の輝きが、好きな虫を見つけたときのユリアと重なる。
「面白いことにね、世界が今のように繋がるよりもずっと昔から、この考え方は多くの国で使われてたの。英国やその他の多くの国で生まれた一時間六十分の六十も十二で割れるし、この国古来の一時間二十四環の二十四も十二で割れる。他にもこの世界にはいろんな時間の単位が存在していて、十二を基準にしているものが多い。面白いと思わない? わたしたちが、世界中の人たちが、繋がる前から繫がっていたなんて」
いつのまにかユリアは机に体を乗り出していた。シオリも大きく頷く。
誰かが決めた単位が統一して使われたわけじゃない。あちこちで同時多発的に同じ考えが生み出され使われている。その普遍性が、どこか神秘的にさえ思えてしまう。
「ものを学ぶ上で一番大事なのは、ものを覚えることじゃないと、わたしは思ってる。いろんなことを知ってることじゃないと思ってるの。一番大事なのは、疑問に思うということ。次に探究心ね。学校っていう場所は子供たちにものを覚えさせる『受動性』を重要視して、子供たちが疑問に思ったことを自ら調べようとする『能動性』を軽視してる節がある。多くの子を同時に対処しないといけないから仕方ないんだけどね」
ふと昔のことを思い出す。『好きなことを調べましょう』という宿題が出たときにユリアが虫図鑑を作ったことだ。
ユリアはタムユらの手を借りて大人向けの図鑑まで読み漁り、熱心に作っていたのだが、その内容が捕食や交尾などにまで深く及んでおり、シオリは素直に感心した。しかし先生の評価は辛辣で、「もっと子どもらしくて、女の子らしいものにしなさい。これじゃあ、書いていることが正しいかどうか先生に判断できないでしょ」と叱られてしまったのだ。ユリアは納得がいかなくて反論したのだが、結局泣いて帰ることになった。ユリアが「机に座って長話を聞かされる」という意味の『勉強』という言葉に拒絶を覚えるようになったのは、それ以降だった。
ひょっとするとマーラにも似たような経験があったのかもしれない。
「わたしは学校のそういうところがあまり好きじゃなかった。今日はわたしから話題を提供したけど、これからはみんなの思う疑問をどんどん持ってきてほしいの。それを、みんなで解決しましょう。ここには図書館もあるし、学校の色々な設備だっていくつも残ってる。それを使って、みんなと一緒にいろんなことを学べると、わたしも嬉しいわ」




