第二章 5、焼け野原
夕刻が訪れた。太陽は陰り、最後の火を灯すように、地平線のそばで赤く燃えている。
「もうすぐ夜が来ちゃうね」
シオリはユリアへと微笑み、背負ったものをゆっくりと地面に下ろした。最初は慣れず、放り投げるようだったが、繰り返すうちに不思議な力の配分調整もずいぶんとできるようになっていた。
「シオリ、無理しなくていいんだよ」
「無理なんかしてないよ」
「だって、顔が苦しそう」
「そんなユリアの方が苦しそうな顔してるよ、たぶん」
確かに、シオリの体力はもうほとんど限界だった。脚は震え、握力も消えかけている。視界にもぼんやりと靄がかかるようになっていた。いつ倒れてもおかしくはない、という自覚はあった。でも、自分の体はどうだってよかった。いっそ、限界が来て倒れてしまえばいい、と。
(でも、怪我をして動けないユリアをひとりにするわけにはいかない)
枯れることを知らない彼女の泣き顔を見ていると、どっと力が抜けてしまった。
「無茶はしないで」
「うん、わかった。ちょっと休むよ」
「ちょっとじゃなくて」
「じゃあ、明日の朝まで休憩。その頃にはすっかり元気になってるよ」
そういうことじゃなくて、とユリアはつぶやくが、その後に言葉が続かない。でも、シオリはその言葉をわかっている。
ちょっと休憩、じゃなくて、そんなことやらなくてもいいよ。
「ごめんね、ユリア。ユリアには悲しい思いさせちゃうかもだけど、私はそれでも、ちゃんと送りたいの」
シオリは落ちるようにして砂利へと座り込んだ。そこで初めて、彼女は自分が洋服を着ていることを思い出した。あちこちに穴が空き、泥まみれになっている。もう着れそうにはない。母の笑顔がまぶたの裏に浮かんだ。少し前に母が遠出のついでに買ってくれた、唯一の洋服だった。
湿ったものが込み上げてきて、たまらず頭を振り払う。気を紛らわせるためか、さきほど運んできたものに目を向け、その手を握った。生ぬるかった。この不自然な温度にも少しずつ慣れてしまったのか、なにも感じなくなっていた。それに気づいた途端、吐き気がした。心の震えが弱まるたびに、服に空いた穴から何かがひとつずつ抜けていき、空っぽになっていくような恐怖が積もっていく。
「タムユさん……」
いくらその手を握っても、彼女は握り返してくれない。あの勇ましい温もりを分け与えてくれない。
えぐられたような傷はあっても、その顔は、まるで眠っているようだった。
「ユリア。タムユさんだけ運んでくるよ。そしたら、もう寝よう」
「うん……」
ユリアは家屋の木壁にもたれていた。どうせ誰もいないから中で休んでいたら、と提案したのだが、彼女は「シオリが終わるまでは」とひとりで休むことを拒んだ。
タムユの亡骸を背負い、その家屋の角をひとつ曲がる。もう何人運んだだろう。数えたくはなかった。それでも、その光景は嫌が応にも目に入る。足元に目を逸らしてしまう。
そこには、その家屋の中にいた一家と傷だらけの倒れていた女の子たち、ジャネル、そして村役場の前で倒れていた十数もの遺体が並べられていた。
「あと五人」
あそこに倒れている。母を含めて。
そんな残酷な計算を、ほとんど無意識にしてしまう。タムユを並べると、シオリは家屋にもたれかかり、草の上に嘔吐した。
× × ×
喉が引き裂かれるような音がする。湿っているのに乾いてる、吐き出したいのに吐き出せない。この角のすぐ向こうから聞こえるのは、ユリアの喉元まで胃酸が逆流してしまうような苦しい嗚咽だった。胸がひりひりと痛くて、祈るようにぎゅっと手を握る。
砂に擦れたあちこちの皮膚が焼けるように痛む。それ以上の外傷はないので動きたくてたまらないが、腰が抜けたように体が動いてくれない。そのことが、シオリひとりに遺体を運ばせてしまっていることへの罪悪感を増幅させた。正体のわからないこの現状に、涙が止まらなかった。
(シオリだって、たくさん怪我をしているのは同じなのに)
シオリには体を強くする〈魔力〉があるとはいえ、戦いが終わった時点で体力はほとんど残っていなかったはずだ。ずっと無理をしている。でも、自分はここで座っているだけ。
情けなかった。苦しかった。悲しかった。怖かった。
いつもなら夕食どきで賑わっているはずの村が静かなのが、彼女の恐怖や不安を一層引き立たせる。
この村には、幼い女の子二人しか残っていない。
――死んじゃったみんな、どうしよう。
ジャネルとの戦いの後の自分の言葉が脳裏によぎる。泣きじゃくる自分を抱きしめてくれたシオリに「もうだいじょうぶ」と知らせようとするための、強がった言葉だった。
「そうだね……。お墓を作ろう」
「お墓……」
死んじゃった人はね。という声が聞こえた。ユリアの母の声だ。いつか聞いた母の声を、ユリアはなぞっていく。
「お母ちゃんから聞いたんだけど、死んじゃった人は、埋めるか、燃やすか、するんだって……。この村では、埋めることが多いみたい」
少しずつ落ち着いてきていた彼女の呼吸が再度乱れ始めた。今朝の光景が思い出される。倒れたまま起き上がらない家族。いくら大きな声を出し、必死に揺さぶっても、まるで手応えがない。止まった時間の中で自分だけが動いている。まるで、自分が殺したような感覚にさえも陥った。
大好きな母は、家族は、もういない。
「お母ちゃん……おかあ、ちゃん……」
「ユリア」
体がきゅっと締めつけられる。背中を覆うように撫でてくれる。温かい。
だからこそ、シオリの震えも大きくなったことが、ユリアにも伝わった。きっと彼女も母のことを思い出しているのだろう。
「シオリ……」
「だいじょうぶ。私は、だいじょうぶだから」
しばらくの間、彼女たちは無言で抱き合った。汗が滲み、傷に沁みていく。尖った痛みに指先が震えても、彼女たちは声をあげなかった。
「……めよう」
シオリの声は、濡れていた。
「埋めよう。燃やした方が楽かもしれないけど、お母さんを燃やしたくないから……。あの力を使って、私がみんなを運ぶから……」
この村の中に墓場はなかった。亡くなった者は棺に入れられ、村の外にある墓場に埋められる。そこまでは村の門から歩いて五分ほどだった。
村人全員をそこに運ぶことは、幼いシオリたちには無理があった。そもそも、村人全員を埋められるようなスペースもないだろう。だから、彼女たちは村の中に墓場を作ることにした。どうせもう、この村には誰もいないのだから。
「おじゃまします」
ほとんど日が沈みかけた頃、ユリアはシオリの肩を借りて家屋に入りこんだ。シオリはすでに一度入っていたが、動けないユリアはずっと外にいたため、初めてだった。
招待もされずに見知らぬ家に入るのは心苦しかった。もうすっかり暗いというのに電気がつけられていない。まるで自分たちが泥棒のように思える。
けっして大きくはない家だが、中は大きなひとつの部屋になっていて、外から見た印象よりも広く感じられる。部屋の中央にある電灯が遠かった。
「ちょっと座ってて。電気つけてくるから」
汗を凝縮させたような酸っぱい匂いが、シオリの口元から漂った。
「うん」
ユリアはシオリの手を借りて玄関に座り込む。茣蓙の香りが鼻を抜けていく。
電気がつけられる。整頓された綺麗な部屋だった。きっとこの家に住んでいた人は綺麗好きでマメだったのだろう。
家具、洋服、食器、写真立て。見知らぬ誰かのにおいが、食道を握り締める。
「私たち、すぐそこで戦ってたのに、ここはきれいだね。運がいいのかな」
多くの家屋が壊れた争いの中、このような状態で残っている家があることが、どこか非現実的に感じられた。
こっちが現実であってほしい。
一度眠って、起きたらすべて夢だった。「遅刻しちゃうよ」と母に起こされ、眠った目をこすりながら顔を洗い、歯を磨いて、ご飯を食べる。
きっと、そうなんだよね。
半ば無理やり、ユリアは願う。
シオリの足元には布団が三つ並べられていた。きっと、今朝までは家族が川の字になって眠っていたのだろう。
「ユリアは、おなかすいてない?」
「すいてない。とにかく、いまは眠りたいよ。お風呂も明日でいいから、いまは眠らせて」
「うん。いっしょに寝よっか」
シオリに手伝ってもらい、布団に横になった。眠気に吸い寄せられる。そのまま力を抜いて落ちていきたい。でも、シオリよりも先に眠ってはいけないような気もした。
「消すよ」
電灯が消える。まだ陽が落ちきっていないのに眠るなんて、いつぶりだろう。
そう思ったとき、ふと、さっきまでここに亡くなった人が眠っていた、という事実を思い出した。その人たちは、自分たちの代わりに、外に追いやられている。
急にふとんが冷たく感じられた。
(この家のすぐとなりに、死んだ人がたくさんいるんだよね。その中には、ジャネルも)
シオリは真っ先にジャネルを運んだ。その次に近くで倒れていた他の女の子たち、そしてここで眠っていた家族。彼らは、自分たちが一生目覚めないことに気づいているのだろうか。
あの光が村を包んだのは、朝の鐘でユリアが目を覚ました直後だった。目覚めの悪い人だったら、ずっと眠ったままだったかもしれない。
あの光は、なんだったんだろう。
「ユリア」
その声は、作られたように平坦だった。
「なに」
「お墓作りが終わったら、この村を出よう」
「うん」
「すべてを、知るために」
「じゃあ、ミルサスタに行こうよ。この村から一番近いのは、あそこだよ。近い、っていっても、何日も歩かなきゃいけないけど」
「そうだね」
そして、彼女たちは眠りに落ちた。
シオリのテーマ曲「Shiori」をプレイリストに追加しました。
下記リンクからぜひお聞きください。




