第一章 4、予兆の夜
ヘンデ村。それがランフ国という島国の内陸部に位置する村の名だ。
ランフ国は先進国で、文明は進んでいる。しかし、都会の臨海部と田舎の内陸部での文明の差は大きかった。このヘンデ村には、各家庭にある電灯や時報の鐘を自動で鳴らす装置、村長の家にひとつラジオがある以外は電子機器がなかった。
この村はそれにへこたれるわけでも、お金がないのを嘆くわけでもなかった。それを受け入れ、臨海部の文明を拒否しているのだ。周囲が森に覆われているので野菜や果物に困ることもない。故にシオリのように外の世界を知らない者も珍しくなかった。
この村の名産品にカリサという布地の服がある。風通りの良い無地の衣装で、都会でそれを着て歩く者はほとんどいないが、通気性や軽量性、利便性に優れ安価なため、貧乏な内陸部では広く着られていた。都市部でも寝巻として知られている。
この村はそのカリサを生産することでも稼ぎを得ていた。シオリの母ラソンはそれを職としているのだ。また、彼女が作っているのはあくまでも村外用のカリサに限定されていた。この村で出回ることはない。なぜなら、村の者なら作っている者の目の色を知っているから。
村の大半の人間は、夏場にはカリサを着用する。海から遠く離れたこの地では、臨海に比べると昼夜の寒暖差が大きい。そのため夜にはもう一枚薄手のカリサを羽織ることが多い。
そうでない男が村の入り口に立っていた。
「懐かしい」
窓から漏れる灯りすらも減ってきた日没深く。
村の前の門。
杖を持った男は藍色のローブを羽織っていた。
「しくじったな。この格好では流石に目立ってしまうか」
人に見られてはいけないということはない。だが、会いに行く相手が相手なために、それが憚られるのも事実だ。
遠くで誰かが彼を発見して足を止めた。明るくない上、彼はサングラスで視界が暗いため、その表情は見えないが、おそらく怪しんでいるのだろう。
やはりしくじってしまった、と男は溜息する。疲れた体で吐くその息に、まるで肺を締めつけるような痛みがほとばしる。ここで引き返して服装だけを変えるにも手遅れだろう。村人同士のつながりが大きいであろう小さな村なのだから、なおさらだ。
男は半ば開き直るように踏み出した。
その数刻前。
場所はシオリの家の台所。
ラソンは鉄製の鍋に入れられた汁をお玉で一口分すくい、舌に乗せた。
「うん、おいしいわね。ユリアちゃんたちも喜んでくれそう」
四人ぶんもの料理を作っていると、まだ夫が生きていた頃のことを思い出してしまう。シオリの物心がつく以前の頃だった。
やんちゃだったシオリと囲む一家団欒は、明るく輝いていた。スプーンからテーブルに食べ物をぽとりと落として、それを手で拾って、熱くて火傷して、大泣きして。そんな赤ん坊を、夫と慰めて。
差別なんて忘れてしまうほど楽しい時間だった。実は〈魔の穢れ〉なんて存在しなかったんじゃないか、とさえ思えてしまうほどに華やいでいた。
その眩しさは、本当に輝いていたからなのか、記憶という色あせた枠組みに飾られたからなのか。
「ラソンさん」
「きゃっ」
水をかけられた猫のように振り返ったラソン。お玉に残っていた汁が飛び散った。
「熱っ!」
そこにいたのは、右手をバタバタと振るタムユだった。どうやら熱された汁がかかったようだ。
「タムユさん! す、すみません! どうして」
「ちょっとお話がありまして。何度か呼んだのですが……」
「ご、ごめんなさい」
「そんなことより、後ろ、鍋が」
「え?」
振り返りなおして鍋に目を向けると、ぐつぐつと沸騰して泡が立ち、今にも噴きこぼれてしまいそうになっていた。
「ご、ごめんなさい!」
慌ててラソンは鍋の取っ手を持ち、鍋を火から離す。
火傷防止の分厚い手袋をつけてはいるが、それでも熱は伝わる。鍋置きに鍋を置いた頃には、すぐに手袋を外さないと火傷してしまいそうなほど鍋は熱されていた。
珍しく慌てる彼女に、タムユは目を丸くしていた。
「なにか、考え事でもしていらっしゃったのですか?」
「え、ええ……ちょっと」
タムユは彼女のうつむき加減な目を読み取ったのだろう。考え事について詳しく訊くような真似はしなかった。
そして、彼女が本題を切り出そうとしたとき、
「どうしたの?」
シオリがキッチンの暖簾をくぐってやってきた。さっきの騒ぎを聞きつけてやってきたのだろう。
タムユがわざわざキッチンまで尋ねてきたのは、子どもには聞かれたくない話をしたいから。
察しのいいラソンは「ちょっと鍋をひっくり返しそうになってね」と微笑む。
あたしが急に現れてしまったから、とタムユも苦笑いを浮かべた。
「だいじょうぶ? お母さん」
「ええ。もう少しでご飯できるから、みんなとお話ししてなさい」
「はーい」
シオリはにこにこと居間へ戻っていった。てくてくとした軽快な音が話声に切り替わると、大人ふたりの間に張っていた糸が緩んだ。
「シオリちゃんって冷静なイメージがありますが、お母さんの前ではすっかり年相応の女の子ですね」
「そうらしいですね。私は、ああいうシオリのイメージの方が強いので、クールなイメージのほうが漠然としてますが」
ラソンは笑い、お玉で少しだけ鍋を混ぜる。
「シオリから渡されたこのキノコ、獲ってきたのあなたじゃないでしょ、って指摘したときのふてくされた顔を見たときも、このキノコが上等なものだって教えたときの笑顔も、改めてあの子を産んでよかったと思えたわ」
「独身のあたしには分かりませんね」
タムユは自らを嘲笑する。
クウの治療後、タムユは店に戻っていたので、キノコのことは初耳だった。
あの後、ユリアが獲ったキノコを、シオリはまるで自分が獲ったかのようにラソンに見せた。そのとき、ラソンはたいそう驚いたのだ。
「このキノコね、マールライライっていう、高い木にしか生えていない高価なキノコなんです」
なるほど、とタムユは笑う。
「あの子、高いところ苦手ですからね」
マールライライ、と彼女は咀嚼して味わい、ほんのりと甘い香りを感じたような柔らかい表情を見せた。
「古語で『母のぬくもり』という意味ですね」
「ええ。タムユさんは古語もお詳しいのですね」
「少しかじっている程度ですよ」
古語とは、この国で昔使われていた言葉のこと。現在使われることはほとんどないが、現在通っている物の名前が古語に由来していることは多い。〈魔の穢れ〉や〈神の末裔〉も古語である。
「高いところに手が届くほど大人になって自立したとき、母のぬくもりを改めて思い出すから、その名がついたそうです。実際に高い木に手が届くほど背が伸びるわけではないのですが」
「むしろ木登りしている子どものほうが見つけやすそうですね」
「もしかすると、木登りしなくなるような年齢になると母のぬくもりを忘れてしまう、という意味なのかもしれません」
「そして、子どもができて、木登りするほど育ったときに、改めてぬくもりを感じられる」
微笑むと同時にタムユは背筋を伸ばし、目の奥に真剣な色を見せた。
ラソンも再び糸が張ったのを感じ、気持ちを構える。
「前置きはこれくらいにして、本題に入っていいですか?」
ラソンはゆっくり頷く。
「どうぞ。どうせこの鍋はすぐには冷めません。冷めたとしても火はまだしばらく残っていますから」
両者とも声の調子を落とし、笑顔を消した。
「今晩、村の会議があります」
ラソンの眉がゆがんだ。
タムユはあえて淡々と続ける。
「村長はあたしの父だから心配ないだとは思いますが、副村長の孫はキールですし、息子のジョーだって村役場の人間です。きっと適当にストーリー立ててラソンさんたちを追い払おうとするでしょう」
この村では後継ぎ制が根強く浸透している。役場の人間の子どもは役場の人間になるし、農家の息子は農家になる。タムユはかなり例外的だった。
また、ラソンはこの村の人間ではない。彼女の夫がこの村の生まれで、ここに嫁いできたのだ。
タムユの推測を聞き、ラソンは少しだけ口角を上げる。現実逃避を含んだ、少し強がった作り笑いだった。
「私たちを追い払おうとするのは、いつもじゃないですか。気にすることなんて――」
「いつもそうだからといっても、次もそうだとは限らない」
タムユはラソンの作り笑いを打ち消す。
「今回初めてキールが凶器を持っていたのがいい例でしょう」
ラソンは口を閉ざし、視線を逸らした。
タムユはさらに続ける。
「それに、最近の父も、あたしをかばうことが、果たして村のため、世論のためになるのか迷っている節がある。嫌な予感がするんです」
この村のルールとして、人を追い払うにはその者が大罪を犯さなければならない。例外の適用は許されているが、それには村長の許しが必要となる。
村長は娘のタムユのように正義感のある人柄だ。彼は一切の罪を犯さないラソンを〈魔の穢れ〉として特別扱いしたことはない。
だが、タムユとは違って気が弱い。キールの身内で、かつ我の強い副村長たちが今回の一件を例に出して村長の説得を試みれば、どうなるのかは判らない。
「普段はこんなことやりたくもないですが、こっそり会議を盗み聞きしようと思います」
タムユは村長の娘だが、よろず屋が本業なので村の会議に参加することはできない。しかし会議は村長の家で行われる。娘の彼女は相鍵を持っているので盗み聞きくらいができるのだ。
「それって、罪じゃないのですか」
「罪です。ですが、理不尽な理由でラソンさんたちを追い払うのも、罪です。罪を防ぐための罪ならあたしは喜んで引き受けますよ」
「でも――」
「心配しないでください」
タムユは笑顔を見せた。現実逃避を含んだ、少し強がった作り笑いだった。
「あたしは村長の子ですし、親子の中は良好だと言えるでしょう。あたしに危害が加えられるとは到底思えません」
まだ店仕舞が残っているので、とタムユは一礼した。まるで逃げるようだった。
「明日、いつもの時間にあたしの店で、結果をお知らせしますね」
「……わかりました」
「それでは。失礼しました」
暖簾をくぐり、タムユはラソンの視界から消える。向こうからシオリたちに明るく接する彼女の声が聞こえてきた。
バイバーイ、という何も知らない少女たちの明るい声が、ラソンの耳の奥に突き刺さる。
「……もうちょっと、鍋を温めようかしら」
再び鍋を掴み、少し弱くなった火の上に置く。