第五章 1、臨海部
ユメの地図を頼りに進み、シオリたちは境界の森を抜ける。昼でも薄暗い森から出ると、空はまばゆいほどに快晴だった。目が眩んでしまう。
三十歩ぶんほどの固い砂地があった。その向こうに灰色のフェンスがある。ユメによると〈あの光〉よりも以前から設置されているフェンスらしい。
「ついにきたね、シオリ」
「うん。このフェンスを越えれば、臨海部」
長かったのか短かったのかはわからない。彼女たちに日付の感覚はほとんどなかった。テレビによると〈あの光〉からは一ヶ月と一週間ほど経過しているそうだ。そんなに経ったんだね、とユリアは言い、まだそれだけか、とシオリは感じた。でも、これまでのできごとを振り返ると、もう何年も経ったような気にもなる。
臨海部に来た実感も湧いていない。まだフェンスを越えていないのもその理由だし、フェンスの向こうには大きな倉庫がたくさん並んでいて、景色が見えないのも理由のひとつだ。
「大きな倉庫だね」
「ユメさんが倉庫だって言ってなかったら、きっとわからなかったね」
ユメは一度臨海部に戻る前に、このフェンスの周辺や近くのオススメ場所などについて仔細に話してくれた。教えたわけではなく、世間話のように話したのだ。ユリアが「いま言われてもたぶん覚えてないよ」と指摘するも、ユメは微笑むだけだった。いま思うと、ユメは万が一自分が戻ってこられなかったときのことを想定していたのかもしれない。
そのおかげでここが倉庫の裏側だということも、この時期にこの倉庫を使う人はほとんどいないこともシオリたちは知っていた。
「これだね」
フェンスの穴を見つけた。細い女性や子どもがなんとかくぐることができるくらいの大きさだった。大人の男性だと厳しいだろう。
網のように這われている金属は太い。触ってみると、多少しなやかではあるが、ちぎるのは難しそうだった。だというのに、丸い穴が開けられていた。こじあけたというよりは、明確な意図を持って武器の準備をし、速やかに開けたように見える。
シオリは切り口に目を向けた。先日の雨の名残で少し濡れている。断面の綺麗な切り口だった。
「なにかの刃物で切ったのかな。でも、この金属を切ることができる刃物なんて」
「ねえねえ、シオリ。よく見たら、この切り口のところ、黒くない?」
ユリアに言われ、気づく。フェンスが灰色だったため判りづらいが、焦げていた。
「焼き切った……?」
〈魔力〉。
ふたりは目を合わせる。
「私たちの仲間かしら」
「それとも、あのルーインって女の人?」
彼女の能力は〈蒼い火炎〉。火を操る力だ。
「あり得るね」
あの戦いの後、シオリは一度だけ〈蒼い火炎〉を使った。残る遺体たちとユメを燃やするためだ。
その力をどこまで操作できるかも試したのだが、なかなか思うようには動いてくれなかった。炎を纏ってもシオリはほとんど熱くなかったが、時間が経ち、集中力が切れるにつれて熱くて堪らなくなるようになっていた。使い方次第では非常に強力な力だが、使い方には注意しなければならないらしい。
このフェンスを綺麗な円形に焼き、かつ奥にある倉庫に傷をつけない自信はなかった。ルーインにはできるのだろうか。
穴を抜ける。一度カリサがフェンスに引っかかり、少しだけ破れたが、今から着替えるのだから構わない。
あえてここまで洋服を着て来なかったのは正解だった。
ふたりはカリサを脱ぎ、洋服の入った袋に手を入れる。
ユメがコーディネートしたシオリのファッションは、明るい色が基調のゆったりとしたものだった。胸のあたりで二段のフリルがひらひらと泳ぐ黄土色のキャミソール。肩の露出は多いが、そこに黒の薄いショールカラーワンピースを羽織ることで肩が隠れた。それでも首元の露出がほとんどないカリサに慣れているため、首から胸にかけてスースーしたが、ユリアが「かわいい! かわいいよシオリ!」と興奮していて恥ずかしくなり、逆に熱くなってきた。黒地の布には様々な花の柄が細やかかつカラフルにあしらわれ、ほとんどが黒色なのに不思議と明るく見える。裏地は白だった。
ズボンは淡いジーンズ調のバギーパンツだったが、生地はジーンズのそれより薄くて軽く、肌触りが良かった。脚の部分は脚が二本とも入りそうなほど太く、ゆったりしている。
靴はねずみ色のスニーカーだった。いままで履いていた田舎の靴はゆったりとしていたが、この靴は幅が狭くて足の形にぴったりとフィットする。少し窮屈に感じるが、歩きにくくはなかった。時間が経って柔らかくなればかなり歩きやすくなりそうだ。
小さなポーチをたすき掛けする。ズボンと同じ色だった。
これで終わりかな、と思うも袋にはまだかすかに重みが残っていた。覗きこんでみると、大きなリボンのついたカチューシャが残っていた。
「これ、私がつけるの?」
「あたりまえでしょ! 早くつけてつけて! ほら、恥ずかしがりながら頭につけるのよ!」
「ユリア、ユメさんに似てきたね」
仕方なく装着する。服の色よりも少し濃い黄土色のリボンだった。羽の部分はあまり広がっておらず、雰囲気は落ち着いている。
クールな印象を持たれがちなシオリだが、ユメのコーディネートによって明るい印象になった。クールな部分は「大人っぽさ」へと昇華され、しっかりと生きている。
逆に、ユリアの服の色は落ち着いていた。
赤と黒のチェック柄シャツのようなワンピースだった。裾はお尻と膝のちょうど中間あたりまである。前面のボタンを下から閉じていくが、襟にボタンはなかった。両胸には蓋のついたポケットとダイヤ型のボタンがついている。
ズボンは脚にぴたりと張り付く黒のレギンスだった。伸縮性のある素材のため動きやすそうだ。
靴はシオリと同じデザインの黒いスニーカー。ふたりともがスニーカーだということは、ユメは動きやすさを重視したのかもしれない。スカートでないのもそのためだろうか。
黒い革のバッグをたすき掛けする。シオリのものよりも一回り大きくて大人っぽいが、かわいらしいクマを象った定期入れがついていた。といっても、シオリたちは『定期入れ』なるものを知らない。紙か何かを入れるのかな、と首をかしげる。
「そういえばなんでユリアにはカチューシャないの」
シオリは紅潮したほっぺを膨らませる。
「カチューシャなんかなくても、このユリア様が十分にキュートだからよ」
ウインクし、ツインテールをふわりと優雅に揺らす。セクシーぶっているらしい。
最後にふたりは向かい合ってサングラスをかける。緑とピンクと黒のカラフルな縁が特徴的な大きな黒いサングラスだ。それをかけると、ひとたび世界が暗くなった。しかし対面にいるユリアの表情や後ろの景色は十分に見える。快晴で眩しいため、ちょうどいいかもしれない。
サングラスの個性が強くて、おかしくて、ふたりはお互いの顔を指差して笑う。とはいえ都会らしい服装であるため、決してサングラスが異彩を放っているわけではなかった。
それもこれも、ユメのおかげだ。
「ありがとう、お姉ちゃん」
フェンスの向こうへと祈る。祈るふたりの手には、ジャネルへ向けて作ったブレスレットがあった。勿忘草をイメージした造花と、キラキラ輝くビーズでできた、宝物。
数秒祈ったのち、ふたりは倉庫と倉庫の間を縫って表へと出た。
広がっていた景色に、ふたりは言葉を失う。ここは内陸寄りのため少し標高があるのだが、目の前をまっすぐに坂が下っていた。内陸の山々のような荒い坂ではない。整えられたコンクリートの坂だった。そのためホルンの町が眼下に一望できる。
快晴の空に照らされ、コンクリートや鉄の鈍い色が輝いている。太陽光を反射する雨粒が、それらを美しく演出していた。宝石のようだった。宝石が、どこまでも広がっている。空まで続いている。
そのずっと向こう、青色と灰色の隙間には、なだらかな曲線が引かれていた。
「あれが、地平線?」
違う。もっと目を凝らせ。
感動が語りかけてくるようだった。
空色と灰色の間には濃い青の線が走っていた。キラキラと輝いた線だ。波を打ち、日差しを乱反射させているのだ。
「あれ、海だよ」
興奮が湧き上がってくる。自然と頰が持ち上がる。顔が熱くなる。
サングラスを外したくてたまらない。本当の色を見たい。輝きを感じたい。
「あれが海……? あれが海なの!」
行こうシオリ!
ユリアは早速走り出した。
「行こうって言ったって、すごく距離あるよ」
――すごく遠くにある大きなものは、思っているより遠いのよ。
母に言われたことがあった。
――お日様は空より手前にあるように見えるけど、本当はすごく遠い。考えるだけで頭が痛くなるほど遠いの。一生走り続けたって届かないくらい。そんなに遠いものがどうしてこんなに近くに見えるのか、わかる? すごく大きいからなの。大きすぎて近くにあるように感じてしまうのよ。
きっとあの海も、近くで見たら信じられないくらい大きいのだろう。
海へ行きたい気持ちが高鳴り、シオリも軽く駆ける。ユリアが小さな段差を勢いよく飛び降りた。元気だなあ、と感心すると同時に、どうしてこんなところに不自然な段差があるのだろう、と思った。
そこでシオリの耳が不穏な音を拾う。低くて重たいのに、どこか軽い音。右からだ。そちらを向いたとき、警告音が耳をつんざいた。そこでようやくシオリはそれが車であると認識する。
そして、その正面にユリアがいることも。
「ユリア!」
金属の塊は甲高い摩擦音を放つ。
ユリアは固まっていたが、すぐにハッと気づき、翻った。シオリの胸元へ飛ぶ。急ブレーキをかける車体とユリアの足先が、かすりかけた。シオリはなんとかユリアを受け止める。瞬時に〈肉体強化〉を発動したため倒れずに済んだ。
「あ、あぶなかった……。旅の前だったら、動けなかったかも……」
九死に一生を得たユリアは、ぜいぜいと呼吸を乱す。シオリは血の気が引く思いだった。茫然として言葉を発することもできない。
滑るように停止した車から若い女の人が降りてくる。
「だいじょうぶ君たち!」
怒られると思った。
きっとこの太い道の両脇の一段高くなっているところが人の歩くところで、真ん中が車の通る道なのだろう。臨海部にいる人なら幼い子どもでも知っていることに違いない。
「ごめんなさい!」
ユリアは頭を下げた。少し遅れてシオリも頭を下げる。
「怪我はないようね……。よかった」
(あれ? 怒られない)
シオリはおそるおそる頭をあげる。ユリアも同じタイミングで頭を上げていた。
「元気なのはいいことだけど、気をつけてね」
「は、はい」
怒るどころか、女性は微笑んでくれた。再び車に戻り、何事もなかったように走り去っていく。
「びっくりした……」
「うん……」
漠然とだが、都会は厳しいところだと思っていた。人はみんな怒りやすく、時に陰湿で、冷たい場所だ、と。
でも、あの女性は優しかった。
(そうだ、お姉ちゃんだって臨海部の人だ)
シオリたちが探しているハイドだって優しそうだったし、シオリの母も臨海部の生まれだ。
(都会ってひょっとすると、すごくいいところなのかな)
止まりそうだった心臓が再び踊りだす。ワクワクで満たされてきた。希望を感じられた。
シオリは、あははと笑う。ユリアも、えへへと笑った。




