第一章 3、狂った獣
「なにから話そうかの」
シオリたちは拠点としている家屋の玄関にいた。シオリと老人が上がり框に腰をかけ、ユリアとフミはその背後に座る。メアリはその後ろで気絶したまま眠っていた。
「彼女が起きるまでは本題に入らんほうがよいじゃろう」
「はい。お名前を伺っても」
「まだ話しておらんかったか!」
老人は高らかに笑った後に頭を下げた。
「そらすまんかったな。そういえば、ホルンで会ったときも名乗ってはおらんかったか。ワシの名はサルコウ」
「私はシオリ。こちらがユリアとフミ。そこで伸びているのがメアリです」
サルコウはひとりひとりに微笑みかけていく。背中を曲げ、元気に笑うその様子は、ただの若々しいおじいさんにしか見えない。
「内陸部で生きておるのは、おぬしらだけか?」
「わかりません。少なくともこの二年、私たちは内陸部を点々としてきましたが、誰とも出会ってはいないです」
深く掘り下げて話そうとしたが、言葉が出なかった。臨海部から来たサルコウに、なにから話すべきなのか。どこを切り取っても非現実的な現実をどう伝えるべきなのか、わからなかった。
「そう難しく考えんでもよい」
シオリの心を読んだかのように、サルコウは穏やかに頷く。
「多少脈絡がめちゃくちゃになっても、人生経験で補ってやるわい。わかるところだけ話してくれればよい」
サルコウの瞳は、美しかった。皮膚は年齢で風化しているが、その瞳はシオリ自身がはっきりと写るほど澄んでいる。
ユリアとフミに目を向ける。ふたりは同時に頷いた。
「……わかりました。私の知ることをすべてお話しします」
あの夏の日の朝、突如村中が光に包まれ、気を失ったこと。目を覚ますと村中の大人と男の子が亡くなっていたこと。生き残った女の子たちの多くが暴走したこと。殺しあったこと。
ヘンデ村で生き残ったシオリとユリアが隣町へ向かったこと。そこでリザという少女に会ったこと。その少女が謎の女に連れ去られたこと。
ユメのことは話すべきか迷った。今やユメは有名人だからだ。とはいえシオリたちが臨海部へ行くことができたのは、紛れもなく彼女のおかげだった。そのため、ユメがフェンスの穴から内陸部に侵入し、シオリたちと出会い、一緒に暮らしたことを話した。そして、サングラスや洋服を持ってきてくれたユメを、殺したことも。
臨海部へ行き、ユメの紹介でステナの宿屋へ向かったこと。サルコウと出会ったこと。〈魔の穢れ〉だと気づかれたこと。騒ぎの中、メアリたちの盗賊団ゲット・アウェイ・ガールズが現れたこと。追いかけたこと。
メアリと戦ったこと。途中で謎の女――ルーインが現れたこと。シオリとメアリ以外全員が連れ去られたこと。メアリとともに〈血の研究所〉へ向かったこと。
研究所でユリアとフミがリザや双子と出会ったこと。そこではこれまでの暮らしよりも遥かに快適な生活を送ることができたこと。
シオリとメアリが研究所の長と対面したこと。鍵をくれたこと。ユリアたちを解放したもののルーインに襲われ、ほとんどの少女たちが再び奪われたこと。ルーインと戦い、六人で逃げたこと。しかし、双子のマヤがリザと共に消えたこと。
メアリたちが作ったフェンスの穴に向かったが、すでに閉ざされ、厳重に警備されていたこと。再び〈血の研究所〉に向かうも、すでにもぬけの殻だったこと。壁に穴を開けようとしたが、傷ひとつ付けられなかったこと。
自分たち以外に生き残った女の子がいないか探し求めていること。
未だひとりも見つかっていないこと。
話し終える頃にはメアリも起き上がっていた。
「私たちが知ることは以上です」
「そうか……。いくつか予想を立ててはおったが、それほどむごいことになっていたとはの。二年以上も、たった四人で旅を続けていたのじゃな」
「はい」
サルコウは天を仰ぎ、目を瞑っていた。思考を整理しているようにも、あるいは誰かに祈っているようにも見えた。
少しして、彼は苦い声を出した。
「なにか質問してみたいが、なにから質問すべきかわからんわい」
「すみません」
「謝ることはなかろう。では、質問は後にして、ワシの目的を話そうかの」
一同は頷く。
「おぬしらもおそらく出会っておるじゃろう。狂った獣に」
シオリは目で首肯し、今いる家屋の玄関とは逆の側のことを思う。サルコウと出会う前に狩った猪が倒れている庭を。
「あやつらが境界のフェンスを飛び越え、町を襲うようになったのは半年ほど前のことじゃ。野犬や猿が森から町に出てきて何らかの被害を与えることは、これまでも時折あった。じゃが、この半年続いているそれは、まるで異質。彼らはあまりに見境なく暴れ続け、多大な被害を与える。警察が銃で威嚇しようとも恐れることなく飛び込んでくる。恐れをなした警官が発砲し、血を流しても、命ある限り肉へと食らいつこうとする。あの血走った目は、戦いに慣れたワシですら武者震いしたものじゃ」
一日だけいたホルンの風景を思い浮かべ、狂った獣たちが暴れている絵を想像する。あの美しい町が血で染められる絵。胃が締めつけられる思いだった。
ユリアが呟いた。
「半年、ですか」
「その言い草だと、内陸ではもう少し前からいる、ということじゃろうか」
「はい。初めて狂った獣を見たのは一年近く前でした」
それまで彼らはあまり動物と出会わなかった。シオリらが車が通れるような広い道を中心に生活していたのに対し、動物たちはそこから離れたところに生活拠点を置いていたのかもしれない。
野犬や狼、猿などの被害は昔からあった。しかし〈あの光〉以降彼らをほとんど目にしなくなり、久々に遭遇したと思ったら、体が傷だらけで、血走った目をぎょろりと回転させていたのだ。その瞳は〈あの光〉で暴走した女の子たちの瞳とそっくりだった。〈魔の穢れ〉のように不思議な色がついていたわけではないとはいえ、〈あの光〉とこの獣たちが無関係には思えない。
その推察をサルコウに話すと、彼は「やはりな」と呟いた。
「メディアでも、狂った獣たちと〈あの光〉に関連がある可能性が指摘されている。なにしろ、真相はさておき内陸に入った研究者が狂い死んだと言われておるからな。おぬしらの話を聞いて、ほとんど確信を得たわい。となると、二年間狂った獣が発見されなかったことには、ふたつ説が立てられるな。単におぬしらと出会わなかっただけか、動物の発症が遅いか」
おそらく後者だろう、とシオリは考えていた。きっとサルコウも。
〈あの光〉の真の目的はわからないが、「〈魔の穢れ〉を作る」ことが第一の標だったはずだ。獣への効果は副産物なのだろう。また、人間への効果を第一としたため、獣への発症が遅かったのかもしれない。
「真相は追々掴めばよい。〈あの光〉の創ったという者たちとはしばらく遭遇しておらんようじゃが、いつか姿を表すじゃろう。話が逸れたが、ワシは狂った獣を狩る仕事をしておる」
「獣を狩る仕事?」
「うむ。狂暴化した獣への対応は、最初は警察がおこなっておったのじゃが、彼らは動物に対してはあまり強くない。なにせ、相手は致命傷を与えぬ限り動きを止めんからの。拳銃の使用も原則禁止じゃし、怪我人も多く出た。そこでワシらが呼び出されたわけじゃよ」
一息置き、彼は続けた。
「ワシのように命を奪うか奪われるかの特殊な戦闘訓練を受けておる者が、この臆病な国には何十人かおってな。〈神の七砦〉は知っとるか?」
シン・レイガンツ。
シオリは初耳だったが、フミが「はい」と応えた。
「昔、〈魔の穢れ〉と〈神の末裔〉が内戦したときに〈魔の穢れ〉へ立ち向かった〈神の末裔〉の七人の戦士たち、ですよね」
なんだよそれ、とメアリ。
「内戦? そんなことあったのか」
「わたしも詳しくは知りませんが、それが〈魔の穢れ〉差別のきっかけになったと教わったことがあります」
「差別のきっかけ……」
(そういえば、あまり考えたことがなかった)
これまで母が受けてきた差別を、シオリは暴力的で理不尽なものだと思っていた。ただの悪習だと思っていた。目の色が違い、〈魔力〉という不思議な力があるから忌み嫌われている、としか考えたことがなかった。
「詳しい話は後にすればよい。ともかく、彼ら七人の子孫は、なにかあったときのためにと戦闘訓練を続ける使命を持っておった」
「そのひとりが、サルコウさん」
サルコウは鷹揚に首肯する。
「うむ。全員というわけではないが、ワシら〈神の七砦〉の子孫を中心に、狂暴化した獣から市民を守る組織〈神の新砦〉が結成された。政府の命令によってな」
「政府の?」
一同の眉が顰められる。政府の発表が虚偽であることを知る彼女たちには、政府への疑念が深いのだ。
それを見て、サルコウは皮肉的に嗤う。
「あやつらが何を考えとるかは知らんが、市民を守ることが政治の表向きの目的じゃからの。心配せんでよい。ともあれ、ワシら〈神の新砦〉は政府に属する組織ということになる。ほとんど顔を合わせることはないがな」
おそらくサルコウはここへ来る前から政府へ疑念を抱いていたのだろう。
その唾するような言い草から、シオリはそう感じた。きっと彼はシオリたちと違う視点から政府を疑っている。
その念を感じたのか、サルコウは「ワシのことはまた後で話す」と言って続けた。
「メアリ以外にはすでに少々話したが、ワシがここに来た目的はふたつ。ひとつは政府から調査命令が出たこと。内陸部はもう人が入っても死なん可能性が出たからの。もうひとつは、おぬしらを探すことじゃ。なぜ探しておるかは、もう察しがついておるかの」
四人は無言で顔を見合わせる。シオリも、メアリも、ユリアも、フミも、同じ瞳をしていた。
サルコウは落ち着いた声で語りかける。
「ワシと共にホルンへ行き、〈神の新砦〉の一員として、この国の民を救わぬか?」




