第三章 1、旅へ
翌日、シオリを起床させたのは八時の鐘だった。あまりにもいつも通りの起床。目を開けると、そこにある天井は見慣れぬものだった。驚いて起き上がる。そこでようやく、自分の家で眠ったわけではなかったことを思い出した。そして、徐々に昨日のことが蘇ってくる。
(やっぱり、夢じゃなかった……)
どっと体のだるさがやってきて、まぶたが重たくなった。同時に、内臓という内臓が全て重石のように感じられ、再び布団に倒れこんだ。
視界の端で布団が動いた。ユリアが寝返りを打っていた。鐘でも起きられなかったらしい。よほど疲れているのだろう。
(もう、この村にはユリアと私しかいない)
人がいなくなっても、機械は動き続けていた。そのことが皮肉に感じられる。ひょっとするとまだ役場の人が生きてるんじゃないか、と。母が朝食の支度をし、タムユが店で声を張る。ぞろぞろと村の中に活気が現れ、子どもたちは学び舎へ。外に出ればそんな日常が待っているのではないか、と思ってしまう。
(もう少しだけ寝よう)
「ごめんなさい、お母さん。二度寝しちゃって」
シオリは再び、まどろみへ落ちていった。
起きた頃には体の疲れがずいぶんと取れていた。怪我の痛みもほとんど消えていた。
ユリアの怪我は、あまりひどいものではないというのに、まだほとんど治っていなかった。精神的なものもあるのかもしれない。
また、絶対的に見てもシオリの治癒は早かった。〈魔力〉のおかげだろうか。そのことに、シオリは腹が立った。その腹いせに、昨日後回しにしていた役場の人間たちを、遺体置き場へ投げ捨てた。彼らの四肢が力なく揺れるたびに怒りは鎮まっていったが、全く別の青い感情は積もっていった。四人目はきれいに置いた。
五人目は、母だった。役場周りでは彼女が最後だった。
「お母さん」
その顔は安らかだった。タムユとは違って怪我らしい怪我はなかった。
(きっと、役場の人たちに逆らわなかったんだね)
おととい――シオリがキールたちに襲われた後の夜、ラソンとタムユはなにかを話していた。シオリは話を聞いていなかったので判らないが、村を追い出される予感あったんじゃないか、とシオリは考えていた。
だから、ハイドと村を出るよう言ったのかもしれない。処刑が実行された際、娘には危害を加えさせないために。
(でも、なんでお母さんは一緒に行かなかったのだろう。ひょっとすると、)
シオリたちが追っ手から十分な距離を稼ぐまでの時間稼ぎ。
体がぶるっと震えた。これは恐怖だろうか、それとも、もっと別の何かだろうか。
頭に浮かんだものを引き剥がそうと頭を振る。でも、それはすでに心臓まで落ちてしまったようで、鼓動が苦しくてたまらない。
「そんなわけ、ないよね」
なんの根拠もない。だが、
「そんな理由、お母さんらしくない」
それだけではない気がしてならない。
風が吹いた。涼しい風が背中をさすり、傷だらけのワンピースがひらひらと舞う。無残にあいた穴へ入っていった風は、背筋に沿って汗を乾かした。
「この服、ボロボロになっちゃった。そういえば、お風呂も昨日から入ってなかったっけ」
ラソンの服も汚れていた。それは昨日、シオリが引きずったから。ヒリヒリと熱い砂の上でうつぶせに倒れたままではかわいそうだと、建物の影へ運んだから。そのときはまだ彼女に体温はあった。でも、今はもう冷たい。
「ごめんなさい」
深呼吸をする。肺が空虚に満たされていく。そして、それをゆっくり吐きながら、彼女は母を持ち上げた。その体があまりに軽く感じられたのは、シオリが成長したからだろうか。それとも、能力のせいだろうか。それとも――。
その先は、飲み込んだ。
陽が落ちるのは、まだまだ先だ。
しばらくは遺体を一箇所に集めていたが、数日もすると問題が現れるようになった。腐乱臭だ。涼しい場所で倒れていた人ならばともかく、日中は陽に当たりっぱなしの人もおり、中には排泄物が漏れ出てしまった遺体もある。日に日に、においが鼻につくようになっていた。
運んでいるときならまだマシだが、遺体を溜めている場所が近寄りがたくなってしまうのは早かった。全員分のお墓を一箇所に作る計画は断念し、その場に埋める他なくなってしまったのだ。
その頃にはユリアも体を動かせるようになっていた。それでも肉体労働はあまりできないため、穴を掘って遺体を埋める手伝いに専念した。このような作業では長い髪は邪魔になるが、誕生日プレゼントのシュシュはもうボロボロで使えない。そのため、以前から使っている地味なヘアゴムで髪を留めた。
食べ物はタムユなどの店を漁った。野菜などはすぐにダメになってしまったが、保存のきく缶詰などには助けられた。もっとも、食事が喉を通らないことは多かったが。
村人全員ぶんの墓を作るのに、どのくらいかかったかは判らない。学校も何もないこの状況では、暦なんて役に立たない。あれから何日が経過したのかも数えられないでいた。「一週間以上は経っていると思う」くらいの認識だった。
「こういうときに、ラジオとかがあると便利だよね」
この国は先進国だが、ヘンデ村は新しい技術を嫌う閉鎖的な村だった。ラジオがひとつある以外は外部の情報が入らない集落など珍しいだろう。そのたったひとつのラジオは役場にあるのだが、先の戦いで壊れてしまっていたため使えなかった。
また、作業の終盤で彼女たちはとあることに気づいた。女の子はほとんど例外なく全員が外で怪我をして倒れていたのに対し、男の子はみんな布団の中で安らかに眠っていた。大人は男女関係なく、男の子と同じだった。
「つまり、〈魔の穢れ〉になったのは女の子だけ、ってこと?」
原則〈魔の穢れ〉は女性しかいない。そのため男性が〈魔の穢れ〉になっていないのはまだしも、大人の女性がそうなっていない理屈はさっぱりだった。
自分たちがこんなに苦しんでいる中、普段から威張り倒してばかりの男の子が布団でぐっすり、と思うと少し腹が立った。だから、戦いの衝撃で役場の壁もろとも吹っ飛ばされていたキールを見たときは、せいせいした。瓦礫の下の捜索を後回しにして正解だった、と。それでも墓くらいは作ってやったが。
そして、ついに彼女たちは村中の遺体の処理を終えた。埋めるだけの単純な作業だからこそ、命の重みが不気味なほど軽く思えた。作業は日が経つにつれて効率的になってはいたが、吐き気は最後まで止まらなかった。
「行ってくるね、お母さん、タムユさん」
ユリアの家族のお墓に挨拶をした後、ふたりは自分たちが寝泊まりしていた宿の隣で黙祷した。初めに作った墓場であり、村でもっとも大きな墓場でもあった。
目を開き、村の外で集めた花束を置いた。花の種類も長さも色も、まるで不揃いな花束だった。
「また来るね。いつになるかは、わからないけど」
「うん、絶対に戻ってこよう。一から十まで、全部あきらかにして」
そして、彼女たちは旅に出た。
「村の正門を出たのは、何日前だったっけ」
正門を抜け、シオリはつぶやいた。
「ここはあんまり行かないよね。遊びに出るのは、いっつもここじゃないし」
この門は臨海部やその間の集落に向かうときに通るときにくぐられる。子どもは村を囲む森で遊ぶことがほとんどであるため、シオリたちは滅多にここには来ない。
「ユリアは一年くらい前かな」
「私は、あの光のあった朝」
「え?」
「そういえば言ってなかったっけ」
キールたちがクウに怪我を負わせ、みんなでご飯を食べた後のことを、シオリは指折り数えながら説明した。
母とタムユがなにかを話していたこと。
妙に母が優しかったこと。
「その次の朝にシオリのお母さんとタムユさんが襲われたんだよね。そのことを予想してたのかな」
「たぶん、そうだと思う」
真夜中にサングラスをかけた男が訪れたこと。
その男が母とシオリを臨海部へ連れて行こうとしたこと。
母がそれを拒み、シオリだけを連れて行かせようとしたこと。
「シオリを逃がそうとしたってことかな。襲われるかもしれないと思ってたなら、一緒に逃げればよかったのに」
「私もそう思う。ひょっとすると、タムユさんを置いていけないと思っていたのかもしれない」
翌朝、この門で男と待ち合わせたこと。タムユさんを呼んでくると言って、母が村に戻ったこと。
そして、戻ってこなかったこと。
結局、男とふたりで向かったこと。
「その人の名前は?」
「ハイドって言ってた」
なにか嫌な予感がして一人で走って戻ったこと。
家に帰るとクウの様子がおかしく、どこかへ行ってしまったこと。
「動物の勘、ってやつかな」
「そういえばあの後、この村で動物を一回も見てないね」
シオリを含め、ペットを飼う家庭はいくつかあったが、その数は決して多くない。この村にいる動物のほとんどは商人が移動用に飼っているものだった。また、放し飼いになっていることも珍しくない。紐で繋がれている動物もいたが、残っていたのは千切れた紐だけだった。
「みんな逃げちゃったのかな」
「クウはどうしてるだろう」
クウは人懐っこい。だから、そのうち戻ってくるだろうと思っていた。でも、まだ姿を見せない。
考えたくもない想像が巡る。シオリには首を振ることしかできない。
「で、その後は嫌な予感がして、私ひとりで戻った」
「その、ハイド? って人は追ってこなかったの?」
彼女たちはまさにシオリが走り出した場所に立っていた。
「うん、止められはしたけどね。その人、足を怪我してたみたいだから」
そっか、とユリアはつぶやき、くじいたように顔を歪めた。
「その人、何者なんだろうね。妙にタイミングがいいっていうか」
「うん。たぶん、あの人はなにかを知ってるんだと思う。だから、私たちはあの人を探さないといけない」
臨海部の都市ホルンに行くと言っていた。そこにいるのかもしれない。
「一旦隣町のミルサスタに行って、その後は臨海部のホルンに向かおう」
隣町といっても距離は遠い。もう少し近い距離にも集落はあったが、それらは皆ヘンデ村のように閉鎖的であるため、『隣町』と呼ばれるのはたいてい開放的なミルサスタだった。その上、ミルサスタは最終目的地ホルンへの通り道でもある。
「うん。がんばろうね」
この旅はいつまで続くのだろう。ハイドに会って、いろいろ教えてもらってそれで終わり、なんてことは、きっとないはずだ。想像もできないことがたくさんあるに違いない。
知らないことを知るのは楽しい。でも、今回はちっともワクワクしない。怖かった。
この怖さはいつまで続くのだろうか。それこそ、想像もできない。
シオリはぎゅっと目を閉じ、胸に手を当てた。
なにを願うでもない。なにを思うでもない。ただ、ぎゅっと目を閉じ、ゆっくりと開いた。
目がくらむほど、太陽が眩しかった。




