第一章 3、〈魔の穢れ〉
鮮血が飛び散ると共に、ジャネルとユリアの叫びが村中に響き渡った。クウの体が地面に落ち、跳ねてもう一度落ちるまで、シオリはまばたきさえも忘れてしまっていた。
「クウ!」
動かなくなったクウの元へシオリは走り出した。
「クウ! クウ!」
クウを抱え上げ、胸に抱きしめる。
「ゥ、アゥ……」
かすかだが意識はあった。だが、流血は留まることを知らない。
シオリはそこを必死に押さえる。クウが苦しそうに目を瞑って牙を見せた。
シオリの手が、腕が、どんどん赤黒く染まっていく。クウの白い毛並みもじわじわと赤に浸食されていく。
次第に周囲がざわつきを覚えてきた。シオリ親子を忌み嫌っている者が多いとはいえ、ユリアたちの叫びを無視できる大人はいなかった。
そこにいるのは泣きじゃくる女の子たちと、倒れた子犬。そして血に染まる石を持って立つ、大きな男児。
その光景を見て、状況を察しない大人などいるだろうか。
「この犬が、お前らが悪いんだ……っ」
キールの震える声は、ただの子供のそれだった。
「この村には、この村にはおれたち〈神の末裔〉しかいらねえんだよ! 〈魔の穢れ〉は出ていけ!」
捨て台詞を残してキールは逃げて去ったが、もはやそんな言葉はシオリの耳まで届かない。
代わりに届いたのは、大人の女性の声だった。
「どうした! ――クウ! シオリ!」
女性だけど逞しく、頼りがあって、力強い声。
そこに立っていたのはよろず屋のタムユだ。背が高くて線は細いが、皮膚の裏に潜む筋肉の硬さは村の男たちにも匹敵する。その気迫ある凛々しい姿は女武人のようで、シオリたち女の子の間では憧れの的として知られている。
「タムユさん……遅いよ……」
「もしかして笛を鳴らしたのかい?」
コクッ、と腫れぼったい目でシオリは頷く。
「すまないね。倉庫で木を切っていたんだ。さっきの悲鳴まで気づかなかった。とにかく、血を止めないと」
「私は無傷だから、クウを早く助けて……! これ、全部クウの血なの……」
タムユの表情が変化する。安心したようにも、より一層の危険を感じたようにも見えた。
「わかった、あたしの店で治療しよう。クウを貸してくれないか?」
「うん」
クウをタムユの胸へ渡すとき、白い砂に血の雫が落ちた。半分は染み込んで広がり、もう半分は何十年かかっても消えそうにないくらい浮いてしまっている。
自身の商売衣装が赤く染まってしまおうと、タムユは気にしなかった。クウへ「もう少しの辛抱だ」と語りかけて走りだす。
シオリとユリア、ジャネルも彼女についていく。
「道を開けて! 一刻を争うんだ!」
タムユは道を閉ざす野次馬へ叫び、退かせる。どかなければ蹴り倒してでも彼女は突き進むだろう。誰もにそう思わせるほど、その声には女性離れした熱い角があった。
彼女が開けた道をシオリたちも駆け抜ける。冷たさを含んだ視線もいくつか感じたが、睨み返すことはしなかった。
人混みを抜けると、ひとりの女性が駆け寄ってくるのが見えた。
「お母さん!」
ユリアたちの悲鳴は、ここから大きく離れたシオリの家まで届いたようだった。
家事用の少し汚れたカリサを着たまま息を切らしているシオリの母――ラソンがいた。
「いったいどうしたのですか!」
「話は後です! 今はクウの治療を!」
血まみれのクウを見て、ラソンの顔から血の気がすっと引いたのを、シオリは捉えた。
「手伝います」
母に会えて安心するシオリだが、濁った感情が込み上がってもいた。
キールの憎たらしい顔が脳裏によぎってしまう。
振り返って野次馬たちを見ると、みんなバツが悪そうに陰口を立てていた。母の蒼い瞳を煙たがって。
〈神の末裔〉。
それは、黒い瞳を持った人種。
〈魔の穢れ〉。
それは、黒以外の色の瞳を持った、差別される人種。
ラソンは〈魔の穢れ〉だが、娘のシオリはそうではなかった。
シオリの父は〈神の末裔〉だった。だが、〈神の末裔〉同士の子に〈魔の穢れ〉が生まれることもあるらしく、その判定は未だに詳しく解明されていない。また、そのような子の多くは、物心がつく前に亡くなるという。
そして〈魔の穢れ〉には不思議な力があると言われていた。しかし、シオリは母のそれを見たことがなかった。
「ラソンさんがいなければ危なかったかもしれない」
クウの治療を終え、タムユは重たい腰を地べたに下ろした。
タムユはただの商人だが、簡単な治療くらいはできた。しかし、鈍い凶器による傷を縫うような専門的なことはできない。
シオリの母であるラソンが医術に詳しかったため、治療が可能だったのだ。
「いえいえ。出血が多いだけで思ったほど傷が深くなかったからです。あと紙一枚分、傷が深かったら本当に危なかったかもしれません。そして、クウの、生きたいという意思がなければ……」
この貧しい村に麻酔などはない。医者に行けば少しくらいあるかもしれないが、村外用のカリサを編むのを職としているラソンや、よろず屋のタムユが持っているはずはなかった。つまり、消毒から傷を縫うところまで、治療の全てに多大なる痛みが発するのだ。
クウは数度発狂したが、意識を失うことなく、痛みを耐え抜いた。そのせいで口内に新たな出血が生まれてしまいはしたが、それだけで済んだのだから、たいしたものだろう。
眠ってしまったクウの背中をラソンが撫でる。白い毛並みの中の赤い筋が、一瞬、シオリの目には傷に写った。そう見えてしまうと、頭に巻かれた包帯がより一層痛々しく感じられる。
シオリはきゅっと唇を噛む。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「クウの傷はいつか消えるのかな?」
答えづらそうに目の色を落とすラソン。心なしか、作業効率を上げるための一つ結びの髪もだらんとして見える。
その様子に、シオリは察した。
「もう、消えないのかな」
ううん、とラソンは首を振る。
「わからないわ。必ず消えるって保証はできない、っていうだけよ。治ったとしてもね、シオリ」
母は優しくも厳しく微笑む。
「クウの傷を忘れては駄目よ。見えなくなったとしても、クウの心からこの傷は完全にはなくならない。忘れたくても忘れられないの。だから、あなたも忘れちゃ駄目。クウの心をひとりぼっちにさせないこと。いいわね?」
ラソンの声は、まるで春のそよ風のようだ。受身が冷えていると温かく、熱されていると涼しく感じる。
その響きは、きっと想像もできないような苦労を経験しているから得られたものなのだろう、とシオリは思っていた。子どもの自分には分からない苦悩。〈魔の穢れ〉と呼ばれて差別され、そんな中、折れ曲げられずにひたむきに生きてきたからこその苦痛。
シオリは母を尊敬している。それ以上に、大好きだった。
「うん、わかった」
シオリはクウの包帯を優しく外した。
なにを、とタムユが手を伸ばすが、シオリのやろうとしていることに気づき、笑った。
「忘れないって、そういうことじゃないだろうに」
シオリはクウの傷をじっと見つめた。せっかく縫い閉ざした傷を、また開けてしまうんじゃないか。と心配になるくらいに強く。
「その傷を、絶対に私は忘れないよ、クウ」
そういうことじゃないでしょ、とユリアとジャネルも気づき、噴き出した。それでもシオリは大真面目に傷をまじまじと見続ける。
十秒ほど笑った後、ラソンはシオリの肩を撫でた。
「もう包帯をつけてあげなさい。体毛が薄くなったんだから寒くなってしまうわ」
「うん」
シオリは包帯を巻きなおす。クウの寝顔に頬をほころばせながら。