第五章 11、研究所
空気のような、水のような、はっきりしないものに包まれている感覚。黒も白もなにもない。うっすらと意識だけが浮いている。
どのくらい時間が経ったのだろう。ものすごく長い時間にも、一秒も経っていないようにも、感じられた。
突然、ぱあっ、と光が差した。暖かい光。そこで初めて、自分に肉体なるものがあることを思い出した。
目を開ける。焦点が合わず、真ん中に黒い縦長の影、ほかは薄い紫色の背景がぼんやりと見える。
影が動き、ユリアの左手に触れた。やわらかいけど、多くの皮が剥けては生え変わったような硬さもあった。その手に、腕を持ち上げられた。
二、三度まばたきをする。目の前でユリアの手を掴んでいたのは、ルーインだった。
「うわあ」
「動くな」
かちゃりと音が鳴ったと思うと、腕に何かをつけられていた。
「お前は、右利きか?」
「う、うん」
「それならよかった。腕輪をつけられるなら利き手じゃないほうがいいだろう」
腕輪、と言われて、それが初めて腕輪だと気づいた。金属製なのか、硬くて冷たい。人差し指の長さほどの幅だ。見た目のわりには随分と軽い。
ユリアはジャネルのためのブレスレットも左手につけていた。そのふたつが共存しているのは、まるで都会にイノシシがいるような、異様なものにも見えた。
「ださいだろ。もっとデザインにこだわってくれればよかったのにな」
「これって」
「あとで説明する。ちょっと待ってろ。反抗しようなんて思わないほうがいいぞ。お前はもう〈魔力〉を使えない」
「え?」
ルーインはそれ以上なにも言わず、ポーチから〈玉〉を取り出した。
(そうだ、ユリアはあれに吸い込まれたんだった)
もう一度吸い込まれるかと思ったが、違った。ルーインはユリアの隣へ〈玉〉を向け、開く。
そこに現れたのはフミだった。
「フミちゃん!」
「黙ってろ」
フミも意識がぼんやりとしているようだった。薄目を開いたまま、なされるがままに腕輪をつけられる。かちゃりと音が鳴ったところで「きゃっ!」と驚いた。
「お前も右利きか?」
「は、はい」
「それならいい。まだ動くなよ、お前はもう〈魔力〉を使えない」
「〈魔力〉を?」
「元々お前は能力を使わないよう言われてたらしいな。中身が気になるが、まあいい。後ろに扉があるだろ」
ユリアたちは振り返る。金属的な壁に大きなくぼみがあるだけにしか見えないが、これが扉らしい。その扉の横に、黒い四角形の板があった。
「お前たちにはしばらくこの中で暮らしてもらう」
ルーインはそのパネルに手を触れると、扉が横へ滑るようにして開いた。
中には、ふたりの女の子が床に座っており、こちらを見つめていた。
ユリアは驚く。
ふたりともユリアよりずっと背が高い。十四歳くらいだろうか。片方は少年のような短い髪をしていて、もう片方はおしりまで届くほど長い髪をしていて、毛先が丸くなっている。雰囲気はまるで違うが、顔はまったく同じだった。四つの緑色の眼が向けられている。
「すまないが部屋の数が足りてなくてな。相席をよろしく頼む」
「相席……? ここはどこ?」
「ここはあたしの拠点だ。同時に〈あの光〉が作られ、放たれた場所でもある」
「え?」
驚くユリアたちを気に留めることもなく、ルーインは続けた。
「しばらくここで暮らしてもらう。長旅で腹が減っただろう」
「長旅? どのくらい時間が」
「丸一日と半分だな」
「そんなに!」
「中に入れ。飯を持って来てやるから、待ってろ」
ユリアは宿屋で食べた野菜を思い出した。まるで毒が入っているみたいな味。あの場所だから安心して食べられたけど、この場所で安心してものを食べられるはずはない。
「やだ! あんたの用意するものなんて怪しくて口に入れられない!」
「持ってきてほしくないのであれば別に構わない。そこのふたりに聞けばわかるだろうが、ここにいるかぎり衣食住は保証する。少々『住』は窮屈になってきているが。どうする?」
ユリアはルーインを精一杯睨む。ルーインは興味なさげにユリアを見下ろすだけだった。
「食べたほうがいいよ」
部屋の中にいたふたりのどちらかが言った。
ユリアは振り向く。
「素直に従ったほうがいい」
髪の短いほうの子が言った。さっきの言葉よりも一段声色が低い。さっきの言葉は髪が長いほうの子が言ったのだろう。
「……わかった。うんとおいしいものをよろしくね」
ユリアはしぶしぶ部屋へ入る。フミもユリアについて部屋に入った。
ルーインが再びパネルを触ると、扉が閉められた。扉に取っ手はない。仕組みはわからないが、パネルを触ると自動で開け閉めされるらしい。中にも同じようなパネルがあったが、試すより先に「それに触ってもわたしたちじゃなにも起きないわ」と髪の長い女の子が言った。
「よろしく。わたしはマユ。こっちは」
「マヤだ。私が双子の姉で、」
「わたしが妹」
双子を見たのは生まれて初めてだった。
ユリアが挨拶をした後、フミも薄い声で、しかしハキハキと挨拶をした。声は幼いが、お辞儀で背中が一切曲がらなかったその姿は、上品で大人びていた。
「フミちゃんって、いくつ?」
「八歳です」
「しっかりしてるんだね……。ユリア十一歳だけど、そんなきれいなお辞儀できないよ」
「あ、ありがとうございます……」
リンゴのように頰を赤くするフミ。
「かわいい……」
そのもちもちとした頰を、指でつつきたい!
「そ、そんなことないです。そ、それよりも、ユリアさんもしかして、メアリさんをかばってくれたんですか?」
「え?」
どうしてそう思ったんだろう、とユリアは首をかしげる。
その仕草を見て、「だって、メアリさんいないから」とフミは言った。
「それとも、全員やられてしまったんですか……?」
「ううん。メアリさんとシオリは残ってるよ。ユリアが入れられたやつで、最後だったから」
フミが目を輝かせ、跳ねた。
「やっぱりメアリさんを助けてくれたんですね!」
「まあ、そうだね。自分でもなんでそうしちゃったのか、よくわからないんだけど、気がついたら、かばってたの」
てへっ、と照れ笑いしてみると、フミが勢いよく抱きついてきた。
「わわっ」
「ありがとうございますユリアさん!」
頰を真っ赤にして、胸元のあたりから見上げてくるフミは、なにかの小動物みたいだった。
「びっくりした。てっきりユリアなんかよりメアリさんと一緒にいたかったのかと思ってたよ」
「そんなことないです! メアリさんには、助けに来てほしいんです。シオリさんひとりだけだと心もとないし、ユリアさんじゃ見るからに頼りなさそうだし」
「ん?」
ここにいる全員がフミへ注視したことを、本人が気づいている様子はない。
ユリアの中でふわふわと浮いていたもの同士が、つながった。
シオリとメアリが戦っていたとき、シオリの挑発にメアリが「ほんと口悪いなお前。オレの知る限り、二番目に悪い」と口にした途端、観客たちが笑い声をあげ、揃ってフミへ指を向けていた。そんなフミは恥ずかしそうに、わたわたと手を振っていた。
あのときは、その意味がわからなかったけど。
それに加え、ルーインが襲来してから、ユリアとフミが建物の陰に隠れた後のこと。
「ねえ、フミちゃん。さっきユリアが『シオリは強いけどユリアは弱いから信じるしかない』って言ったとき、『はい、わかります』って言ったよね」
「え? は、はい、確かに言いました」
「そのときね、『ユリアは弱い』ってところに『はい、わかります』って言われたような気がしたんだけど」
「はい、そうです。見るからにそうだったので」
「泣いてもいいかな」
「え? ……あっ! ご、ごめんなさい! またやっちゃった……!」
理解した。
この子はかなり口が悪い。
悪いというか、ゆるいというか。
「そ、その! 悪気はないんです! ユリアさんはわたしに似て弱そうだなあ、とか、逆に安心する、とか、子どもっぽい、とか、思ってませんから!」
「フミちゃん……」
「あああ! しまった! すみません!」
落ち込んでいると、部屋の奥からクスクスと笑い声が聞こえてきた。
「ずいぶんと賑やかなのが来たな」
「ええ。楽しいわね」
扉が開く。
ルーインがおぼんを持って立っていた。
「まだそんなところで突っ立ってたのか。飯を持って来たぞ」
「あ、ありがと」
そのとき、ルーインの背後に小さな影があるのが見えた。その影がひょっこりと姿を現し、ユリアを見上げた。
まんまるな紅い瞳。おかっぱ頭の無垢な笑顔。
「あー、ユリアちゃんだ!」
「リザちゃん?」
なんで?
「そういえばお前らは知り合いだったな」
ルーインがリザの頭をよしよしと撫でた。ルーインの意外な仕草に、どきりとしてしまう。
「こいつは多少うるさくて面倒ではあるが、逃げもしなければ反抗もしないから、特別にあたしと廊下を歩くことが許可されている」
「えっへん。リザは特別なのだ! 偉い子なのだ!」
「は、はあ」
ユリアはルーインからおぼんを受け取る。大きなおぼんに、ごはんとサラダ、何かのタレで煮込んだ甘辛そうなお肉が、ふたつずつ載っている。
リザが、ルーインのローブのスリットのあたりを引っ張る。
「ねえねえ綺麗なお姉さん」
「その呼び方はやめろと何度言ったら分かる」
「リザ、ユリアちゃんと一緒にいたい! おしゃべりしたい!」
ルーインは困ったようにまなじりを下げ、リザのキラキラした瞳を見つめてから、ため息した。




