第一章 5、新たな舞台へ
狼は力尽きた警備隊長の片袖を乱暴に引き剥がす。隊長の腕から外されたそれを踏みつけ、牙を抜いた。
「隊長……!」
部下の男は以前に一度だけ狂った獣と対峙したことがある。そのときは三人での警備でこの狼より一回り小さい猿だったため、〈神の新砦〉が到着するまでの十分間の足止めに成功した。
今回ここの警備がふたりだけだったのは、隊長が優秀だからだ。その隊長が倒れた今、部下の男の脚は震えるほかない。
〔聞こえるか?〕
無線から男の声が聞こえる。〈神の新砦〉のセリュウだ。
「はい……。ですが、たったいま隊長が、気を……」
〔わかった。急ぐ。無理はしないように〕
「了解」
境界の門は人里から離れた場所に位置している。このあたりはほとんど境界の森の一部と言って差し支えない場所だった。そのため、ここで狼を見逃したとしても町までたどり着くには時間がかかるだろう。警報無線を鳴らした時点で警察の警備も厳重になるはずだ。
隊長は充分に時間を稼いでくれた。狼を逃がすことを優先する。
それが定石だろう。彼もそう思っていた。
しかし、片袖から解放された狼は低く喉を鳴らしながらにじり寄ってきた。感情の見えない狂った瞳の奥に怒りの光が見える。電撃を与えた男を真っ先に倒すべき敵として認識したのかもしれない。
狼が飛びかかる。
男は避けた。普通の動物より動きが早いとはいえ、直線的な跳躍であれば避けることは容易い。
あいにく狼はそのまま町へ向かうこともなく、男へ向き直した。今度は跳躍ではなく、地を駆けてる。
片袖を装備していればそれを盾にしただろう。しかし男の左手にあるのは無線機だ。
右手の警棒を振り、狼の鼻先を叩く。突進の勢いは強かったが、男だって日々訓練をしている。手のひらは痺れたが、狼を突き飛ばすことは適った。
狼は地面を転がり体を引きずる。人間や並の獣だったら痛みですぐには体を動かせないだろうが、狂暴化した彼らに痛みという概念はない。不器用に四肢を振り乱しながら無理やりに起き上がり、再び体を投げ出した。
不気味な動きに鳥肌が立つ。
恐怖が彼の動きを鈍らせた。一瞬の遅れだった。そのかすかな遅れを取り戻そうとすばやく警棒を振るが、威力に欠けた一振りになってしまう。その一撃を、狼は噛みつき受け止めた。振るわれる武器を口で受け止めるという発想――自らの牙を犠牲にするかもしれぬ大胆な捨て身に、彼は身を震わせてしまう。もし精神的な余裕があれば、柄のボタンを押して電撃を与えられただろう。そのことを思いついたときには、すでに狼に警棒を奪われていた。
「しまっ……!」
狼は咥えた警棒を背後へ投げる。
男の手に残されたのは、無線のみ。頑丈ではあるが、いささか武器としては弱い。
どう対抗すべきかを考える暇を、狼は与えてくれない。
硬い警棒に噛みついて欠けてしまった牙が、眼前にあった。
「くっ!」
大きく開かれた顎を掴む。動物だというのに、動き回っているというのに、不気味な冷たさがあった。
背後へ突き倒され、狼が胴体に乗り上がってくる。男は狼の口を両手で押さえていた。噛む力は強いようだが、口を開ける力はさほど強くないらしい。
(なんとしてもこの手は離すまい)
体を振り回されながらも、狼の皮膚に指を食い込ませる。体毛のせいで滑りやすく、少しずつ手が狼の鼻先へ滑っていく。このままでは十数秒で掴んだ手が解かれ、狼の牙が解放される。そうなれば、この鼻先を突き合わせるような至近距離で逃げられるはずはない。鋭利な牙が鼻を砕き、唇を前歯ごと噛みちぎられ、眼窩から眼球をえぐり取られ、噛み潰される。そんな映像が脳裏に流れた。その間にも掴んだ手は滑っていく。
ついに、握っていたものが抜けた。
狼の喉の奥、血の色が見えた。
その瞬間、
「よくぞ耐えてくれた」
短い叫びを発し、狼が吹き飛んだ。
何かが空を切る音が聞こえる。この音には、聞き覚えがあった。
「あとはワシに任せるのじゃ」
気の遠くなるほどの経験を積み重ねたであろうことが一息で伝わる、しゃがれた声。
女子供のように小柄ながら、歳を感じさせぬ俊敏さで舞う老体。
存在するだけで安心感を覚えてしまう、英雄の風格。
存命であられる〈神の七砦〉の子孫の最高齢であり、〈神の新砦〉のリーダー。
サルコウだ。
「早めに帰ってきてよかったわい。ほっほっほ」
突然の来訪に男が目を疑っている間に、サルコウは狼へ駆け出した。狼も気が動転しているのか、倒れた体を起こすのに手間取っていた。その体が起き上がった直後、狼の首へサルコウの杖が振るわれる。
男には杖の動きがほとんど見えていなかった。あまりに早いため、空気を裂く音を耳が捉える頃には、狼が再び倒れ、動かなくなっていた。的確に急所を突き、気絶させたのだろう。
「すごい……」
「ほっほっほ。経験じゃよ。何度か狼と戦っておるからな、急所もだいたい把握しておる」
男はようやく立ち上がり、敬礼した。サルコウの身長は男の胸のあたりまでだが、サルコウが自身より一回り大きく感じられた。
「そこで倒れとるのはお主らの隊の長じゃな。一応生きてはおるようじゃが」
サルコウは隊長へ近づき、しゃがむ。
男は隊長が気を失うまでの一部始終を手短に話した。
「なるほどの」
膝に隊長の頭を乗せると、隊長が唸った。
「ううっ……」
「目を覚ましたか。じゃが体を動かすな。じっとしておれ」
隊長は心地よい声に体を任せたように目を瞑った。きっと現状を把握できていない。自分に話しかけているのが憧憬するサルコウだとも気づいていなさそうだった。
サルコウは隊長の右目を手で開き、ライトを当てて覗き込んだ。左目を開かせたあたりで車のエンジン音が聞こえ始めた。
「やっと来おったか」
おそらく法定速度をはるかに超えているであろうその車は、あっという間に門の前までたどり着いた。
この国で最も名高い自動車メーカーであるフィル社の、鷹を模した銀のエンブレムが光る。降車したセリュウの目もまた、鷹のように鋭かった。
「だいじょうぶか」
セリュウは男や隊長よりも背は高いが体は細い。まだ二十ほどの若さだが、幼少期から訓練し続ける使命を持つ彼は、隊長や男よりも遥かにたくましく見えた。
「遅かったな、セリュウ」
「どうしてあなたが……。まだ帰還する予定ではなかったでしょうに」
「気が変わったんじゃ。それよりそこの狼じゃが、まだ留めは差しとらん。楽に死なせてやってくれ」
「はい」
セリュウは言われるがまま、狼の首にナイフを当てて頸動脈を切った。どくどくと血が流れる。
殺されかけた相手とはいえ、この瞬間は空しいものだった。三人は手を合わせ、冥福を祈る。
隊長の意識がはっきりしてきたらしい。「……サルコウ様?」と掠れた声を出す。
「いかにも。瞳孔は閉じておるが、まだ頭を動かすでないぞ。セリュウ、警備隊長を病院へ連れて行ってやれ」
「はい」
車から担架を取り出すセリュウ。〈神の新砦〉ではこのような際に怪我人を運ぶため、八人乗りの自動車が使われている。
サルコウとセリュウと協力して隊長を担架に乗せて車へ運びこむ。隊長の容態が気になるが「私は引き続き警備を続けます」と敬礼した。
「ああ、よろしく頼む。見たところ、そう心配はいらないだろう」
警備当番の交代が来るまでの間、サルコウは部下の男とともに門を守護し、〈神の新砦〉本部に戻っていた。その途中に警備隊長の怪我は命に害を与えるものではなかったとの知らせは受けている。サルコウは一時間かけて徒歩で帰還したため、セリュウのほうが先に本部についていた。
「戻ったぞ」
サルコウが会議室の扉を開けたときには、彼以外の〈神の新砦〉本部のメンバー三人全員が揃っていた。
「おかえりなさい、サルコウさん」
「うむ。皆も悪いな、急に集めてしもうて」
すでに日は暮れていた。本来であれば各々が部屋で自らの自由時間を過ごしているはずの時間帯だった。
「いえいえ」
マーラが微笑む。セリュウやサルコウとは違い、温和な身なりや話し方をする淑女だ。
「早く土産話を聞かないと、気になってゆっくりもできませんから」
「それもそうじゃな。しかし、いまは手短に別の話をしたい。土産話はワシがここに存在するという事実でおおまかに察してはくれぬか」
三人は苦笑しながらも頷く。サルコウも一度口元をあげたが、ただちに表情に緊張を張らせた。
「ひと月前まではここにももっと人員がいたが、全国で狂った獣の被害が目立ち始め、西、南、北に支部を作って人員を分配した。今のところ、この人数でもなんとかはなっているが、日々獣たちの凶暴性、暴力性は日々増している。今日は警備兵たちの中でも優秀な隊長が気絶にまで追い込まれた。そう大きい狼でもなかったというのに。このままでは大事な民を救う人員が足らなくなる、という話になっておったが、ワシがおらん間に進展はあったか」
「いいえ」
首を振ったのは二十過ぎの女――ゼン。日焼けのような小麦色の肌に、左側頭部だけ編み込まれた茶髪、訛りのある話し方が特徴だ。
「ウチらみたいな動物を殺す仕事に付きおうてくれる人はなかなか見つかりませんね。〈神の七砦〉子孫連中にはもうとっくに頼んどるし」
〈神の新砦〉は〈神の七砦〉の子孫を中心に組織されているが、現在〈神の新砦〉の一員となっているのは十数名程度だった。
戦闘訓練を受ける使命を持っているとはいえ、時代の流れとともに戦いから身を離した一族も珍しくない。
「そんなお主らに朗報じゃ」
サルコウは含み笑いを浮かべ、背負っていたリュックを下ろした。
「朗報とは、いったい」
「新たな仲間を連れてきた」
そう言ってサルコウはリュックから四つの球を取り出した。手のひら大のそれを机の上に置く。
「それは……」
「驚くでないぞ」
その球に取りつけられたボタンをひとつずつ押していく。順番に球が開き、光が放たれる。
そして、四人の少女が現れた。
「なっ……!」
その不思議な光景に、三人は口や目を閉じることを忘れる。
突然現れた四人も、見知らぬ風景に目を丸くしていた。
青色と桃色、赤紫、黄色の目を。




