第五章 13、サド
遠くから、口笛のような鳥の声が聞こえた。
車から降りて吸った空気は、村の空気とも都会の空気とも血生臭い死体のにおいとも無縁とさえ感じる、澄んだものだった。虫の声も心なしか遠い。
シオリたちは森のすぐ淵にいた。数歩進んで木を横切れば、そこはもう森ではない。不自然に拓かれた広い更地だ。
森に囲まれた巨大な円形の空間は、間違いなくヘンデ村よりも大きい。その中央に、横に長い楕円状の建物があった。――上空から見えれば完全な円なのかもしれない。あそこまでは駆け足でも三分近くかかるのではないだろうか。
「あれが〈血の研究所〉。木々すらも避けると言われる、血塗られた研究所だ」
「木々すらも、避ける……。そんなことあるの?」
「あるわけねえだろ」
「ないんだ」
はあ、とメアリは呆れるようなため息をついた。
「話に尾びれがついただけだろ。あまり詳しくは知らねえが、ここで行われた研究で多くの人間や動物が殺された、って噂だ」
多くの人が死んだ。
それが本当だとすると、〈あの光〉となにか関係があるのだろうか。
「行くぜ。車から降りろ」
「でも、これだけ景色がいいと、簡単に見つかっちゃうんじゃ」
「車乗ってても乗ってなくても見つかるのは同じなんだから、愛車が壊されねえようにするのが先決だろ。」
「愛車? 盗難車の間違いでしょ」
「盗難車兼、愛車だ」
はいはい、と肩を落とす。
「でも、みんなを連れ戻して逃げるときにルーインに捕まるんじゃ」
「なに言ってんだお前。ルーインなんてぶっ飛ばすだけだろ。違うか?」
「それもそうね」
敵の本拠地へ、二人は堂々と歩いていく。
ミルサスタを出て丸一日経っていた。間に集落はなく、夜は車の中で寝て、朝からまた車を走らせて昼過ぎにようやく到着していた。
秋らしい涼しい風が心地よい。
空には雲ひとつなく、日差しが眩しかった。そのため、入り口まで着く頃には服の下が薄ら汗ばんでいた。
近づくと、建物はさらに大きく見えた。高さはシオリ十五人ぶんはある。幅はその三倍ほどだろうか。
相対的に、入口の扉が小人のように見えた。
「ルーインのバイクはねえな」
「留守かな。そうだと都合がいいけど」
「バイクぐらいいくらでも隠せるだろうがな」
「そっか」
「どちらにせよオレたちのやることは変わらねえよ。この扉を開けるだけだ」
「扉の開け方はわかるの?」
「扉の開け方? お前知らねえのか。扉はな、ぶっ壊せば開くんだよ」
「あなたに聞いた私がバカだった」
メアリが手の上に細長い光の筋を作った。指よりも細く、手のひらほどの長さの光。シオリやルーインと戦ったときの光線のようでもあるが、ずっと短くて細い。
「なに、それ」
「オレの〈光〉は細く短いほど温度が上がる。飛距離が短ければ威力も増すのさ」
「フェンスを焼き切ったのも、それ」
「ああ。ここまで温度を上げたらさすがに人には使えねえし、そもそもこれくらい細くして長さを保つのも、今のオレにはまだできねえ。実践で使うのは、お前に使ったのが限界だな」
シオリも、ルーインのように炎を綺麗な形に保つことはまだできなかった。炎の柱を作ろうとしたことは何度もあるが、ムラのあるものしか形成できていない。
どうすればあの領域にたどり着くことができるのか。
「なに怖気づいてんだよ、早く来い」
「怖気づいてなんかない」
扉の前に立つ。
横には、無地の、三列三段のボタンがあった。
「壊さなくても、あれで何か入力すれば開くんじゃないの?」
「パスワードなんてオレは知らねえよ。お前は知ってんのか」
「知らない」
「なら、ぶっ壊すだけだろ。よし、覚悟しろよ扉。オレにぶっ壊されたくなければ、黙って開くことだな」
この人はなにを言ってるんだろう、とシオリが目を細めたときだった。
扉が開いたのは。
「え?」
メアリはまだ、なにもしていない。
しばらく二人は固まっていた。
「ははっ、ついにオレは扉にまで恐れられるようになったか」
「変な冗談言ってる場合じゃないでしょ。これ、バレてるってことよね」
扉の向こうには、細長い道がまっすぐ続いていた。薄暗いため、奥までは見えない。
〔入るといい〕
男の声がした。
驚いて声の方向へ目を向けるが、誰もいない。あるのは扉の横のパネルのみ。
思い返せば、人の生の声というよりはラジオやテレビの音のようだった。あのパネルにそのような音が出る仕組みがあるのだろう。
「『入るといい』って、入れってことかしら」
「なにバカなこと言ってんだ。行くぞ」
「う、うん」
三十歩ほどの廊下だった。薄く紫がかった、金属調の壁。壁には充分な照明が埋め込まれているのに、薄暗く感じられた。
歩く音がカツカツとよく響く。かすかに薬のような香りがする。空気がひんやりとしている。その先には、拓けた空間があった。
広間に出ると、あかりがついた。シオリの背丈の三倍はある高さに、薄暗い灯火が間隔を空けて壁に設置されているが、到底それだけでは足らないほど、この部屋は広くて暗い。窓ひとつないため、突然夜が訪れたような不気味ささえもあった。
左手には階段がある。右手側には何もないが、もっと奥側、暗がりの中、シオリたちの向く方向の右奥、遠くにも登り階段がぼんやりと見えた。おそらくこの広間は、この建物の一階のほぼ全域を占めているのだろう。
あちらこちらに巨大な機械が並んでいる。まるで、巨人の群れに見下ろされているような圧迫感があった。
この部屋の中央に、ぽつんと椅子が置かれていた。大きな背もたれのついた椅子が、シオリたちに背中を向けている。そして、それは静かに回転した。
座っていたのは、白衣の男。
「ようこそ。〈血の研究所〉へ」
それだけを言い、彼は手にしていたマグカップに口をつけた。
体が細く、色の白い男だった。髪も長く、顔の多くを隠している。その隙間から見える銀色の眼光に、シオリは言葉を失う。
男はなにも言わず、その冷たい眼でシオリたちを見据えている。輝く色なのに、暗い。何事にも興味がなく、憐れみも悲しみもない、虚無の目。
「てめえは、誰だ」
メアリの威嚇を、男は黙って眺めていた。マグカップから口を離す。
シオリは尋ねた。
「あなたが、ルーインの言ってた〈あの光〉を作った人?」
息を吐くように男は言う。
「いかにも」
低い声だった。
メアリが構える。
「君たちと戦うつもりはない」
「知るかよ。てめえをぶっ飛ばさなきゃ、オレの腹の虫はおさまらねえ」
「やめておいたほうがいい。なんの解決にもならない」
シオリも黙ったままメアリの手を掴み、制した。メアリは舌打ちをし、その手を振り払った。
「てめえは、何者だ」
男は立ち上がる。体が細いせいか、かなり背が高く見えた。
文字を読むような平坦な調子で、彼は名乗る。
「私はサド。この研究所の主人」
この巨大な研究所の主人にしては、ずいぶんと若く見えたが、いくつくらいに見えるかは、はっきりしない。メアリと同じくらいと言われても、母より歳上だと言われても、信じてしまうだろう。
「改めて聞こう。私たちの仲間になる気はないか?」
「ねえよ」
「ない」
「悪いようにするつもりはない。すべての真相を君たちに教えるつもりだ」
「真相?」
真相というはっきりした言葉と、サドの眠たそうな銀色の眼は、どこか不釣り合いで、怪異的だった。
「知りたくはないか」
「教えられる気はねえよ」
メアリが強く答える。
「自分で掴んでやる」
シオリも一歩踏み出し、拳を握った。
「だから、私たちの仲間を、友だちを返しなさい」
サドを睨む。だがサドは特に興味もなさそうに、無感情でシオリを見つめていた。まるで言葉が聞こえていないみたいに。
「わかった。今は君たちのことを諦めよう」
落胆している様子はない。
本当にそうなのか、表情に出ないだけなのか。
「これからもずっと諦めてろ」
「ゲット・アウェイ・ガールズ、と言ったか」
「ああん? 文句あんのか」
「ゲット・アウェイは『逃げる』。ガールズは『少女たち』。うまく直訳できる文字列ではないが、おおむね『逃げる少女たち』あるいは『少女を離れる』ーー『大人になる』というような意味か」
言葉の意味を知らなかったシオリがメアリを見上げると、彼女は目を細めた。
「別に深い意味なんてねえよ。響きだよ、響き」
「でも、あなたたちは逃げてなんて」
「うるせえ」
数刻の沈黙の後、サドが言う。
「そのネーミングは嫌いじゃない、とだけ言っておこう」
「そいつはどうも」
「君たちの左に階段がある」
急な言葉に、サドへ警戒していた二人も、首を揃えて左を向いた。この部屋の壁に沿うようにして階段が高くへ伸びている。二階建ての家のものより、倍ほどの長さがあるだろう。外から見たときは三回建てか四階建てだと思っていたが、ひとフロアの天井の高い二階建てなのかもしれない。
「そこを上がり、右手の、四つ目と五つ目の扉に君たちの仲間がいる。これが扉の鍵だ」
シオリがサドへ目を戻すと、彼は初めて右手を動かした。なにかが放物線を描き、シオリの手に収まる。小さな輪にふたつの鍵が備わっていた。
「それを持って行けばいい」
シオリは訝しむ。
「どうして」
「君と一度会ってみたかった。今日の私の目的は、それだけだ。それが終わったのだから、あとは勝手にすればいい。せいぜい頑張ることだ」
サドはシオリたちへ背中を向ける。
「その鍵についてだが、無造作に扉を壊されるのは不本意だから渡している、と理解してほしい。合鍵だから好きに処分してもらって構わない」
そして彼は闇の中に消えていった。
「お、おい!」
サドの軽い靴音と、メアリの声が幾十にも反響する。虚しい響きだった。
それらの音が消えてから、シオリはつぶやく。
「……罠かしら」
「かもな。あの高飛車女が待ち伏せしてる匂いがぷんぷんするぜ」
薄く微笑み、シオリは尋ねる。
「じゃあ、引く?」
「んなわけねえだろ。左の階段の、右手の、四つ目と五つ目の扉だったな。行くぞ」
メアリはおもむろに階段へ向かう。そして、階段のすぐ手前で、立ち止まった。シオリはその隣に並び、見上げる。ここを登ると、ユリアがいる。メアリの仲間たちがいる。
きっとこの先が、この旅の、ひとつの終着点。
覚悟を握った手を、胸に当てる。
「ねえ、メアリ」
「なんだ」
「ふたつ、約束してほしいことがあるの」




