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ゲット・アウェイ・ガールズ  作者: 中條利昭
第一部 〈あの光〉篇
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第三章 2、山道

 隣町ミルサスタまでの距離は、休憩を挟みながら歩いて二、三日の距離だと聞いたことがあった。そのため、三日分の食料を持って彼女たちは旅に出た。

 もっと小さな頃に遠足でミルサスタへ行ったことはあったが、そのときは馬車だった。その経験は活かせない。せいぜい、曲がり道がひとつもないことを学んでいたことくらいだろうか。

 余分な食料を持って行かなかったのは、「長い距離を歩くから荷物は軽いほうがいいと思う」とユリアが主張したからだった。シオリは体を強くする力を持つため「私はもっと持てるから、予備はもっと持っていったほうがいい」と言ったが、ユリアは譲らなかった。


「ずっと力を使ってるのは、ぜったい体によくないよ!」


 ユリアの言うように、力を使った後はどっと疲れることが多かった。

 結局シオリが折れ、水や缶詰、果物を少しずつリュックサックに入れて持っていくことになった。三日ぶんにしても、食いしん坊なユリアにとっては少ない量にも思えたが、「三日くらいは我慢できるよ」と力強く言った。


「お母ちゃんに、立派な大人になるって誓ったんだから。お母ちゃんやお父ちゃんのぶんまで、大切に生きるって決めたんだから」


 準備万端のつもりで三日ぶんの荷物を背負って始まった旅だったが、順風満帆には行かなかった。

 いくつか計算外のことがあったのだ。

 ひとつ目は、缶詰は保存がきくが、一度開けてしまうとすぐに食べないといけないということ。彼女たちはなにも考えずに最初の夜にひとつ開けてしまったのだ。失敗は手遅れになった直後に気づくもの。缶を開けきったタイミングで血の気が引いた。果物から先に食べないと、と。

 不幸中の幸い、森の中は涼しいため、果物の保存は一日持った。だが、ふた晩は危険な可能性もあったため、二日目の夜までには食べきった。

 二つ目は、果物を洗うためには水が必要だということ。果物を食べるためには表面を洗わなければならない。ヘンデ村とミルサスタの間に川はなかった。仕方なく汚れのついた皮をナイフで取り除くことにしたが、お互いあまり料理に慣れていなかった。家族の手伝いで料理をしたことはあったが、危険な刃物は触る機会が少なかった。汚れのついた皮を取り除こうとして身まで剥ぎ取ってしまうことが続き、思うほど腹の蓄えにはならなかった。無駄なゴミを捨てるたび、心が痛んだ。シオリはともかく、ユリアは涙目になっていた。


「ユリアたちの代わりに、おいしく食べてね、動物さん、虫さん」


 二日目の夜、シオリはもうひとつの誤算に気づいた。『ミルサスタへは歩いて三日』は大人の足と体力の話だったかもしれない、ということだ。それに勘づいたのは、「明日までがんばったら、きっと着くよね」と希望を持ってユリアが布団に潜り込んだ直後だった。

 持ってきた布団は薄い毛布一枚のみだった。それも、敷くたびに砂で汚れてしまう。テントなどがあればよかったが、小柄な彼女たちにはそれを組み立てるすべも運ぶすべもなかったため、毛布が苦肉の策だった。


(もうほとんどご飯は残っていない)


 夜が来るたび、不安に襲われていたが、この日の夜は怖くて震えるほどだった。さまざまな虫の鳴き声が聞こえる。ときおり動物の鳴き声も聞こえた。みんなヒソヒソと声を落としているようではあったが、四方八方から聞こえるため、密室に閉じ込められて監視されているような圧迫感があった。残りの食料をも狙われているような緊張感さえある。ひょっとすると、ほかならぬ自分たちこそが食料なのかもしれない。

 空に輝く星が美しく、意識をそちらに逃がせたことが唯一の救いだろうか。上空を見上げ、明るい星たちを数え、その次に明るい星たちを数え、その次を、と繰り返すうちに、シオリは眠りに落ちていた。

 朝を迎えるのが億劫なのは、村を出てからは初めてだった。

 しぶしぶ昨日の考えを告げる。「あ、」と硬直するユリア。


「で、でもまだそうと決まったわけじゃないよね! 子どもを連れた大人が歩いた距離、とかかもしれないし!」


(子どもを連れた大人は、きっと馬車に乗るんじゃないかな)


 それは口にしなかった。ユリアの不安は、きっと自分よりも大きい。

 最後の食料は煮魚の缶詰だった。もっと食べたいと思わせてくるおいしさが憎かった。

 水は少し残っていたが、ぐびぐび飲むわけにも行かない。内陸部の森の中は昼でも涼しかったが、空を隠す木がなくなる場所の日差しは強く、つらかった。

 木の実でも成ってないかと見上げながら歩いたが、不発に終わった。道を外れて森を少し深くへ進めばあるかもしれないが、体力と時間を賭ける余裕はなかった。

 夕方になったが、まだたどり着く気配は見えない。

 立ち止まって休憩に入る間隔が少しずつ狭まっているのを感じながら、疲れた腰を下ろす。


「おなかすいたよう」


 ユリアは膝を曲げて地面に座り、つぶやいた。すると、足元に動くものが見えた。カフォだった。ユリアはそれを手に取る。手のひらほどの大きさだった。六本の足が迷子のように宙を蹴っていた。


「はあ」

「ユリアがため息なんて珍しいね」

「いま思いついちゃったことをシオリに言ったら、どんな反応するのかなって思って」


 いじわるをするような言葉だったが、彼女の眉は八の字に曲がっていた。言葉尻がすぼんでいく。


「なに?」


 聞かない方がいいのかもしれない、と思いつつも、シオリは聞いてしまう。


「この前さ、シオリとユリアとクウと、ジャネルとで、遊んだでしょ」


 ユリアの声は少しずつ抑えられていく。

 シオリはできる限り平静を装って応える。


「ユリアがカフォを捕まえようとして木から落っこちそうになったとき?」

「うん。クウがカフォ食べちゃったとき。あのときユリア、言ったよね。昔の人はカフォを食べてたって。栄養満点らしい、って」


 シオリは言葉を失った。

 ユリアも、それ以上話さない。

 硬く脆い羽を噛み砕き、そのかけらが口の中いっぱいに付着して水分を奪っていくのを想像する。ぐちゅぐちゅとしたものが喉を通り過ぎるのを想像する。腹の中で得体の知れない何かが命を宿すのを、想像する。


「ほ、ほら、あのとき、木の上にキノコ見つけたでしょ。虫を食べるよりもそっちのほうが……」


 ほとんど反射的にそこまで言って、シオリは後悔した。彼女は高所恐怖症だ。ユリアが次に言うことが読めてしまった。


「それもそうだね。じゃあ、木登りして探してくるよ。シオリは待っててね」

「ダメ! こんなところで体力使っちゃダメ!」

「じゃあ、どうしよう。ずっとおなかすいたままでいる? いつ着くかわからないのに、ここにある食べられるものを手放すの?」


 ユリアの声はどこか尖っていて、震えていた。


「……食べよう。もう、うだうだ言ってるわけにはいかないから」

「うん。そうだよね、大切に生きなきゃね。大切に、なにかの命を奪いながら、大切に生きなきゃ」


 教えを自身に言い聞かせるように、ユリアは唱える。つらそうだった。きっと、この選択はシオリよりも虫が好きなユリアが苦しむ選択なのだろう。とはいえ、いまさら「やっぱりやめよう」なんて言えるはずもなかった。

 ユリアは一度目を瞑り、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


「ごめんね」


 ユリアがカフォの殻を剥ぐ。ミシミシと乾いた音が鳴ると、カフォの足の動きが激しくなった。カフォに鳴き声はないが、音なき叫びが伝わる。目を背けてしまう。

 ついに、足の動きが止まった。命が途切れた瞬間だった。足を一本一本抜き、裏側の皮を剥ぐ。羽のないセミのようでもあった。


「カブトムシなんかは内臓を取り出したり、数日間干して泥を抜いたりしないといけないみたいだけど、カフォはこの状態でだいじょうぶみたい。さすがに熱は通したほうがいいらしいけど」


 残った物体を左手に乗せ、右手でリュックサックを探った。彼女が取り出したのは、マッチと串だった。


「こんなことにならないといいなあ、とは思ってたんだけど、念のために持ってきてたの。ナイフ、貸してくれない?」

「うん。じゃあ、私は小枝を集めてくる」


 果物ナイフを渡し、シオリは立ち上がった。木枝を胸いっぱいに抱えるくらい集めるのには、あまり時間がかからなかった。

 それらをユリアの前に置く。マッチに火をつける。それを木に当てるが、なかなか火はついてくれない。夏場で湿気が強いからだろうか。

 マッチを何本もつけ、ようやく小さな火が枝に移った。風で消されないように手のひらで守る。火は少しずつ広がっていく。手が熱くなっていく。もうだいじょうぶかな、と手を離す。焚き火と呼べるまで燃え広がるのには少し時間がかかったが、なんとかたどり着くことはできた。

 ユリアはカフォを串に刺し、あぶった。

 焦げ茶色の塊だった。うっすらと残る、六角形とも円形ともつかない虫特有の模様群からは、強烈なほどの生命力さえも感じられる。

 全身に焦げ目がついたところで、カフォを火から離し、もう一本串を刺した。ふたりで分けるためだ。串はそれぞれ頭とお尻に、並行して刺さっていた。

 串をユリアの両手に持ってもらい、その中心をナイフを当てる。宙に浮かせたままではうまく切れなかったので、左手をまな板がわりにした。熱かった。でも、やけどするほどじゃない。我慢した。

 半分に切れたそれを口元に持ってくるのは、少し勇気が必要だった。味や食感を想像するが、どれも食欲を失せさせるものだった。


「いただきます」


 ――『いただきます』という言葉は「命をいただきます」という意味なの。感謝の言葉なのよ。だから、大事にしなきゃいけない。


 いつのことだろう。たぶん、ずっと昔だ。少し若い母の声が聞こえる。

 命をいただきます。

 その概念を、これほど実感したのは初めてだった。食べているものが生きている瞬間、絶命する瞬間。調理される瞬間。すべてを目にして、初めて実感できること。

 もう一度、口の中で「いただきます」と言い、カフォを口に入れ、串を抜いた。外側はパリパリとした乾いた感触だったが、歯を立てて潰すと、ゴムじみた柔らかさに到達し、膜が破れたように少量の液体が吹き出した。独特の泥臭さが口の中に広がる。味はあまりない。食感はエビに近いかもしれない。

 臭み以外は、まずいとは思わなかった。でも、もう食べたくはなかった。早く喉へ落としたかったが、固いところを柔らかくするのに時間がかかり、無言で噛み続けた。


「ごちそうさま」


 シオリが手を合わせると、ユリアも手を合わせてうつむき、顔を膝に埋もれさせた。

 ユリアの隣に座り、頭を撫でる。彼女の震えが手を介し、空気を介し、伝わってきた。

 シオリは焚き火を眺める。暖かかった。パチパチ、と小枝が弾ける。煙臭いし目が乾くけど、その火を見ていると、少し落ち着いた。

 今日はもう休もう。

 つぶやく。






 寝るのが早かったぶん、起きるのも早かった。その成果か、太陽が頂点に登りきる前に町が見えた。


「やった……!」


 何度おなかが訴えを起こしただろうか。ようやくその声に耳を傾けられるかもしれない。

 森を抜けて、しばらく歩いた頃だった。目が眩むほどの達成感があった。その代わり、日差しに打たれて汗はびっしょりだった。水分も尽きていて、喉もカラカラだった。

 門がずっと遠くに見える。人が立っている様子はない。だが、門の間になにか小さなものが見えた。


「あれはなんだろう」


 つぶやいたとき、覚えのあるにおいが、かすかに鼻を刺激した。町まではまだ数百メートルある。近づくにつれてにおいが増していく。


「このにおいって、あれだよね」

「うん……。その可能性も考えてたけど、まさかこんな遠くからにおうなんて」


 そのにおいの正体に気づくと、門の間に落ちているものが、徐々に鮮明になっていく。見たくもない。近づきたくもない。でも、進まないといけない。

 慎重に歩みを進めていく。ずっと砂地だった地面が舗装された石に変わると、赤い色が広がっているのが、見えた。


「やだ……」


 ユリアが声を震わせる。シオリは崩れそうなユリアの肩を支える。それでも、彼女たちは足を進めた。

 においがはっきりと鼻を刺すようになった。これから他の町や集落を訪ねても、きっとこのにおいは存在するのだろう。

 倒れているのが自分たちとあまり歳の変わらない女の子だと認識できたのは、数十歩ほどの距離だった。町へ足を向け、うつぶせに倒れている。顔は乱れた髪で隠されていた。

 彼女の前で、ようやくシオリたちは足を止めた。手を合わせ、冥福を祈る。


「ひどい……」


 ユリアはすぐに目をそらし、門へもたれかかった。シオリも吐き気に襲われて口を押さえる。腹の中に何もないのが幸いだった。

 すでに腐敗が進行しているその子の背中には、こぶし大の穴が空いていた。赤黒い汚れで傷の状態はよく見えないが、貫通している可能性もあった。

 石で舗装された地面には、彼女のお腹を中心におびただしい量の血飛沫が貼りついていた。

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