第一章 4、境界の門
「この国の民を……救う」
それはすなわち、臨海部へ行くということ。
旅を始めた頃は臨海部へ行くことが目的のひとつだった。実際にたどり着いたときは、心が踊り感動したものだった。しかし今は、臨海部という場所への恐怖が強い。
内陸部以上に激しい差別。目の色をごまかすことさえ法で禁じられる環境。
フェンスを越えることはおそらく難しくない。彼女たち四人が内陸部に留まり続けているのは、超えた先で暮らして行ける自信がなかったからだ。
「不安そうじゃな」
「……はい」
内陸部で食料を得ることは日に日に難しくなっていた。食べられる状態の缶詰も減ってきた。野菜を種から育てたこともあったが、彼女たちは生き残りを探すために点々と移動しているため、あまり大規模のものを作ることはできなかった。狩った獣を食べたりはしているが、食用でないため食感は劣る。
だからといって、臨海部へ行くことが理想的とも思えなかった。
メアリが問う。
「フェンスの向こうで、オレたち〈魔の穢れ〉がまともに生きられるのか? しかも政府の傘下の組織、それも〈魔の穢れ〉の敵の子孫がいるところへ」
「もっともな心配じゃな。そう言うと思ったが、きっと杞憂に終わる」
「というと」
「確かに、多くの〈神の末裔〉は〈魔の穢れ〉を嫌っておるし、〈神の七砦〉の子孫たちもじゃろうが、それは違う。ワシら〈神の七砦〉の血を継ぐ者は、幼い頃からこのように教え叩きこまれておる」
『我らにとって勝利とは、戦に勝つことではない。戦を起こさぬことだ』――と。
「〈魔の穢れ〉は決して差別の対象ではない。なぜなら差別は戦の火種だからじゃ。もっとも、ワシらとて人間。多少の生理的な嫌悪を抱く者もおろう。しかし、おぬしらが心配する必要はない。その嫌悪感に――自らの心の濁りに打ち勝てぬ者に、〈神の七砦〉の子孫を名乗る資格はないのじゃから」
自らの心の濁りに打ち勝てぬ者に、〈神の七砦〉の子孫を名乗る資格はない――。
シオリは思う。
(この人は、その誇り高き言葉を、体で表しているような人だ)
「でも、政府に属しているんですよね。だいじょうぶなんですか?」
声を震わせたのはフミだった。
「〈魔の穢れ〉がおると知られたら騒ぎになるじゃろうな。そもそもワシらは狂った獣がフェンスを越えたとフェンスの警備兵から連絡を受けて出動することがほとんど。警備兵らと顔を合わせることもあろう」
「では」
「しかし心配は無用じゃ。おぬしらさえ嫌でなければ、黒のカラーコンタクトレンズを装着してもらおうと思っておる」
「え?」
この国ではカラーコンタクトレンズの製造は禁止されている。〈魔の穢れ〉に〈神の末裔〉のふりをさせないために。
サルコウは鷹揚に笑う。
「ほっほっほ。ワシはな、これまで多くの民を助けてきた。多くの者と友となった。コンタクトレンズを製造している会社の社長とも親交がある」
おいおい、とメアリがこぼす。他の三人は小さく噴き出した。
「犯罪じゃが、別に構わんじゃろう。なにせワシらは政府に属しておるからな。多少の無理は聞かせられる。利用できるものは、なんだって利用しようではないか。獣との戦いを強いることになるし、政府へ嘘をつく危ない橋を渡ることにもなる。無理にとは言わんが、内陸に閉じ込められ続けるよりは悪条件ではないじゃろう」
「もし」
ユリアが遠慮がちに手を上げる。
「ユリアたちがこのお誘いを断ったら、どうなりますか」
「ふむ。そうじゃな……」
サルコウは目を瞑り、ややうつむいた。
「ワシは引き下がる。無理を強いるつもりはないからの。その後はしばらく内陸部を探索するつもりじゃ。気が向いた頃にでもホルンに戻り、異常はなかったと報告する。そしたら、どうなるのじゃろうな。政府は内陸部を開放するのじゃろうか……まだせん気がするな。ワシから疑われておることは奴らもわかっとるじゃろうし、念のために自分たちの手で再調査をするかもしれぬ。そこでおぬしらと出会うと、どうなるのじゃろう」
サルコウはそこで口を止めた。
その続きは、朧げに想像できた。具体的なことは何もわからないが、いいことが起こる気はしない。政府がサドたちと繋がっていようが繋がっていまいが、シオリたちの存在は政府にとって都合のいいものではないだろう。
おそらく、全員がそう感じている。
「まあ、あまり良いことは起こらぬじゃろうな」
「はい」
サルコウは一呼吸つき、立ち上がる。そして、シオリたちへ手を差し伸べた。
「どうじゃ? 一歩踏み出してみんか?」
× × ×
ホルンと内陸部を繋ぐ〈境界の門〉。
警備隊長はパイプ椅子に座り、退屈を持て余していた。
二年半前に閉ざされた門は先日一度だけ開かれた。サルコウが内陸部の調査をするためだ。現在は閉じられており、彼が帰還した際に開く手はずになっている。
〈あの光〉で汚染された内陸部がすでに入れられる状態になっているかもしれないことは、政府の人間や境界の門を警備する一部の人間にしか知らされていない。警備隊長はその一部の人間のひとりだった。
門の向かいでは部下が椅子に座りうつむき、頭を揺らしている。警備隊としてはあるまじき姿だが、彼は決して無能なわけではなかった。むしろ優秀の部類に入るだろう。そんな人間でさえ勤務中に居眠りをするほど、この仕事は退屈だった。
警備隊長も眠気に襲われていたが、二人で守っている門で二人とも寝るわけにはいかない。たまに聞こえる鳥のさえずりなどに耳を向けながら、腕や足をつねったり、立ち上がって屈伸したりして眠気に耐えていた。
(サルコウ様は、ご無事なのだろうか)
門の向こうへ想いを馳せる。
遥か昔、この国を救った英雄〈神の七砦〉の子孫の中で最高齢のサルコウは、警備隊や警察官の間では有名人だった。護身術や警棒の扱い、人体力学を利用した拘束手法などを彼から教わったことのある者は多い。警備隊長は彼と模擬戦を数度したことがあるが、攻撃を当てることすら一度も敵っていない。警備隊長にとってサルコウは絶対に超えられぬ壁であり、尊敬する英雄であった。
〈あの光〉が一体なんだったのかは、いまだに判明していない。放射能の可能性があると報じられたこともあったが、現在では否定されている。放射能について詳しくはないが、数年で消えるものではないと聞いたことがあった。まして、それに触れた者がただちに死ぬほどのものであれば、何十年経っても消滅はしないだろう。
現在サルコウが中へ向かったことを思うと、やはり放射能ではないのだろうが、正体不明であることに変わりはない。倒れているサルコウなど見たこともないし想像もできないが、敬愛する師が憐れに伏せる姿がときどき脳裏によぎり、心苦しかった。
かすかに足音が聞こえたのは、立ち上がって背筋を伸ばしていたときだった。
向かいの眠った部下はともかく、一般の人間ならほとんど気にも留めない遠い音だろう。おそらく動物が歩く音。しかし、ただの動物の足音とは限らない。
「おい、起きろ」
部下に声をかけたとき、四本の足が地を駆け走り寄る音がはっきりと聞こえるようになった。部下もその危険信号に目を開き、跳ね起きた。
「奴らだ」
軍用犬訓練用の黒い片袖を左腕に装着する。右手には腕ほどの長さの警棒を握る。狂った獣を殺すことは到底できない装備だが、彼らの目的は獣を倒すことではない。時間を稼ぐことだ。
森の中にいるのだろう、姿はまだ見えない。だが、位置は掴める。荒い息が聞こえた。
「連絡しろ」
部下は腰に備えた無線を取り出し、ボタンを押した。これで〈神の新砦〉本部へ『警戒』の連絡が入った。あとは、門やその外側にあるフェンスを超えてこないことを願えばいい。願いが叶わなかったら、彼らが到着するまで獣を足止めする。
足が震える。これまで二度奴らと戦ったことはあったが、いまだに恐怖に飲まれそうになってしまう。
「敵は一匹だ。あまり大きくはない」
警備隊長の言葉を敬語に修正し、部下は無線へ復唱する。
フェンス越しに木の陰から茂みへ獣が飛んだのが見えた。犬か、狼か。体長は第二次成長期前の男児くらいだろう。このフェンスは頑丈だが、あちらこちらに突進されて変形してしまった部分が見受けられる。壊されてはいないが、大きな獣に何度も襲われたらどうなることか。今回の敵は大きくないため、心配はないだろうが、そのぶんフェンスを飛び越えてくる可能性が高い。
茂みの葉を散らしながら影が猛進してくる。体が大きくないぶん速かった。
そして、狼が茂みを高く飛び出した。軽やかに飛ぶ狼はフェンスの頂上へ着地し、警備隊長らを見下ろし、喉を鳴らした。
灰色の毛並みの狼だった。体のあちらこちらに赤黒い染みが浮き上がっている。普通の狼なら川で体を洗いそうなものだが、彼らにはそのような理性すらもないらしい。
フェンスまでは十歩ほどの距離だった。一度も地に足をつけることなく、狼は警備隊長の顔面めがけて飛びかかった。
左腕の片袖を盾にすると、狼はそれに噛みついた。その衝撃に警備隊長は体勢を崩し、背中から落ちる。手が塞がっているため受け身を取ることもできず背中を打撃したが、後頭部を打ち付けることは阻止した。
強烈な生と死の匂いが、鼻先をすくめる。狼が腹に乗っている。至近距離で狼と目があった。狼は乱暴に片袖を噛みながら身体を振るい続ける。この片袖は、一度牙を深くまで食い込ませてしまうとそう簡単には抜けないようになっている。警備隊長自身が片袖を外そうとしない限りホルンの町へ狼が駆け出すことは防げるだろう。
だがそれは、己の体力を酷使することを意味する。
狼にのしかかられているときはまたマシだった。片袖をくわえたまま身体から降り、全身で警備隊長を振り回し始めると、上も下もわからなくなり、腕がちぎれそうになった。
「隊長!」
部下の声と打撃音が聞こえた。警棒で狼を叩いたようだ。一瞬だけ振り回される力が弱まったが、一瞬だけに過ぎなかった。狂った獣にとって、痛みはブレーキの役割をなさない。
「俺のことは構うな! 電流を流せ!」
この警棒は電流を流すことができる。体の弱い者であれば瞬時に気絶してしまうほどの電流だ。
隊長は歯をくいしばる。いつのまにか右手の警棒がなくなっていることに気づく。
すると、隊長の大声に驚いたのか、狼はこれまでの中で最も激しく首を振った。くわえられた隊長が宙に浮き、遠心力と地面に背中を叩きつけられる。
左肩に激しい鈍痛が走った。脱臼したかもしれない。
「早く!」
悲鳴にも似た命令の反響が薄れると、部下の雄叫びが冬の空に轟いた。
そして、電流が走る。
全身が痺れると、地面が消えた。認識できなくなった。すべての音が途絶えた。時が止まったかのように。
しかし、すぐに感覚が戻ってきた。狼越しの電流であったため威力は薄れていたらしい。
青空が見える。ゆったりと流れる雲が見える。
「やったか……?」
「はい。おそら――」
地響きのような唸りが耳元で蠢いた。荒く熱い息が片袖の奥の腕にまで伝わり、背に蟲が走った。
腕を強く掴まれる。そして、彼の体は再び宙を舞った。狼の背よりも高く飛びあがらされたと思うと、右肩から地面へ墜落する。
視界が瞬時に赤へ青へ黄へ点滅し、警備隊長の意識は途絶えた。




