第四章 9、炎
シオリが叫んだ。その歪んだ咆哮は、まるで獣のよう。
ユリアは 〈玉〉を落とした。転がっていくそれを、目で追うこともできない。
「シオリ……」
こんなシオリは初めてだった。いつもクールで、ときどきかわいくて、頼りになるシオリ。キールたちに母を馬鹿にされても、怒りを露わにしたことはほとんどなかったのに。
ユリアだってユメをあんなことにされて、怒っている。許せない。ルーインを殴りたくてたまらない。でも、悲しみや戸惑いが勝っていた。暗く、億劫な思い。自分には何もできないという孤独な絶望感。
「お?」
最初はシオリを愉快そうに眺めていたルーインだったが、様子がおかしいことに疑念を抱き始めたようだ。
ユリアも少しずつシオリから離れていく。離れざるを得ないのだ。シオリから出る熱風に、肌を焼かれそうだから。
シオリがより激しい咆哮を放った途端、彼女は青黒い炎に包まれてしまった。
「シオリ!」
ルーインの〈魔力〉かと思ったが、ユリア以上に彼女が驚いている様子だった。
シオリを中心に爆風が発生した。大地をえぐるように砂を吹き荒れさせ、芝生を乱雑に吹き飛ばし、ユリアの体をも浮かせた。
「うわっ」
後ろ向きに体が一回転した。視点が砂埃の舞う空へ、脚へ、腹へ、そして地面へ落ちる。顔から衝突しそうになったが、なんとか腕で顔をかばう。運良く芝生だったため、衝撃は少なかった。
「こいつはまさか……」
ずっと遠くでルーインの目が見開かれていた。驚愕とともに、興奮が疼いている表情だった。
「あたしと同じ、〈蒼い火炎〉!」
突風がやみ、立ち込める砂嵐が消える。
シオリは蒼い炎を纏っていた。禍々しいほどに黒く濁った蒼。シオリの瞳の青も、同じ色に沈んでいる。
あの輝きのない瞳に、ユリアは見覚えがあった。ヘンデ村で戦ったジャネルたちによく似ている。
「シオリ!」
呼びかけるも、シオリは応えない。うつろな表情のまま、ゆっくりルーインに向き合う。
「よくもユメさんを……」
言霊のない、かすれた声だった。
次の瞬間、蒼炎が一段と高く燃え上がった。
「よくもお姉ちゃんを!」
爆発と共に、シオリが消えた。
いや、違う。あまりもの早さにユリアの目が追いつけなかっただけだ。
すでにシオリの拳によってルーインが宙に吹き飛ばされていた。
「な!?」
しなやかに舞い、宙で姿勢を整えて着地するルーイン。だが、その鼻の前にはすでにシオリの拳が肉薄していた。避けようにも、回避しきれるはずはなかった。手でかばうも、勢いは殺せない。体を回転させながら吹き飛ぶ。墜落の瞬間にルーインは爆風を起こし、体を立て直した。
再びシオリとルーインは睨み合う。
「あの女がそんなに大事か? 臨海から来た他人だろ」
「うるさい!」
再び爆発が起こる。ユリアにはシオリの動きが見えなかったが、ルーインはそれを躱していた。
「所詮は臨海で優雅に暮らす能天気だ。〈魔の穢れ〉を差別する、心の汚い〈神の末裔〉だ」
「お姉ちゃんはそんな人じゃない!」
シオリは炎を鞭のように造形し、薙ぎ払った。自身の身長ほどの太さだったが、ルーインも自身で爆発を発生させてそれを飛び越え、距離を取る。
「お姉ちゃんは!」
泣き叫ぶような枯れた声だった。ひょっとすると、本当に泣いているのかもしれない。涙が見えないのは、炎が瞬時に蒸発させているから。
ルーインへの距離は離れているも、シオリは拳を放った。そこから投射されたのは、炎の柱だ。ルーインのそれと比べると粗が大きく、狂ったようにうねっていた。
「いいねえ! 興奮してきた!」
ルーインも炎の柱を放った。
ふたつの炎が真正面からぶつかった。ジリジリと音を立て、留まることのない爆発を繰り返す。爆破の粉塵が飛び散り、あたりの芝生を黒く染めあげた。
少しずつ炎の接触点がシオリに近づいていく。押されているのだ。
ルーインの口が動いた。余裕を持った笑みだ。内容は爆発に紛れてユリアまで届かない。おそらく挑発しているのだろう。
爆音の中、喉が引き裂かれるような雄叫びが宙を貫く。彼女を包む炎に変化が見られた。禍々しく青黒かったそれが、おびただしい深紅に輝き始めたのだ。赤い柱がひとまわり太くなり、蒼い炎を喰らい始めた。爆風と共に、蒼い線をなぞって赤い炎が侵略していく。まるでムカデが這うような、蜘蛛の大群が侵攻するような、背筋の凍る炎だった。
そして、ルーインの腕を喰いちぎった。ユリアは目を背ける。その一瞬の間にルーインに触れた炎は消え、シオリが次なる炎が噴き、ルーインが飛び避けた。
「赤い〈蒼い火炎〉か……。これはヤバいね」
シオリの炎は吹き荒れ続ける。次々と体から溢れ出し、無造作にあちらこちらの土をえぐり、草を喰らう。まるで、いくつも頭を持つ龍のようだった。
暴れまわる龍たちは次々と地形を変えていく。大地を火の海に変えていく。空の色までも侵していく。ついには村の方角にまで飛んでいき、遠くで爆音が響いた。
「ちょっとやりすぎたか」
ルーインの整った顔が引きつっていた。衣装の肩のあたりが赤紫に変色している。
「境界の森まで燃やされたら厄介だが、あたしには太刀打ちできないね。退散させてもらうよ」
彼女が蒼い爆発を起こすと、濃煙がその体を包みこんだ。煙が消えると、彼女はいなくなっていた。
ユリアと、暴走するシオリだけが残される。
(ユメお姉ちゃんは……!)
目線を泳がせて探し回る。
いた。シオリの向こう側で倒れている。あたりの芝生はもう火の海と化していたが、あそこは幸い砂地だった。炎を振り払うように倒れたまま脚をジタバタさせている。
「シオリ!」
精一杯叫ぶ。しかし彼女はぼーっと突っ立ったまま一顧だにしない。気を失っているらしい。一歩も動かず、炎の嵐を生み出していく。
「シオリ……」
どうすればいいの?
――ユリアちゃんは、将来の夢とかある?
しん、と。
音が消えた。吹き荒れる風の音も、爆音も、すべて。
――将来の夢?
ユリアの声だった。
――うん。将来の夢。なりたいもの。やりたいこと。
ユメの声だった。
これは、いつのことだろう。そうだ、シオリがお風呂に入っているときだ。
――わたしはね、いまのユリアちゃんたちくらいの頃から、記者になりたいって思ってたの。そのために必死になって頑張った。報道は国を動かす力をも持つ機関だから、狭き門なのよ。特に、あのときはテレビや新聞の報道記者になりたかったから、勉強をたくさん頑張らないといけなかった。
――すごいね、お姉ちゃん。ユリアおバカだから絶対にできないや。
――わたしだって学力は低かったよ。よく学校さぼってたし。下から数えた方が早かったんじゃないかしら。でもね、報道の仕事に就きたい、って思ってから、死ぬ気で頑張った。いままで頑張る気にもなれなかったことを、頑張ろうって思えたの。結局、途中でファッションに憧れるようになって。今度はファッションの勉強をした。雑誌記者はテレビなんかに比べるとハードルが低いから、学校の勉強はこれまで頑張ってきたぶんで充分だったし、余裕で入れたのよ。むしろ学力が認められて政治経済を任されちゃって、あのときは必死に勉強したことを後悔したわね。
自嘲を込めた響きが印象的だった。大人特有の、過去を味わうような甘くて苦い表情。
――わたしがなにを言いたいかってね、こうなりたい! これやりたい! って思うことは、きっとあなたの力になるってこと。わたしの話の結末はちょっとあれだから、説得力がないかもしれないけど、さぼってばかりのわたしだって努力できた。苦しかったけど、苦しくなかった。夢のためなら、いくらでも頑張れる気がしたわ。
夢のためなら、いくらでも。
――夢を持つって言ったって、遠い将来のことじゃなくてもいい。今日や明日のことでもいい。みんなと楽しく遊びたい、ってだけでもいいの。それも立派な夢よ。
そこでシオリがお風呂から上がってきた。ユメはユリアに小声で微笑む。
――応援してるよ。
自分は、なにがしたいんだろう。
将来の夢なんてなかった。シオリやジャネル、家族と一緒に楽しく暮らしていければいい、としか思っていなかった。ヘンデ村では世襲が一般的だ。きっと誰かと結婚して、母親になって、家庭を支えていくことになるんだろう、とくらいにしか思ったことがなかった。
(いま、ユリアは、なにがしたいの?)
どうしてあのときユメはあんな話をしてくれたのだろう。しかも、シオリのいないところで。ユリアだけに。
ひょっとすると、ユリアの悩みに気づいていたんじゃないか。力のないことに劣等感を覚えていたと気づいていたんじゃないか。
(シオリと一緒にいたい)
夢は将来のことじゃなくてもいい。明日のことでも、十秒後のことでも。
夢のためなら頑張れる。
――こうなりたい! これやりたい! って思うことは、きっとあなたの力になる。
(シオリを、護りたい)
いままでずっと、シオリはユリアを護ってくれた。〈あの光〉のすぐ後、ユリアが戸惑っていたときも。ジャネルと戦ったときも。何度も護ってくれた。ミルサスタへの移動中だって、作業のときだって、シオリはユリアのためにいろんなことをしてくれた。
だから、今度は。
(ユリアが、シオリを護る番)
一歩踏み出す。もう片方の足を、大きく踏み出す。次はその逆を、次はそのまた逆を。
少しずつ歩みを速め、ついには走り出す。
炎の中心に向かうほど、肌がジリジリと痛みを放っていった。
「シオリ!」
叫ぶと、喉が焼けそうだった。
シオリは背中を向けたまま動かない。
汗が噴き出す。その汗は、肌を潤す前に蒸発されてしまう。
手を伸ばすと触れられそうなところまで来たとき、突風が吹いた。炎の渦の外へユリアは弾き飛ばされてしまう。
「負ける、もんか」
痛い。あちこちが痛い。
眼球、耳の裏、足の裏。全部ヒリヒリと痛い。
「負ける、もんか!」
再びユリアは駆け出す。
痛みなんか知らない。なにも知らない。
「シオリ!」
喉の渇きなんて知らない。
知っているのは、シオリを想う気持ちだけだ。
ついに肩に触れる。釜の炎に手を突っ込んだようだった。反射で指が弾かれてしまう。でも、すぐに掴む。手が吹き飛んだような痺れに襲われる。
痺れなんて知らない。
ユリアは誤魔化すために叫ぶ。
そしてシオリの腰へ抱きついた。
「シオリ……!」
シオリは応えない。ユリアが抱きついた衝撃でかすかに揺れるだけだった。
指先が、手のひらが、肘が、肩が、胸が。全部が燃え尽き、痛みだけが残っているような痺れ。うだる痛み。もう、目は開けられない。二度と開けられないかもしれない。
それでも。
「シオリを、護るんだ……っ」
早く消えてよ、火……。
消えない。
早く冷たくなってよ……。
ならない。
――こんなことをして何になるんだ。
暗い声が、ユリアの脳裏によぎる。
――いまからでも遅くない。逃げろ。そうすれば助かるかもしれない。
ユリアは頭を振り、心の声を振り払おうとする。
――もう諦めろ。もう助からない。シオリだって、お前には死んでほしくないはずだ。
振り払おうにも振り払えない。
――シオリのために、お前は生き残るべきなんじゃないか?
「……嫌だ」
ユリアはつぶやく。すでに声になっていないかもしれない声を、振り絞る。
「絶対に諦めない! シオリは、ユリアが護るんだから!」
その時。
心の奥のほうで、なにかが光った。
もう目も開けられない。体がまだ残っているのかもわからない。
でも、心はまだはっきりと生き残っていた。
それはほのかに輝いている。
それは暖かく、冷たかった。
その丸いものは少しずつ膨らんでいく。心の中いっぱいに広がる。
そして、弾けた。
ひんやりとした爆発が体の内側を乱反射する。
首、胸、腕、おなか、脚。
見失っていた体の輪郭が、徐々に冷たい光として蘇っていく。
指先や髪まで感覚を取り戻したとき、ユリアは願った。
(冷たくなって!)
音が鳴った。熱した鉄板に水滴を落としたような音だった。次々と水滴が増えていく。ついには水の入った桶に鉄板を沈めたような音に変わった。焦げ臭いにおいに変わった。
(もっと!)
シオリの熱が弱まっていく。炎が勢いを失っていく。火の海が蒸発され、焦げた大地が姿を現す。龍も、ムカデも、蜘蛛も、煙となって天へ浄化されていく。
ついにすべての炎が消えると、シオリは胸から倒れた。ユリアも彼女に抱きついたまま一緒に倒れる。
隠れていた太陽が現れ、ふたりを照らした。秋の始まりの風が髪を梳かす。
四つの瞳から流れる涙は、もう蒸発されない。焼かれた砂に吸われていくだけだった。




