第四章 3、権力なき権威
もっとも目を覚ますのが遅かったのはユメだった。シオリとユリアは小腹が空き始めた頃に起きたが、ユメは日暮れ頃だった。「いてててて……」と体を起こす。
「さすがにこの歳でこんなところに寝ると、体のあちこちが悲鳴を上げるわね……。でも気持ちよかったわ」
昼寝していたため遺体処理作業は進まなかったが、腐敗がここまで進んでいたら一日も二日も変わらない。彼らは家に帰り、じっくり話をすることにした。
家といっても自分の家ではない。「ただいま」ではなく「おじゃまします」と言ってシオリたちは玄関を上がった。
「この家にもともと住んでいた方たちは、燃やしたの?」
「うん」
この家を選んだ理由はほとんど損傷がなかったこと。寝室で見つかったのは老夫婦だけだった。
「においはする? 私たちはちょっと麻痺しちゃってるかもしれないから判らないんだけど」
「あまりしないわ。外だって、そんなに気になるほどじゃなかった」
ぐっすり眠れたしね、と微笑むユメ。
「あなたたちが頑張ってくれたおかげね」
ユメの言葉に、ふたりの頬が染められる。他の人に褒められるのなんて、いつぶりだろう。
どう感情表現すべきかシオリは戸惑った。ユリアが「えへへ」と照れ笑いをすると、ようやくシオリも「どういたしまして」と表情を緩めることができた。
居間のソファに三人は腰をかけた。このソファは柔らかくて大きかった。子どもふたりと大人が横一列に余裕を持って座れるサイズだった。
「こうして他人の家庭に上がると、その人がどんな暮らしをしてるのか、想像しちゃうわよね」
シオリとユリアはいまいちピンと来ず、首をかしげた。「あ、そうでもないのね、ごめんなさい」と今度はユメが顔を赤くする。
「例えば、そうね。ここに住んでいたのはおじいちゃんとおばあちゃんなんだよね。ふたりだけで住むとなると、この家はちょっと広いかな。二階建てだし。ずいぶんと外観も内装も綺麗だから、そんなに昔から住んでるわけでもなさそうね。ほら、あそこに子どもの写真があるでしょ」
ユメは棚に飾ってある写真を指した。シオリたちと同じくらいの歳の男の子の笑顔が写っている。
写真というものもヘンデ村にはなかったが知ってはいた。この家に帰る途中でユメが首から下げている黒いものがカメラだと知ると、彼女たちは「これが! 噂の!」と興奮したものだった。
「きっとお孫さんね。背景にあるのは学校。たぶん都市部の学校だわ。都市部に住んでいるあの子や、そのお母さんお父さんがこの家に遊びに来たときのために、ちょっと広い家を買ったんじゃないかしら。このソファも大きくてふかふかで、いかにも子どもが好きそうよね。きっと、お孫さんと会うことがすごく楽しみだったんだろうなあ、なんて」
ユメの推察に、シオリたちの目が輝く。そう言われてみると、白い壁から様々な色が滲み出てくるように見えた。
「そういうことはあまり考えないかしら」
「考えないよね」
「考えない」
あはは、と苦笑するユメ。
「職業病かしら」
「きっと、記者さんがすごく向いてるってことだよ! すごいもん! すっごくすごいもん!」
ユリアの笑顔は、声は、すっかり元気だった。ユメの腕にくっつき、嬉しそうに瞳を輝かせている。都会に憧れる女の子の顔だった。ユメが「ありがとう」と優しく微笑むと「いえいえ、どういたしまして」とぎこちない挨拶をする。
かわいい子ね! とユメがユリアの頭をくしゃくしゃ撫でると、ユリアは嬉しそうに脱力した笑顔を見せた。
まるで姉妹のようだった。
「じゃあ職業病を発揮しましょうかしら」
あなたたちのお話を聞いていて思ったのだけれど。と、ユメは続ける。
「内陸では内陸部以外のことを臨海部って呼ぶのね。耳にしたことはあったけど、使ってるのを見たのは初めてだわ」
そうなの?
シオリたちは顔を合わせる。
「ずっと臨海部って言ってました。私たち以外も、みんな」
「文化の違いと言うべきか、認識の違いと言うべきか。世界地図なんかもそうだけど、自分がいるところを中心に取るもんね」
ユメは天井を見て「う〜ん」と唸る。
「あなたたちの言う臨海部と内陸部なら、臨海部の方が面積はずっと大きいのよ。ほとんど海の見えない場所も珍しくないわ。だから、臨海部という言い方は私たち側にはしっくりこないのでしょうね。かといって、それに代わる名前もない。あえて言うなら都市部、かな。でも本当に都市なところなんて一部だけだからなあ。ん〜。あなたたちには悪いけど、こう並べてみると、内陸が見下されてることが顕著に出るわね」
ユメの言葉が切れると、沈黙が発生した。各々が各々、なにか思うことがあるのだろう。
その沈黙が気まずくなる前に、ユメが「逆にあなたたちから私に質問はない?」と訊いた。
シオリが応える。
「さっき『ちょっと迂回したら入れちゃった』って言ってましたけど」
「内陸に入ってきたときの話ね」
「どうやって入ってきたんですか? 警察の人が見張ってるんじゃ」
「知る人ぞ知る抜け道があるのよ」
ユメは鼻を高くして胸を張るが、すぐに「っていうのは冗談で」と破顔した。「そうね」と一呼吸置き、少し考えてから話し始める。
「さっき、内陸よりそれ以外の方が大きいって言ったけど、内陸部の周りを一周するのって、途方もなく時間がかかるのよ。車でも一日ではできないと思う。つまりね、それだけの距離に絶え間なく見張りをつけるのなんて不可能なのよ。警察官だってそんなに暇じゃないわ」
警備員をたくさん雇っているみたいだけどね、と続ける。
「だから簡易的なフェンスが敷かれてるのよ。私の肩にシオリちゃんが乗ったくらいの高さかな。子どもだったらよじ登ろうと思えば問題なくできると思う。急場ごしらえであまり頑丈じゃないから大人じゃ怖い。そうじゃなくてもあの高さまで登ると目立って危険ね。警備員じゃなくても近隣住人が見ているかもしれない。そもそも向こうに行ったら死ぬって言われてるんだから、あんまり厳重に警備する必要もないのでしょうけど」
ちょっと話が逸れちゃったね、と苦笑。
「それとはまた別に、昔から頑丈なフェンスが敷かれている場所もあるの。境界の森に入るための整備された道が周囲にないようなところね。そういうところは警備がいなかったりするの。でね、フェンスに沿って歩いていたら一箇所フェンスが壊れているところがあって。人ひとりが入れるくらい大きな穴が空いてたの。あんなのが壊れるんだなあ、って感心しちゃった」
「誰かが壊したんじゃないの?」
「わたしもそう思う。力ずくで壊したんじゃなくて、刃物か何かで切ったような跡だったわ。ずっと前から壊れてたと思ったんだけど、政府の発表が嘘ってわかった今なら、ありえるわね。浮き足立ってあまり深く考えず観察してこなかったのが悔やまれる!」
大きな声を出すが、他のアイデアが浮かんだらしく、ぼそぼそとした声で思索にふけった。
「そもそも警備員は同じ場所に留まる人だけじゃなくて、毎日歩き回ってる人もいるし。虚偽の発表をするような秘密を持ってる政府の犬どもが、あの穴に気づいてないわけもない。安全のためには直すべきよね。ということは、秘密裏にしつつもあえて修繕してない? 修繕してもまた壊されるのがオチだから……? ああ! わからない!」
ユメは悔しそうだが、その瞳は輝いていた。冷静に物事を鑑みる大人らしさと、好奇心にあふれる子どもらしさを備えた瞳。
「たぶん、あの穴を空けたのはあなたたちと同じような子なんだと思う。中で多くの人が亡くなったことや、〈魔の穢れ〉になったことを隠匿したいから政府は情報を隠してるんでしょうけど、それなら穴を常に見張っててもいいはずよね。わたしが入れたということは、それをしていない。あえて見て見ぬ振りをしている? それとも、その穴を作った子を、すでに捕まえたから? いや、それこそ修繕すべきだし……」
う〜ん、とユメは頭を悩ませる。
「そもそも大人たちが死に、女の子が〈魔の穢れ〉になったことを、政府が知らない可能性もないとは言えないわね。正体がわからないから閉鎖をしたいだけなのかも。どちらにせよ、政府は中のことをどこまで把握しているのかしら。この不可思議な現象について、なにを掴んでいるのかしら」
そこでユリアがひとつアイデアを出した。
「政府が犯人、とか?」
「面白い発想ね。事の規模からして充分にありえるわ。でも、そんなことをする理由はなんだろう。内陸部から獲れる農作物はこの国の大事な資源だし、現に都市部でも食糧難に陥りかけている。外国からの輸入に頼っていて、国としてはかなりの損失になってるの。それに、政府が人をいっぱい殺すなんて、わたしは信じたくない」
ユメは演説するように語気を強める。
「この世界にはいろんな国があって、いろんな政治のあり方がある。この国は基本的に民主主義だけど、民主主義国家の中では社会主義に近いんだよね。警察が政府の傘下だから。権力が集中しているから、暴走もしやすい。でも、それを監視して暴走を防ぐ機関もあるの。それがわたしたち報道よ」
報道の役割は報じること。政府や警察の発表をそのまま報じること。独自に調査をすることもある。
「この国は他の多くの国よりも報道の信頼が厚くてね。政府が自分勝手な嘘をついたら、それを暴いて壊すことだってできる。報道機関は『権力なき権威者』とも呼ばれているの」
ユメの眼差しは誇りに満ちていた。力強い語り口は、未来を見据えているように見える。『伝える』という強大な力を、人々の幸せのために利せんとする使命感。
思わず一歩退いてしまいそうになるほどの、まばゆい魅力があった。ふっと表情を緩める彼女に、シオリの心は引き寄せられてしまう。
「ま、実際にそんなことは起こらないでしょうけどね。報道の力をわかっているから政府は滅多な嘘をつけない。ついたとしても、それは優しい嘘なんだと思う。みんなを安心させるための嘘なんだと思う。そういう嘘なら、わたしたちは少しくらい目を瞑るわ。でも、ほんの少しでも私利私欲や非モラルが入っていたら許さない。お前たち報道機関を破壊するぞと脅されたとしても、そこまで含めてネタにしてやる」
ユメさんかっこいい、とユリアがこぼす。ぱちぱち、と手拍子をする。シオリもつられて手を叩く。
「あら、かっこよかったかしら」
「うん! 難しくてよくわからなかったけど、かっこよかったよ!」
ユメは苦笑する。
「ごめんなさいね、難しい話しちゃって」
ユメは窓の外に目を向けた。シオリも目をやる。もうすっかり暗くなっていた。
「今から帰るのは難しそうだから、泊まっていってもいいかしら」
「もちろんですよ。ね」
ユリアに微笑むと、「うんうん! やったー!」とはしゃいだ。ユメも嬉しそうだった。
「ねえねえ。あなたたちはこの村のご遺体の処理をしてるんだったよね」
「うん」
「よし! 明日はお姉さんが手伝ってあげましょう!」
そこで、喜んでいたユリアが表情を固まらせた。「いいの……?」と不安げにつぶやく。
「もちろんよ。記者の仕事は体当たりなんだから! なんでもやる度胸がないと、この仕事は務まらないわ」
それにね、と彼女は柔らかく続ける。
「わたしはあなたたちを応援したい。純粋に、そう思うのよ」
その夜は久々に騒がしくて、楽しくて、あふれてて。気持ちよく眠ることができた。




