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ゲット・アウェイ・ガールズ  作者: 中條利昭
第一部 〈あの光〉篇
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第二章 4、〈魔力〉

 母の背中を、シオリは思い浮かべた。昨日、お風呂で見た背中。傷まみれの、たくましい背中。

 顔をゆがめたり、想像したり、そんなことは何度もあった。でも、その痛みを実際に得たことはなかった。キールたち受ける攻撃では、ほとんど出血にまで及ぶことはなかったから。

 その痛みを、いまシオリは受けていた。じりじりと皮膚が浮き上がるような感覚。そして、そこから流れる熱い液体。これまで経験した、どの『痛い』という感覚とも違っていた。もはや別の感覚だろう。

 これまでシオリは母の傷のことを、こう思っていた。後ろからの一方的で理不尽な攻撃によるものだと。そのことに(はらわた)を熱く煮えたぎらせては、刃物を頬に当てられるような寒気に身を震わせていた。

 いま、彼女は初めて違う可能性に気づいた。

 あの傷は、誰かを護ってできた傷なんじゃないか、と。


「ごめんね」


 ユリアを護らないといけない。ジャネルのことも護りたい。でも、いまは。

 ごめんね。

 二度目の声は、涙と共に地面に落ちた。

 視界がぼやけて、ジャネルの顔も見えない。見えないけど、いつもの活発なジャネルじゃないことは、見えた。


(お母さん。どうしたらいいの、私)


 ジャネルを傷つける覚悟は持ったものの、どうすればいいのかは判らなかった。


(教えて、お母さん)


 記憶の中から、母の行動を引っ張り出すが、母が誰かを傷つけたような記憶はなかった。それどころか、優しい気持ちに心が満たされてしまう。


(お母さん……!)


 ぎゅっと掌を握りしめたとき、かすれた映像が瞼に浮かんだ。

 男に馬乗りにされ、空を仰いでいる絵。

 そして、その男が突如として消える。


 ――シオリ、怪我はない?


 いつものように美しいけど、まるで別人のようだった母の姿。


 ――あなたの前だけでは、絶対にこの力は使いたくなかった……。


(あのときお母さんは何をしたんだろ)


 わからないけど、たぶん、とてつもなく早く動いたのだろう。

 あの力があれば……。

 すると、脚の重さがなくなった、ような気がした。そして、地面を蹴っていた。景色すべてが後方へ吹き飛ぶような世界。その中心にいたジャネルが、突如として視界のすべてとなり、影に包まれた。

 首に、肩に、鈍い痛みが走る。まるで、壁にぶつかったような。いや、ぶつかったような、ではない。彼女はジャネルにぶつかったのだ。

 そして、視界から影が消えたと思うと、ジャネルが宙に浮いていた。鈍い痛みが、爽快感に変わった。


「え……」






 ジャネルとの出会いは、保育所に通っていたときだった。保育所の同級生はほんの十人ほどだったので入園時から顔を合わせてはいたし、園内で一緒に話したりもしていた。でも、そのときのジャネルは、シオリにとって単なる『複数の中の一人』だった。

 仲良くなったきっかけは、よく覚えている。シオリがいじめられていたときだった。いじめていた男児の顔は思い出せなかったし、なにを言われたのかも覚えていない。でも、きっと母のことだろう。蹴られたり、殴られたりしたはずだ。そんな中で響いた「やめなさい!」という怒号は、まだ耳に残っている。


「先生を呼ぶわよ! ここからじゃ聞こえないとでも思ってるの?」


 先生だってオレたちの味方だ、みたいなことを言われた気がする。


「じゃあ、あたしをなぐりなさい。あたしはシオリの味方になるから、あたしをなぐりなさい。先生はきっと、あたしの敵ではないわ。どうしたの? できないの? ほら、はやくなぐりなさいよ」


 彼女に威圧(けお)されてか、いじめっ子たちは退いていった。この場に、痛みと光だけが残った。

 シオリは尋ねた。


「どうして味方してくれたの? ジャネルちゃんもいじめられちゃうかもしれないのに」


 ジャネルは眉を尖らせた。


「女の子ひとりを囲んでいじめるやつなんて、こっちからごめんよ! かなしいときは、いっしょにかなしみましょう。もちろん、うれしいときも、いっしょにね」


 みんながみんな手を出してくるわけではなかったが、遠くから奇異の目で見られているのを感じることは多かった。そんな当時のシオリに、友だちと呼べる子はいなかった。ときどき一緒に話して笑い合う子ならば、いた。でも、親が迎えに来る時間になると、シオリの周りから人は消えた。

 こんなことを言ってくれる人なんて、初めてだった。囲まれて蹴られていたときにも出なかった涙が一筋、流れた。


「それが『人情』ってものでしょ」


 おしゃれなジャネルが、そう、似つかない言葉を使いながら笑うと、シオリも笑った。

 彼女はときどき『人情』という言葉を使った。当時はその意味がわからなかったけど、今なら、なんとなくわかる。

 人の情。

 人の心。

 今のジャネルに、それは残っているのだろうか。

 そして、自分にも。

 ジャネルが地面に落ちて体を引きずらせるのを見ると、そんなことを思ってしまった。

 〈魔力マ・ラギ〉。

 それは、黒以外の瞳を持つ人種の持つ不思議な力。

 ジャネルのかまいたちや、紫の子の砂を操る力、黄色の子の電撃。

 あの光の後に様子がおかしくなった子の共通点は〈魔力マ・ラギ〉を使うようになったことだった。シオリやユリアは目の色が変わっただけだから、暴走することはなかったんじゃないか、と思っていた。

 でも、たった今、シオリはすさまじい速度でジャネルに体当たりした。これは紛れもなく。


「〈魔力マ・ラギ〉……」


 ぐっと、息を飲む。


(お母さんと、同じ力)


 身体中の痛みが、少しずつ、使命感へ変わっていくのが、感じられた。


(お母さんが、私を護ってくれた力)


 次は、私の番。

 ジャネルが起き上がった。目が合ったときは驚いたような顔付きに見えたが、徐々に敵意が込められ、険しくなり、ついには獣のように唸り始めた。

 今までの半分遊びのような表情とは違う。狩るか狩られるかの、野生の表情だ。

 ずっと味方だった友だちの、初めての顔。

 もう後戻りはできない。

 ジャネルは、シオリへ真正面からぶつかってくる。顔面を引き裂かんと右腕を伸ばす。その速度はあまり早くなかった。シオリは片手で受け止める。次は左腕を、その次は右を、そして脚を。ひとつひとつ受け止めた。

 〈魔の穢れ(マ・ゾルミ)〉になっても、暴走していたとしても、体はただの女の子。

 肉体戦であれば、シオリのほうが慣れているはずだ。

 このまま動きさえ封じてしまえば、なんとか。

 短く叫んだジャネルの体当たりを、シオリは受け止めた。そして、そのまま軽い体を持ち上げ、投げた。ジャネルは勢いよく肩から体を打ちつける。

 つまづかせるくらいの感覚だったが、ジャネルは体三つ分ほど吹き飛んでいた。


(力が、強くなってる……?)


 自分の力は、速く動けるようになることだけじゃないのだろうか。


(きっと、そうだ)


 体を速く動かせるようになったということは、筋力が強くなったということだろう。それならば腕力が強くなるのも当然だ。

 ジャネルは跳ねるようにして起き上がった。素早く腕を振り、かまいたちを放つ。透明だが、なんとなく存在を確認することはできた。水底を覗きこんだときのように、歪んで見えるのだ。

 シオリは右へ跳ねて避けた。しかし、


「しまった」


 彼女の後ろにはユリアがいた。このままだとユリアを傷つけてしまう。

 シオリは跳ねた勢いに逆らい、必死に左腕を伸ばす。空気の歪みを掴もうとする。

 そして、それが手首へ当たるのが、見えた。

 痛みを覚悟する。

 背中に攻撃を受けたときのように、血飛沫があがるのを覚悟し、歯を食いしばる。

 だが、透明の刃はシオリの腕に当たるや、飛沫を上げて弾け飛んだ。


「え?」


 シオリだけでなく、ジャネルも目を見開いて動くことを忘れていた。怯えていたユリアさえも。

 体が震えた。

 自分の体が、すでに自分のものではなくなってしまったような気がしたから。

 その恐怖に意識を奪われていることに気づかされたのは、次の風を受けたときだった。今度は肩へ。だが、軽く押されたような感覚しか受けなかった。肩に目を移すと、服だけがざっくりと裂かれている。

 ジャネルは自棄(やけ)になったように腕を振り抜き続けた。そのすべてを、シオリの腕が弾いていく。それでもなお、ジャネルは腕を振り続ける。その度に、目に怯えが浮かんでいく。その度に、シオリの中に渦巻く恐怖も膨れ上がっていた。

 ジャネルが叫んだ。脚を切断された獣のような、悲痛な響きだった。言葉にはならない、おぞましい雄叫び。

 シオリへ突っ込んだ。泣きながら大人に体当たりする子どものようだった。有利も不利も考える余裕のない行為。

 シオリは受け止める。今度は投げずに、そのままジャネルの肩を掴んで動きを封じる。ジタバタと、髪を振り乱しながらジャネルは暴れる。

 彼女は喉を裂くように叫び続ける。揺れるうなじが、母の悪口を言われ、泣きながら怒った昔の自分と重なった。

 まるで自分が悪者みたいだ。

 化け物みたいだ。

 ふとよぎった考えを振り払い、シオリはどうやって決着をつけようかと考える。


(さっき、突然倒れた子がいた。たぶん、体の限界を超えてしまったから。このままではいつか、ジャネルも)


 ひょっとすると、自分も。

 どうすればいいかなんて、わかるはずもなかった。

 思考に気を奪われ、もがくジャネルを離してしまう。咄嗟に、ジャネルの頭を拳で払った。


(しまった)


 ジャネルは再び吹き飛ばされる。重心のずれたブーメランのように右肩から体を打ち付ける。

 思わず目を背けてしまうほど、痛そうに見えた。それでも、砂まみれのジャネルはまるで無傷のように立ち上がる。息は上がっているが、体を休める気などさらさら無さそうな、乱暴な起き上がり方だった。だが、右腕だけが機能を失ったように、ぶらん、と揺れていた。脱臼しているようだ。その痛みはどんなものなのだろうか。シオリには想像できない。


(目を背けちゃいけない)


 必死に心で唱える。ジャネルの目を見据える。だが、目線は()ち合わなかった。ジャネルは跳ねる。シオリに向かって、ではない。


(しまった)


「ユリア!」


 できる限りユリアから目を背けさせようとしてはいたが、いまの攻撃はシオリにとっても予想外だった。

 すぐにシオリも飛び跳ねる。その速度は、自身の想定よりもずっと早かった。足の裏でブレーキをかけると、乾いた音を立てて砂塵が舞った。そして、ジャネルの体当たりを背中から受け止める。ジャネルの肘が、背中の傷をえぐる形になった。

 言葉を失う。

 音が途切れる。

 視界が青く、赤く、緑に、紫に、瞬時的に染め上げられ、すべての輪郭が白く浮かび、大きく振動した。

 視界がいつのまにか足元へ向いていた。そのまま落ちそうになる。地面を貫いて、どこまでも果てなく落ちそうになる。

 だが、シオリは耐えた。嗚咽(おえつ)を吐きながら、その足を踏ん張らせる。

 シオリはゆっくり叫び、ジャネルへと素早く振り向く。勢いをそのままに、ジャネルの頰に手の甲をぶつけた。

 血の味が、流れが、全身を熱くする。荒い息を吐き出すたびに、その熱が体を包み込む。苦しい快感だった。暴走する女の子たちの気持ちよさそうな表情が脳裏をよぎる。


(痛みを与えるのに味をしめちゃ、ダメだ。これは、苦しいことだから、悲しことだから)


 必死に息を整えながら体に言葉を染み込ませる。一、二、三、と数えながら息を整える。アドレナリンが放出され、戦闘の快感を覚えても、手の甲が覚えている柔らかい肉感が、それを恐怖や幻滅に変換させる。人に虐げられる痛みを知るからこその疼痛(とうつう)だった。

 今度こそジャネルは素早く起き上がれなかった。体の限界が近づいてきているのだろう。

 シオリは思う。このまま耐えれば、たぶん先に体力が尽きるのはジャネルだ、と。


(そうすれば、勝ち……)


 その言葉に、背筋が震えた。自分はなんて恐ろしいことを考えているんだ。まだ勝負に快感を覚えてしまっている。落ち着け、落ち着け。

 どれだけ自分に言い聞かせようとも、優位に立っている自覚は拭えなかった。だが、いつまでも戦い続けられる自信はなかった。傷をえぐられた痛みにかなりの体力を奪われてしまった。足が痺れ、視界が揺れる。体を動かすたび、どこかが少しずつ痛む。単なる一対一の戦いならともかく、ユリアを(かば)いながらの戦いだ。それらを思うと、長期戦に自信は持てなかった。


(早く決着をつけないと)


 でも、その一手を、自分は出せるのだろうか。

 決着をつけるということは、ジャネルを殺すということだ。

 覚悟は決めた。決めたはずだ。


(でも、この手で、人の命を絶つと思うと……)


 拳から力が抜ける。そのまま倒れてしまいたくなる。ジャネルが再び襲いかかってきたため、なんとか体勢を整える。一発目の拳はなんとか受け止めた。その威力も以前より弱っている。だが、シオリの握力も減っていた。二発目をジャネルが放つと、彼女は足を滑らせた。その懐に、大きな隙ができた。ここに一撃を入れれば、留めをさせられるかもしれない。そう思い、構える。だが、そのまま腕が動いてくれなかった。


(怖い……)


 すると、ジャネルが奇怪なほど素早く体勢を整えた。それに驚いてしまったのが、さらなる隙を生んでしまった。ジャネルの手がシオリの懐へと入る。打撃に強くなった身体だとはいえ、衝撃は受ける。足が耐えきれず、シオリは倒れてしまった。


「シオリ!」


 ユリアの声が、すぐ近くから聞こえる。汗や泥がへばりついた髪が視界を隠し、その姿を伺うことはできない。その髪を払う余力さえも、もはやなかった。

 ゆっくりと砂を踏みしめる音が聞こえた。ジャネルがユリアへと体を向けたのだ。

 固い砂地に体を引きずる音が聞こえた。ユリアが匍匐(ほふく)して距離を取ろうとしている音だ。

 ユリアはシオリのように大きな傷を負ってはいない。だが、死を前にした恐怖の威圧から逃れるすべも知らなかった。足を引きずって這うのがやっとのようだった。

 ジャネルは、笑った。腹をすかせた狼が、爪で獲物を掴んだときのように。


「ユリ、ア……」


 一対一の戦いだと、シオリはもう起き上がれなかったかもしれない。だが、誰かを護るためならば。

 脚を震わせ、バランスを崩しながらも、なんとか体を起こす。そのときだった。


「ごめん、ジャネル」


 ユリアは倒れたままジャネルへ体を向け、右手を背中の後ろへ下げた。不器用ながら、振りかぶるように。


「これでも、食らえー!」


 ユリアは、なにかを投げた。勢いは弱く、放物線を描いていたが、ジャネルも呆気にとられたのか、それを避けられなかった。そして、それが顔へと張り付く。六本の足を、皮膚に吸い付かせて。

 昨日ユリアが木登りで採った虫、カフォだった。これといった害をなすわけでもない、どこにでもいる虫だ。

 顔に張り付いたものの正体を、虫嫌いなジャネルも遅れて気づいたのだろう。今までのどれとも違う――普段のジャネルに近い――慌てた叫びを上げた。


(いましかない)


 力を振り絞り、シオリは跳ね起きて体当たりした。ジャネルの体を腕ごと抱きしめるような形だった。奇襲としてはあまりにも不恰好だと言えるだろう。

 だが、ジャネルの体も限界だ。背後へと倒れていく。

 シオリも顔から落ちて行く。

 ふたりの顔と顔が、真っ正面に合わさる。

 目と目が合う。

 シオリの顔で影になったジャネルの顔に、緑色の瞳が浮かび上がる。

 表情のない濁った目だったが、どこか神秘的で美しくもあった。

 ふたりは体を寄せて落ちていき、地に衝突する。

 ジャネルは反動で頭が浮き上がる。

 シオリは勢いそのまま頭から墜落する。

 少女たちのおでことおでこがぶつかる。

 ジャネルのやわらかい額とシオリの石頭の間に、星が弾けた。下にいるジャネルの後頭部が地面に強打される。シオリは反射で目を瞑るが、耳は防げない。少女の最期の声を、シオリの耳ははっきりと捉えた。

 痛みに耐え切れず、大きな声と共に涙を流す――その光景が映るのはまぶたの裏だけだった。その声が耳をつんざくのは、記憶の中だけだった。ユリアに慰められて号泣したのを、建物の角からこっそり覗き見ていた記憶。

 シオリは涙をこぼした。声を殺して、泣いた。

 もう動くことのない友だちを抱きしめながら。






 どのくらい泣いただろう。わからない。シオリが顔を上げたのは、村から叫び声や建物の倒壊の音が聞こえなくなったことに、気がついたときだった。

 いつからだろう。ひょっとすると、ずっとずっと前にはもう尽き果てていたのかもしれない。彼女たち三人以外が。


「シオリ」


 その呼び声に、すぐには反応できなかった。自分の名前を聞き取るのに時間がかかってしまった。それはシオリのぐしゃぐしゃな顔のせいか、ユリアのぐしゃぐしゃな顔のせいか。


「ユリア、だいじょうぶ?」

「シオリこそ、すごい怪我だよ」


 言われてから身体中が痛むことに気がついた。指先から、手首から、肘から、肩から、力が抜けていく。

 ふと、ずっと昔の、母の疲れた顔が蘇った。ただいま、の声が蚊のようだったのをよく覚えている。この日、仕事から帰ってきた母はいつもよりも困憊(こんぱい)して見えた。なにがあったのかは、わからない。シオリにとっては、それどころではなかったのだ。キールたちにいじめられて、泣き崩れていて、母の気持ちを考える余裕なんてなかった。そんなわがままなシオリを、母はなにも言わずに抱きしめてくれた。少しだけ、背中が暖かく濡れた。

 シオリはぐっと足に力を入れる。ふらつきながらもなんとか立ち上がることができた。

 一歩踏み出し、ユリアと目を合わせたとき、思った。

 自分たち以外にも意識を持っていた人はいたのだろうか、と。

 もう一歩踏み出し、ユリアを見下ろしたとき、虫の羽音が聞こえた。先ほどユリアが投げたカフォだろうか。その間の抜けた音と、虫を追い払おうとするジャネルの声が耳の奥から反響した。虫嫌いな彼女のいつもの声色が混じっていた。

 考えてしまう。

 ジャネルの意識は、本当になくなっていたのだろうか。少しだけでも残っていたんだじゃないか。ユリアの説得に、少しずつ自分を取り戻しつつあったんじゃないか。

 半ば落ちるようにして、シオリはユリアに抱きついた。


「ごめんね……」


 誰に向けての言葉だったのだろう。


「ごめん、なさい」


 ユリアも呼応する。そして、(せき)が崩れるように、少女たちは大泣きした。

 彼女たちの泣き声が村中に響く。遠く遠くから、こだまする。

 辺りは静かだった。まだ太陽が頂点にも達していないというのに。

 その頂点へと、煙たちは立ち昇っていく。目的地がどれだけ遠くにあり、どれほど巨大なのかも知らぬまま昇っていく。

 村のあちらこちらから出た煙たちが、空でひとつに重なる。涙でにじんだシオリの目には、そのように映った。そして、彼女には見えぬ高さへと、煙たちは消えていく。

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