第一章 5、ぬくもり
「じゃあね!」
夕食を終えたジャネルとユリアを見送り、シオリは居間へと戻る。寝巻と畳まれた布団が用意されていた。
視界が端の方から白く霞んでいく。おなかいっぱい食べた後はいつも眠たくなる。
お風呂に入ってからじゃないとダメ、と自身に言い聞かせながらも「今日くらいは……」とふらりふらり布団へと近づいてしまう。まだ広げられてないけど、ここに飛びこんだらすぐに気持ちよく眠れそうだった。
「こら。まだお風呂にも入ってないでしょ」
母の温かい叱り声に、シオリは振り向く。
すると、シオリの顔を見たラソンはぷっと噴き出した。
「どんな顔してるのよ」
「え、どんな顔?」
「すごく目が細くて眠たそう」
ふふっ、と微笑み、ラソンはシオリの足元でしゃがむ。見上げる姿勢でラソンは娘に尋ねた。
「あと三十分、耐えられる?」
「できない」
そう返事しながらシオリはスズメが止まるような重たいまばたきをした。
シオリから目を逸らして唇を噛んだ後、ラソンはシオリの目の奥を覗きながらゆっくりと続けた。
「そう。ご飯食べてすぐにお風呂入るのはあんまりよくないんだけど、仕方ないわね。今からお風呂入れるから、もうちょっとだけ待ってなさい。それくらいならできるでしょ?」
「……うん」
「自信なさげね」
じゃあ、とラソンは人差し指を立てて提案した。
「今日はお母さんも一緒に入ってあげるわ」
「お母さんも!」
目を輝かせるシオリを見てラソンは「目が覚めたようね」と微笑む。
「じゃあ、しばらく待ってなさい」
「うん!」
(お母さんと一緒にお風呂なんて、いつぶりだったかな)
ラソンが湯を温めに行ってからシオリは考えていた。
ラソンは「ずっとお母さんにべったりじゃ駄目よ」と徐々にシオリと距離を置いていた。うんと小さな頃は食事をひとりで、今度はお風呂を、買い物を一人で、と。
一年ぶりくらいかな、と胸を躍らせながら、頼まれてもいないのに布団を二人分敷く。いつもは肩幅くらいの間隔を開けて布団を配置するのだが、この日はぎゅっと並べて置いてみた。いつもは気にしないような小さな皺を伸ばし、まるでふたつが繋がっているかのように工夫する。
お母さん怒るかな、と脳裏によぎるが、シオリは「たまにはそれもいいかも」と開き直る。
ラソンの甘くない教育の成果もあって、少しずつシオリは自立していっていた。そんな中で母親の体温を感じられる機会も並行して減っていた。それを寂しく思っていたのは紛れもない事実で。だから、母に触れられるのなら、それだけで気持ちがあふれるほどに嬉しかったのだ。
「あら、」
居間へと戻ってきたラソンは寄り添って寝ている布団を見て「偉いわね」と声をこぼした。
「だって、お母さんの子だもん」
シオリが無邪気に胸を張ると、母は月のような笑みを見せた。
今日くらいはいいかしらね、と綺麗にくっついた布団へ顔をほころばせるラソン。
やった、と小さくシオリは零した。怒られるよりは喜んでもらう方がずっと嬉しいに決まっている。
そんな娘の喜びは母にも伝染する。母は愉快そうに髪留めを外して髪をほどいた。
「お風呂沸いたわ。行きましょう」
「うん!」
「しっかり体を洗えているか見てあげる」
そう言われ、シオリは湯気の中で緊張していた。濡れた手ぬぐいで石鹸を擦り、泡立てる。その手の動かし方ひとつひとつさえも見られているようで、お風呂だというのにあまりリラックスできない。
ここはこうで、ここはこうで、と声を出しながら確認し、自分の体のあちこちに手を伸ばしていく。湯船に浸かる母へ、シオリは目を向けない。
私はひとりでできるんだぞ、大きくなったんだぞ。
「最後に足の裏を隅々までぬぐって……どう? お母さん」
ここで初めて母を見た。真剣な表情だった。真剣だけど、微笑んでいるように温かい、不思議な表情。
糸が緩んだように、母の頰がほころぶ。
「合格よ」
「やったー!」
手放しで喜ぶシオリ。おかげで腕に付着した泡が宙を舞ってしまった。
「こらこら。お風呂で暴れない」
もう少し優しく擦っても大丈夫よ、とラソンは人差し指を立てる。
「じゃあ、頭はお母さんが洗ったげる」
「いいの!?」
「そんな嬉しそうな顔を見て、嘘だなんて言えるわけないじゃない」
ラソンが立ち上がると、彼女の体を纏っていた湯が雫となり、音を立てて滝のように落ちていった。興奮気味の湯気が一層かき立たされ、そのぬくもりがシオリの頬をふわりと撫でた。
母の、衣を羽織らない体を見るのはいつぶりだろう。あちらこちらに差別の跡が散らばっていて痛々しかったが、美しい芸術作品のようにも見えた。
ラソンはシオリの後ろに座り、「目、瞑ってなさい」とシオリの髪に吐息した。こそばったいような、それ以上に嬉しいような。
まぶたを閉じると、石鹸のにおいと共に、懐かしい香りが鼻に抜けた。
(ああ、お母さんだ)
嬉しくて嬉しくて、目を開けて振り向きたくなる。
でも、言われた通りにしなくちゃ。
じっと待っていると、頭皮に懐かしい感覚が泳いだ。膨らみながら弾ける泡の音が、耳の奥を優しく刺激する。
ああ、お母さんだ……。
「お母さんの手、やさしい。やわらかい」
「やわらかいかしら。人よりも硬いんだけどね。さてはシオリ、頭もいつも強く擦っているのね。もしかして爪で?」
「……ごめんなさい」
「指のおなかで優しく撫でるくらいでいいのよ。あまり強すぎると頭皮を傷つけてしまうから」
その後は一緒に湯船につかった。あまり広くない湯船の中では、お湯の温かさよりも母のぬくもりがじんわりと感じられた。そして、その中に、なにか濁ったものが含まれていることも、シオリは感じとった。
なにかが変で、胸がもやもやとするが、それを口にできないまま、お風呂を出ていた。
「おやすみ、シオリ」
「おやすみ、お母さん……」
シオリが布団に入ると、ラソンは電気紐を引っ張って灯りを消し、シオリの隣へと入った。
母の息が肌をさする。飛び跳ねたくなるほど嬉しいくすぐったさ。暗闇の怖さを吹き飛ばしてしまうほど嬉しい痒み。
でも、さっきからの胸のもやもやがそれを防いでしまっていた。
嫌な予感に駆られながら、暗がりの中で口を開いた。
「どうしたの、お母さん」
返事には、息ひとつぶんの間があった。
「なにが?」
「今日、なんだか変だよ」
そしてもうひとつ、間があった。
「そう?」
「いつもより優しい」
また一段、大きな空白があった。
「優しいのは嫌?」
「ううん、嬉しいよ。お母さんと一緒にいられるのはすごく嬉しい。でも、なんだかわからないけど、でも……」
直接聞けばもやもやの正体が分かると思っていた。でも、いざ聞いてみると、なにもわかる気がしなかった。
「そうね……お昼のことがあったからかしら」
やわらかくて、でも、どこか冷たい響き。哀しい輪郭。
「……明日朝起きると、差別がなくなっていたらいいのにね」
母親の声が夜の静けさに馴染んで聞こえた。
「ううん、なんでもないわ。おやすみなさい、シオリ」
「……うん、おやすみなさい」
これ以上口を開けてはならない気がした。
母から届く吐息はどこか懐かしくて、どこか懐かしくなかった。
シオリは必死に目を瞑る。なにも考えないように、考えちゃダメ、と。