第二章 1、朝
目覚めたとき、真っ先に頭によぎったのは〈あの光〉の翌朝のことだった。日も暮れぬうちに知らない人の家に上がりこんで泥のように眠り、目覚めた朝。知らない天井に驚き、前日の悲惨な出来事が現実のものだと思い知らされた朝。この二年半の間、初めての場所に泊まったことは何度もあったが、そのどれでもなく、シオリは最初の朝のことを思い出していた。
広い部屋だった。昨晩、昔ここは学校だったと聞いた。この部屋は子どもたちが勉強する場所だったと。机や黒板、木製のロッカーなどがまだ残るここは、廃校になったときから内装は変わっていないらしい。昨日、机をみんなで後ろに運び、布団を敷いて眠った。
体を起こす。カーテンは遮光のものでないため、朝日が透けて入ってきていて部屋は明るかった。
部屋の黒板側の窓際、人差し指でカーテンをめくらせ、メアリが外を眺めていた。
「起きたか」
「おはよう、メアリ」
布団から出てメアリの隣へ立つと、彼女はシオリにも外が見えるようカーテンを開いた。
眼下に木々やコンクリートの住宅が一面に広がっている。あの建物のひとつひとつに何人もの人が住んでいるのだと思うと、都会の人口密度に息が苦しくなる。初めてホルンを訪れたときのようなキラキラした感動はなかった。
「高い建物だよな」
「うん」
「だが、ここ以上のものも数え切れないくらい建っている。あんなものが、どうやって支えられているのか、さっぱりわからんな」
「そんなこと考えたことないや」
この建物は三階建てだった。シオリたちはその三階にいる。また、多くの民家よりもずっと天井が高かった。内陸部では三階建ての建物はほとんどなかったため、窓から木を見下ろすことができるのは新鮮だった。
ずっと向こうに高層ビル群が見える。ホルンの中心部だ。ここは内陸部へ向かう坂の中腹に位置していて、玄関の標高はここのほうが高いはずだが、屋上の標高は向こうのビルのほうが上だろう。
カーテンに掛けた手を離し、ずっと外を見ていたメアリがシオリへ顔を向ける。
「この選択に後悔はないか?」
メアリの目の下には薄ら隈ができていた。昨晩消灯した時間は早かったが、よく眠れなかったのだろう。
「ないよ。メアリはあるの?」
「ねえな。間違いなく前進できたと思っている。報われた気さえするよ」
「盗みとはいえ、メアリが頑張ってアピールしたから、サルコウさんは私たちを見つけてくれたんじゃないかな」
「呑気に跡をつけられていたお前らのおかげでもある」
シオリは苦笑いする。
サルコウはシオリたちが内陸部で生きていることに確信を持っていた。それは、シオリらがフェンスの穴から内陸部へ入るのを目撃していたからだ。
二年半前、サングラスで目を隠していたシオリとユリアが〈魔の穢れ〉だとばれ、メアリらゲット・アウェイ・ガールズが盗みに現れて騒ぎが発生したとき、メアリたちは盗んだ車、シオリたちは徒歩でフェンスへ向かった。そんなシオリたちの跡を、サルコウはつけていた。フェンスを超えて境界の森へ入るシオリたちを見て、政府の発表を疑うようになったのだ。追いかけようとも思ったらしいが、サルコウはあるものを見つけ、足を止めたという。
隠しカメラだ。
シオリたちもメアリたちもまったく気づいていなかったが、彼らがフェンスを越える様子は監視されていたらしい。サルコウからそのことを知らされた彼女たちは、さぞかし驚いた。同時に、シオリら四人が内陸部に閉じ込められたのは、誰かの意図したことに違いないと確信を得た。
――オレたちがあそこを行き来してたのを知ってたなら、なんでもっと早く閉めなかったんだよ。どう考えてもオレたちの行為は都合が悪いだろうに。
メアリのその問いに、サルコウは静かに答えた。
――わからぬが、おぬしらのおかげで、〈神の末裔〉の〈魔の穢れ〉嫌悪が増幅することになった。それが、政府にとって都合の良いことだったのかもしれぬ。
「この選択に後悔はない。これまでもお前と訓練を続けてきたが、限界は感じていた」
メアリは声を落とし、続ける。
「だから、もっと強くなれるかもしれないこの選択は、間違いなく前進だと思ってる。ただ、フミがな……」
「フミ?」
そこで廊下から足音が聞こえ始めた。ふたりは口を閉ざし、音に集中する。足音は近づいてきている。音はこの部屋の引き戸の前で止まった。
コンコン。
ドアがノックされ、静かに開けられる。
「あら、もう起きてたのね、おはよう」
マーラだった。
三十歳から四十歳くらいだろうか。身長はシオリと同じか低いくらいで、ややふっくらしている。赤と白のギンガムチェックのエプロンが彼女の柔和な雰囲気を強調していた。
垂れ目気味の目尻にシワが寄ると、シオリもメアリも自然と笑顔になった。
「おはようございます」
「もうおふたりは、まだ眠ってらっしゃるのかしら。うふ、かわいいわね。もうすぐご飯ができるけど、無理してふたりを起こさなくてもいいから、いつでもいらっしゃい。待ってるわ」
そうは言われてもやはり起こすべきだと思ったのが顔に出たのだろう、マーラが「ほんとにまだ三十分くらいはだいじょうぶよ、どうせゼンも寝坊するから」と頭を下げ、ゆっくり扉を閉じた。
結局、十分ほど経ってからふたりを起こした。その後、顔を洗ったり歯を磨いたり、軽くストレッチをしたり着替えたりしてマーラの待つ食堂へと降りた。
食堂は校舎の一階にあった。八人ほどが囲んで座れるくらいの、白い長方形のテーブルが六つ並ぶ広い空間だった。シオリたちが眠っていた教室とは違い、洋室の趣がある。
マーラは部屋の隅のテーブルで手のひらほどの本を読んでいた。シオリたちが来たことに気づくと顔を上げ、にこにこと微笑む。
「おはよう。昨晩はよく眠れたかしら」
「はい」
フミやユリアは言わずもがな、シオリも昨夜は熟睡していた。〈玉〉に入ってここへ来る前まで長時間歩いて疲れていたからかもしれない。初めての場所で眠ることにはもう慣れていたので、あまり緊張もなかった。むしろ獣に突如襲われるような不安もなく、これほど気持ちよく眠られたのはいつぶりだろうと感動するほどだった。
「うふふ、メアリちゃんはあまり眠れなかったみたいね」
「メアリ『ちゃん』」
「メアリ『ちゃん』」
「メアリ『ちゃん』」
「おいてめえら」
仲がよろしいことで微笑ましいわ、と立ち上がるマーラ。
「ごはん持ってくるわね」
「手伝います」
「あらあら。じゃあ、お願いしようかしら」
台所には五つのお盆があった。
それぞれにサラダが盛られた小皿と、空の茶碗がふたつずつ乗っている。空のふたつはご飯を入れるものと、スープを入れるものだ。
「今からお魚焼いてくるから、その間にご飯とスープをよそってね」
炊飯器を開けると、胃を刺激するような熱気が沸き上がった。口の中が唾に満たされる。しゃもじで掬ったご飯を、お茶碗ではなく口にそのまま入れたい衝動にかられてしまうほどだ。
炊飯器といえば、シオリとユリアがそれを初めて見たのは、四人旅を初めて数週間たった頃だっただろうか。シオリたちにとってお米は日常的に食べるものではなく、また、お鍋で炊くものだった。炊飯器の使い方をメアリとフミに教わり、できあがったものを見たときはたいそう感動し、馬鹿にされた。
スープは味噌と魚介ダシに海藻や葉野菜を入れたものだった。味噌もシオリとユリアにはあまり馴染みはなかったが、比較的臨海寄りに住んでいたメアリとフミには馴染みのあるものだったらしい。フミが「味噌は保存が効くのでどこでも食べられるものだと思ってました」と驚いていたのを見て、ヘンデ村は本当に狭いところだったのだと思い知らされた。
よそったご飯とスープをお盆に乗せ、食堂へ戻る。
シオリが壁際に座り、その隣にユリアが座った。テーブルを挟み、壁側からメアリとフミが座る。プラスチック製のテーブルだった。座椅子はパイプ椅子。内陸は木製の家具が大半だったため、シオリは物珍しく思う。
「おなか減ったね」「やっと臨海部に来た実感が出た」「ずっと〈玉〉に入ってたもんな」「あれは一体なんなのでしょうか」「さあ」「知りたいような、知りたくないような」などと話していると、焦臭くも香ばしい匂いが漂うように。野菜や肉を炒めたときとは違う香り。メアリが「魚なんて食うのいつぶりだろうな」と呟いて、初めてそれが魚を焼いた匂いなのだと知った。ワクワクした。
少しすると、両手で器用に長方形の皿を持ったマーラがやってきた。
「さあ、召し上がれ」
四人のお盆に白魚の切り身を置き、マーラは「あ、お茶を忘れてたわね。すぐに持ってくるから、もう食べちゃってて」と台所へ戻った。
面白い人だね、とユリアが呟くと、シオリたちも口をほころばせた。
手を合わせる。
「いただきます」
メアリがお箸で切り身をちぎるのを見て、真似する。表面はパリッとしていたが、中はふわっと柔らかかった。口に入れると、火を通して芳醇になった塩気が舌いっぱいに広がり、次に独特の香りが鼻を抜けた。香ばしさの隙間にある、かすかなくさみ。それが、塩によって一種のスパイスへと昇華されている。
温かいご飯からはステナの宿屋の食事が思い出された。内陸部ではとっくにお米もダメになっていたので、非常食用ではないものを食べるのも久方ぶりだった。これほど味が違うものか、と顔を上げると、ユリアがほっぺたが落ちそうな顔で目をキラキラ輝かせていた。
「おいしい! こんなおいしいご飯いつぶりだろ!」
うふふ、と台所からマーラの声が漏れてきたと思うと、お茶の入ったガラスのコップを持って現れた。
「ありがとう。そう言っていただけると嬉しいわ」
「こちらこそありがとうございます。すごくおいしいです」
「ああ。食に感動するのも久しぶりだな」
「はい! メアリさんの野蛮な料理とは雲泥の差です!」
「フミ。さりげなくオレをけなすな」
全員の前にお茶を置き、マーラはフミの隣に座った。
フミが尋ねる。
「マーラさんはもうご飯食べたんですか?」
「ええ。わたしは早起きだから、いつもひとりで食べるか、サルコウさんと食べるか、かしら。今日はサルコウさんと食べたわ。あなたたちの教育方針について話しながら、ね」
「サルコウさんも早起きですよね」
ここへ来るまでの数日を共に暮らしていたが、サルコウは誰よりも早く起床し、体を動かしていた。
「ええ。疲れているときは少し遅くなるときもあるんだけどね、今日は『もう少し寝たいが政府の元へ行かねばならん』と愚痴をこぼしてたわ」
「政府?」
「内陸部調査の報告にね。もう聞いてるかもしれないけど、あなたたちのことはしばらく秘匿するから心配しないで」
ありがとう、と言うべきか、すみません、というべきか、シオリには判断がつかなかった。曖昧に頭を下げると、マーラは嫣然と微笑んだ。
「あまり遠慮はしなくていいわ。なんでも聞いてちょうだい」
ありがとうございます、とシオリらは頭を下げる。
メアリが尋ねる。
「他の方々は、どうしたのですか。女性と男性がもうひとりずついたと思うのですが」
「メ、メアリさんが敬語を……⁉︎」
「メアリちゃんが敬語を……⁉︎」
「あのメアリちゃんが……⁉︎」
「お前ら、オレをなんだと思ってるんだ」
楽しいわね、と苦笑してマーラは続ける。
「セリュウくんはここに住んでないの。時々しかここに来ないわ。ゼンは寝坊ね。いつものことではあるんだけど。ひょっとすると、あなたたちのことを考えてて眠れなかったのかもしれないわ。メアリちゃんみたいに」
「メアリちゃんみたいに」
「メアリちゃんみたいに」
「メアリちゃんみたいに」
「もういい加減飽きろよ」
そうして笑っていると、廊下から足音が聞こえてきた。
「噂をすれば、ね」
引き戸が開かれる。
「おはようマーラさん。お、みんなももう起きとったんや。早いなあ」
「あなたが遅いんですよ、ゼン」
昨夜ゼンとは軽く挨拶した程度で、ほとんど会話もしていなかったため、いくつかの特徴と雰囲気しか覚えていなかった。小麦色の肌とよく通る明るい声、編み込むようにセットされたアシンメトリーの髪。服装も、体のラインがしっかりと出る細いものだった覚えがある。
たった今シオリらの前に現れたゼンは、そのクールな印象とはかけ離れた人物像に見えた。
寝起きのままセットしていないらしいボサボサの髪。上下灰色無地のだるっとしたスウェット。眠たそうな目。化粧をしていないのだろう、眉が薄かった。
茶髪ではあるし、肌の色も声も覚えがあるので本人であることは間違いないだろうが、昨日との差にシオリは驚いていた。
また、彼女の訛りにも。
おはようございます、とメアリとフミが挨拶するのにつられ、シオリも軽く頭を下げる。一拍遅れてユリアも頭を下げた。
へへっ、とゼンは力が抜けたように笑う。
「おはようさん。昨日はよう話せんくてすまんかったな。ウチは見ての通りあんまガラはようないけど、別に悪いやつやないから心配せんといて。なあ、マーラさん」
「ええ。ゼンはちょっとヤンチャで血の気が多いだけですから」
「それ、なんか印象悪いからやめて」
ゼンがユリアの隣に座ると、正面にいるマーラが「今からお魚焼いてきますね」と席を立った。
「ありがとうございますマーラ様! 女神!」
賑やかな人だなあ、とシオリは思う。メアリでさえ彼女の勢いに引き気味の様子だった。
ゼンは四人全員の顔が見えるように前のめりになり、にっこり笑った。
「昨日もちょっとだけ挨拶したけど、あんま覚えてへんやろ。ウチはゼン。大事なことやからもういっぺん言うで。ウチの名前はゼン。二文字。覚えやすいやろ。忘れたらなんべんでも聞いてや。その代わりウチは人の名前覚えるの苦手やから、多分なんべんもみんなの名前聞くで。あはは!」
立て続けに放たれる言葉たちに、助け舟を呼びたくなった。
「ごめんごめん、いきなりなんやねんこのうるさい女は、って思ったよな。それに慣れてもらうのが、ここでの最初の試練や。ちなみにマーラさんもサルコウさんもセリュウもまだこの試練を突破できてへん。あはは! いまだに毎日のように『黙れ』って目ぇ向けられるわ」
なにを言っているのかよくわからないが、悪い人でないことはわかった。
「ほら、このうるさい女のことは無視して早くご飯食べや。冷めるで。ゆっくり堪能して食べや。って、『早く食べろ』言った矢先に『ゆっくり食べろ』やって! あはは! こりゃ傑作やわ。これをネタにまたセリュウにウザ絡みしたろ。まあ冷める前に食べや。マーラさんのご飯おいしいやろ」
「はい」
答えたのはメアリだった。引きつった笑顔からは、四人の最年長としての使命感が感じられる。
「やろ? 命をかけるような大変な仕事やけど、そのぶんマーラさんのご飯が至福の時でな。毎日朝起きるのが楽しみやねん。毎日寝坊しとるけどな。あはは!」
「ゼン。うるさい」
眉を曲げたようなマーラの声が台所から飛んできた。
「ごめんごめん。寝起きで頭がぼーっとしとってな。つまり、目が覚めたらもっとうるさくなるってこと。にゃはは! うざかったら張っ倒してええで」
「は、はあ……」
ゼンの口の早さにはついていけないが、シオリもユリアも、フミも、メアリも、徐々に口角が上がるようになっていた。表情が柔らかくなっていた。あまり自覚はなかったが、緊張していたのだと、体の力が抜けて気づかされた。
メアリが尋ねる。
「ゼンさんは西の人ですか」
「うん、見ての通りな。キミ、名前は?」
「メアリです」
「メアリ、ね。覚えたで。十秒後に忘れるからよろしく」
西の人? とユリアが首を傾げた。シオリも『西の人』という言葉に馴染みがなく、ひっかかりを覚えていた。
「うん。え? ひょっとして『西』って言ってわからん? まじで? ウチの言葉聞き取れてる?」
「えーっと……」
ユリアの困り顔がシオリへ向く。シオリが代わりに答える。
「ある程度わかりますが、聞き慣れなくてよくわからないところもあります」
「テレビとかあんまり見ぃひん? 見ない?」
「あまり見ないです」
〈あの光〉の直後は充分に電気を使うことができたが、少しずつできなくなっていった。電気がなくなったのだ。そうなってくると電気を使う前提で発展した町は逆に不便になり、シオリたちは電気をほとんど使わない田舎町で暮らすことが常になっていた。そのため、テレビはあまり見なかった。
「そっかあ。テレビで西の言葉話す人も増えたから、こっちでも結構通じるねんけどな。うん、わかった。ちょっと頑張って標準語も使ってみるわ。標準語ってなんか痒いから、ちょっとだけな。せやから、みんなも早くウチの言葉慣れてな」
(『せやから』がまずあれなんだけどなあ)
文脈からして『だから』というような意味なのだろう。
「一応説明するとな、西の言葉っていうのは、このランフ国の西側の地域で使われとる方言やねん。方言だ、ってことね。西はこことは違う独特の文化があったりして面白いところやから、機会があったらまた案内したるわ。西にも支部あるし、一生行かんってこともないやろ。知らんけど」
マーラがお盆を持ってやってきた。
焼けた魚を見て「おいしそー!」とはしゃぐゼンは、まるで少年のようだった。いただきまーす! とご飯を勢いよく頬張る。
「みんなはゼンの子どもみたいな食べ方を見習っちゃダメよ」
「見習ったらアカンで」
「自分で言わないの」
シオリたちはもうほとんどご飯を食べ終わっていた。おかわりはどうかしら? とマーラは提案したが、四人とも遠慮した。
「ちょっと休憩したら、わたしとお勉強しましょう」
「え」
低い声を出したのは、勉強嫌いなユリアだった。
そんなに嫌そうな顔しないで、とマーラは苦笑する。
「学校の授業みたいなお堅いことはしないから安心して。もっと実用的で楽しいことを中心にしようと思ってるの。今日は時間についてお話しようと思うんだけど、どうかしら?」




