第四章 10、遺された思い
「さて、と」
ルーインは 灰の混じった砂から〈玉〉を拾い上げる。ユリアが一度奪ったものだった。
シオリが暴走したときに逃亡したルーインだったが、拠点に戻りはせず、物陰に隠れて状況を観察していたのだ。
「まだ能力を手に入れていないと踏んでいたが、持ってたか」
それとも、つい今しがた目覚めたか。
「都合がいいな」
シオリの〈蒼い火炎〉と、その熱を鎮める、名もわからぬ能力。その相性に都合の良さを感じずにはいられない。
そこで腰にかすかな振動が走った。携帯電話のバイブレーションだ。
ポーチからそれを取り出し、耳に当てる。
「やけに都合のいいタイミングだな」
〔気が変わった。あのふたりは回収しなくていい〕
「は?」
倒れているふたりへ向かっていた足が止まる。
「おいおい、あたしはなんのために怪我を負ったんだよ。ガキだからと多少手を抜いた罰が当たったとも言えなくはないが、珍しくあんたに治療を頼もうと思ってたところなんだぞ」
〔それは申し訳ない。しかし彼女たちは別の使い道をしたほうがいいと判断した〕
「……はいはい。前から思ってたがお前、どこかであたしを見張ってるのか」
男は答えない。
限りなくイエスだな、と思う。
〔君はいま、きっと「限りなくイエスだな」と思っただろうが、そこまでイエスではない〕
「黙れ」
男のこう言った物言いは、どうしても気に食わない。
「まあ、ストーカー行為は許してやろう」
〔ありがとう〕
「前言撤回。あたしは何よりもストーカーが嫌いなんだよ。覚えてろ」
〔それはすまない〕
男の口調にはまったく抑揚がない。掴み所がなく、何を言っても暖簾に腕押しだった。
「とりあえず、こいつらは放っておいたらいいんだな。記者女はどうする。ストーカーなら状況わかってんだろ」
〔よくわかっておる。なかなか酷いことをしたことものだ。何があった〕
「ストーカーならわかってんだろ」
男は少し間を置いてから『察することはできる』とだけ言って話を元に戻した。
〔彼女は置いて行っていい〕
「はいよ。あと、ひとつだけお前に怒っていいか?」
『すでに怒ってるじゃないか』
ルーインは聞こえないふりをする。
「〈双頭の穢魔〉なんて聞いてない。そんな大事な情報は先に言ってほしかったな」
〔私も驚いているところだ〕
「ということは、〈蒼い火炎〉はたった今目覚めた」
〔おそらく〕
言われてみれば、あの能力があれば遺体を燃やすのにマッチなんて使う必要はなかっただろう。
ルーインはシオリたちの元へたどり着く。気絶しているのか、それとも疲れて眠っているのか、胴体がかすかに揺れていた。吹き飛ばされた記者女もうずくまってはいたが、死んではいないらしい。
「ひとつ訊きたいんだが」
〔質問なら既にふたつほど受けているが〕
ルーインは聞き流す。
「〈魔力〉の発生条件ってなんだ。中身は何で決まる」
〔それはまだ解明されてないと言ったはずだが〕
「表面上は、だろ」
男は答えない。
「あっそ」
ルーインは電話を切った。ごおごおと動物の唸るような音が聞こえる。遠くで家屋が燃えているようだ。
「さいわい、一軒だけだな」
炎の音の隙間から喃語が聞こえた。記者女が目を覚ましたみたいだ。
――あなたは……。
思い返せば、森であの目を向けられたときからずっと興奮状態だった。その自覚はなかったが、冷静になった今ならばそう思える。
「お前は、ガキどもから信頼されてたんだな」
いい人間だったのだろう。その性格が記者に向いているかは甚だ疑問だが。
「……帰るか」
× × ×
――ユメさん。私たちのこと、記事にするの?
暗い穴の底。高いところから、ぼんやりと光が差した。
――正直に言うと、迷ってる。
見上げると、どこかに小さな穴が空いていた。
ふわふわと体が浮かび、その穴へと昇っていく。
――政府を脅かすネタも手に入ってるし、〈あの光〉の被害者の女の子の暮らしも、きっといい記事にはできると思う。そうでなくても、わたしたちの仕事は事実を事実として報じることだからね。でも、本当にこの事実を記事にすべきなのかは、わたしにはわからない。そもそも読者が信じてくれるのかも、ね。
穴が、光が、少しずつ大きくなっていく。ぼんやりと意識が輪郭を帯びていく。
――それに、この記事を書いて、わたしのことが評価されたとしても、それは政治経済の記者としての評価。ファッション誌に行くわたしの夢とは離れるかもしれない。本当はそんな私情なんて挟んじゃいけないんだけど。そう考えると、より一層あの上司に腹が立ってきた! あー! 人手不足だからってうまいことやりやがって!
記憶の中のユメの叫びと共に、シオリの意識は闇を抜け出した。
ここは、どこ。
私は、なにをしていたの。
――どちらにせよ、もう少し詳しいことがわからないと、記事としての信用が薄いでしょうね。
そうだ、ここは村のはずれだ。でも、景色が違う。どうしてこんなにボロボロなの?
どうしてこんなに黒焦げなの?
どうしてこんなに煙くさいの?
――このことに関して政府の立場がわからないから、本当の意味で政府を脅かすには弱い。
起き上がろうとしたが、重石が乗っかったように動かなかった。首をひねって背中に目を向ける。
「ユリア?」
――でも、みんなに混乱を与えるには充分。それじゃ、ダメなのよね。
シオリは混乱した。
ルーインと戦っていたことは思い出せる。あの変なボールからユメが出てきたことも思い出せる。その変わり果てたユメの姿に怒りを覚えたのは覚えている。でも、その後が思い出せない。
――いま、わたしにできることは、あなたたちの力になること。あなたたちの探している人を見つけること。
(そうだ、ユメさんは)
きょろきょろと首を動かして探す。いた。ずっと向こう、シオリたちに背中を向けて倒れている。
シオリは抱きついているユリアを引き剥がそうとする。しかしその力が強くてなかなか剥がれてくれない。
やっとのことで抜け出し、ユメへ駆け寄ろうとするが、足が思うように動かない。引きずるようにして近づいていく。
――人探しなら得意分野だから、大船に乗ったつもりでいなさい。
まばたきした途端、まぶたの裏にユメのウインクが映った。
でも、まぶたを開いた先にいたのは赤ん坊のようなユメだった。
知的でたくましい魅力を持ったユメが、脳がなくなったように眼球を無造作に揺らし、ぼーっと寝転がっている。
許せない。
その思いに拳を握りしめたとき。
「……シオリ」
背中を引っ張ったのはユリアだった。カリサの胸や肩のあたりがほとんどなくなり、真っ赤な肌が露出していた。布が残っている部分も、ほとんど真っ黒だった。
「よかった……」
力が抜けて倒れそうになるユリア。その体を支えようとするが、シオリも一緒に倒れこむだけだった。
焼け野原の中心で、彼女たちは再び眠りに落ちる。
頰を雨に濡らされ、シオリたちは目を覚ました。夜だった。昼間は見え隠れしていた空は、完全に雲で覆われてしまっている。服や髪はまだあまり濡れていない。雨は降り始めのようだ。
シオリはユリアから一部始終を聞いた。シオリがルーインと同じような蒼い炎を使うようになったこと。その炎が赤くなったとき、ルーインの炎を飲み込んだこと。シオリの意識が飛び、炎が無造作に飛び交ったこと。そして、ユリアがシオリの暴走を止めたこと。
「ありがとうユリア。ユリアには頭が上がらないよ」
そんなことないよ、と首を振るユリアの目は湿っていた。
村にも火は飛んでいたらしいが、既に消えている。さっき目が覚めたときに炎を見た記憶はなかった。そのときにはもうなくなっていたのかもしれない。
「ユメさん」
シオリの呼びかけに、ユメは声を出した。声を出したが、応答ではない。
「あーわー、あー」
再び体の奥から熱いものが蘇ってくる。でも、それを冷ます虚しさのほうが大きかった。
「その袋……」
ユメは大きな袋を抱きかかえている。思い返すと、ボールから出てきたときからそれを握り続けていた。
体はすすだらけだった。服もあちこち破れている。
しかし袋は穴一つ空いていない。土や灰、雨で少し汚れているだけだった。
「ユメお姉ちゃん、きっとその袋を大切に守ってくれたんだよ。抱きかかえて、火が燃え移らないように。自分の服をボロボロにしてまで、守ってくれたんだよ。ほら、見てよ。お姉ちゃんの手」
そこまで言って、とうとうユリアは泣き崩れた。
ユメの手はぎゅっと握られていた。知能を失っているのに、全身から力が抜けたような様子なのに、袋を口を持つその手だけは固く握りしめられていたのだ。
「お姉ちゃん、その袋を借りてもいい?」
シオリはユメの手に触れる。冷たい手だった。
小さな手が大きな手を包むと、袋を持つ手の力が抜けた。
「あー、あああー」
シオリの体半分ほどの大きな袋だった。その中にはさらに四つの袋が入っていた。
ひとつめは手の平ほどの白いもの。カラカラと中で何かたくさんの小さなものが転がっている音がする。ビーズだった。ジャネルへの誕生日プレゼントのための宝石。
ふたつめはサングラスがふたつ入った小さな黒い袋。緑とピンクと黒の細い棒を一緒に捻ったようなカラフルな縁だった。レンズ部分は大きく、きっとシオリたちの頰の大部分を隠すことになるだろう。
次の袋は青、もうひとつは桃色のかわいらしい袋だった。それを大元の袋から取り出す。
それぞれ白い文字で『シオリちゃんへ』『ユリアちゃんへ』と書かれ、踊るようなハートマークが添えられていた。
熱いものが込み上げてくる。炎じゃない。もっと暖かいものだ。
シオリは堪えた。精一杯堪えた。まだやらないといけないことがあるのだ。
「ユリア。私決めたよ」
呼応するように雨脚が強まる。
ルーインが言ってたように、ユメはもう長く生きられないだろう。シオリたちが保護すればある程度一緒に暮らすことはできるかもしれない。それは、一年なのか二年なのか、はたまた一週間なのか。
「私はユメさんと一緒に暮らしたい。そして、赤ちゃんが時間をかけて字を覚えるみたいに、言葉を覚えるみたいに、ユメさんを元に戻したい。きっと、できないことじゃないと思うの」
シオリの喉が徐々に震え始める。ここで言葉を止めたかった。三人で暮らしましょう、と言いたかった。
「でもね、そんなことを、ユメさんは望んでないと思うの」
コクっ、とユリアは頷く。結ばれた唇が震えていた。
「私たちは〈あの光〉の正体を知らないといけない。あの足の不自由な男の人を探さないといけない。ユメさんだって、私たちにそうしてほしいはず」
ユメと一緒に暮らしながらそれができたら、どれだけ嬉しいだろう。でも、それはできない。いまのユメはただの足手まといに他ならないのだ。
「ユメさんは必死に私たちのためにサングラスを、お洋服を持ってきてくれた。守ってくれた。それがその証拠だと思うの」
シオリは大きく息を吸う。揺れる前髪から雫が乱れ飛ぶ。過呼吸になりそうだった。感情が、涙が、鼻水が、肺を締めつけているようだった。
「だからね、せめて私は、ユメさんを葬りたい」
苦しい。次々とユメとの思い出が身体中に溢れ出す。もう立っているのか座っているのかもわからなかった。
それでもシオリは続ける。残酷な言葉を並べていく。
「ユメさんを、少しでも苦しめずに、殺したい。殺したくないけど、殺したい……。私の力なら、私の力で、首を折れば、きっと……少しでも楽に逝かせてあげられると、思う」
ユリアの泣き声が、まるで発作のように苦しいものになった。雨で濡れた顔のすべてが涙にさえ見える。ユリアはユリアなりにシオリのことを思ってくれているのだろう。自分がその役割を担ってあげたいと思っているのだろう。でも、これはシオリの力にしかできないこともわかっている。
「ごめんね、ユリア。ごめんね、ユメさん」
シオリはユメの体を起こし、座らせた。そして後ろから首に抱きつく。暖かかった。濡れているけど暖かかった。灰と雨の息苦しい空気の中で、ほのかにお日様のような香りが薫る。
「ごめんね、お姉ちゃん」
力を込める。精一杯の力だった。
まるで麩菓子を割るような軽い音だった。軽い感触だった。喃語が途絶え、ぐったりと力が抜ける。
ユリアがユメの体に正面から抱きついた。シオリの肩の布がぎゅっと握りしめられる。
とうとうシオリは泣き声を抑えることができなくなった。ふたりの子どもが大人を挟んで抱き合い、喚き泣く。
雨が強くなった。
ユメのテーマ曲「Yume」をプレイリストに追加しました。
下記リンクからぜひお聞きください。




