第二章 3、思い出
「ジャネル?」
獣の爪に引き裂かれたように鋭く穿たれた穴。突如として現れたそれを作ったのは獣でもなんでもなく、親友だなんて、十歳の子どもに信じられるだろうか。
ユリアは震えた声をジャネルに向ける。ジャネルはそれに応えるようにもう一度右手を上げた。
ネジの飛んだような、狂った笑顔で。
ジャネルが腕を振り下ろすと同時、ユリアの体は再び吹っ飛んで地面に転がった。
「だいじょうぶユリア!?」
自分の体にシオリが覆いかぶさるのを見て、初めてユリアはシオリが自分を二度も突き飛ばしたのだと認識できた。
どうして?
その答えは出したくなかった。でも、さっきだって、砂の塊から自分を護るために、シオリは同じようにユリアを突き飛ばしたのだ。嫌が応にも答えは見えてしまう。
紫色と黄色の目の子たちと同じように、ジャネルもおかしくなってしまったのだ。
「ほんとに、あれはジャネルなの……?」
姿はジャネルそのものだ。腰まで伸びたウェーブのかかった髪は、この田舎の村では他を見ない彼女のトレードマークだし、身に付けている寝巻用のカリサだって、お泊りしたときに見たことがある。
違うのは目の色と、狂気染みた表情だけ。
「信じたくないけど、信じるしかない……」
シオリの目が潤んでいた。いじめられているときだって、滅多に人前では涙を見せないシオリが。
それを見て、比較的泣き虫なユリアが涙を流さないはずはなかった。
視界がぼやける。鼻の奥がツンと染みる。
全部が嫌だった。シオリも同じように考えているのかもしれない。ユリアに覆いかぶさったまま、彼女は動かなかった。その目が灰色に曇って見えるのは、太陽を背にしているからだろうか。
しかし。
「――ぅあ!」
シオリが急遽叫びをあげ、弾かれたみたいにユリアの隣へ倒れこんだ。空を見上げたユリアの顔に、生温かい液体が降りかかった。
はっ、と体を起こす。シオリの脇腹が赤く濡れていた。
「シオリ!」
駆け寄ろうとするユリア。だが、シオリはそれを拒む。
「ダメ! ジャネルから目を離さないで!」
シオリの眼光に足を止める。激痛に歪んだ目だった。
さっきまで満身創痍の色に陥っていたはずの眼に、蒼い光が宿っていた。
考えるより先にジャネルへ体を向ける。右手を振り下ろしていた。
躱そうとしたが、十歳の女の子に――年上の男の子たちからいじめられていたシオリはともかく――擦り傷を作るほど勢いよく避け切ることなど、できるはずもなかった。ジャネルから飛んでくる見えない刃が右腕にかする。
叫んだ。熱くて叫んだ。自らの耳が痛くなるほど。
だが、ユリアは狭まる視界の中でもジャネルを捕え続けるのをやめなかった。
(目を離して、たまるもんか……!)
ジャネルは再度手を掲げる。
どうしよう、と思う。さっきだって避けられなかったのに、右腕をかばった状態で避けられるだろうか。
(でも)
起き上がれず歯を食いしばっているシオリがこれ以上傷つくくらいなら、自分が。
そこで予想外のことが起きた。
ジャネルが突如、ユリアの視界の左端へ吹き飛んだのだ。
「え……」
倒れるジャネルのすぐ脇に、砂の塊があった。
紫の瞳の子だ。
彼女は一旦引き下がり、この機会を狙って砂の塊を作っていたのだ。
ジャネルにとっては狩りの途中に邪魔が入ったようなものだ。あるいは、他に狩るべき相手が乱入してきたようなものかもしれない。ユリアとシオリのことなんて忘れたみたいに、紫の子へ跳躍した。
ジャネルがかまいたちを飛ばしたと思ったら、紫の子は俊敏に躱し、砂を巻き上げる。視界を失くされて戸惑っているジャネルへ体当たりする。吹き飛ばされながらもジャネルは右腕を振るい、紫の子を切り裂く。自身の傷など構わず、彼女は再びぶつかっていく。まるで、自分の体を、痛みのない玩具だとでも思っているように。
そんな攻防の最中、ユリアはシオリへと駆け寄り、肩を貸していた。
「だいじょうぶ?」
「なんとか。ユリアは?」
「痛いけど、こんなのおかあちゃんのビンタに比べたら、へのカッパよ」
シオリは、ふっと微笑む。でも、すぐに真剣な表情に戻った。
「ジャネルも、あの子たちと同じなんだと思う。意識がなくなってる」
ユリアは頷く。信じたくないけど、名前も知らないあの子たちも、大好きなジャネルも、いまは同じ。なにが起きたのか分からないけど、もう、彼女たちはシオリやユリアとは違う。
「なにがあったんだろ……」
シオリはなにかを説明しようとしかけたが、首を振った。「また後で、ゆっくりと話すね」と声を震わせてから、唇を噛んだ。震えが肩越しにユリアへ伝わる。ユリアはそれ以上なにも訊かなかった。
ジャネルと紫の子の攻防は、見ていて痛々しかった。自分の身を道具のように振り回して相手を攻撃する姿に、ユリアは何度も、ぎゅっと、目を閉じた。何度も目を逸らした。
でも、シオリは決して目を逸らさなかった。吐き気を催すような顔色をしながらも、唇を結んで。
戦いの終わりが来たのは、まさに『突然』だった。
紫色の子は何度もかまいたちを受けてボロボロになっていたが、それでも身動き一つ衰えさせなかった。それなのに、次に受けたおなかへの一撃で、突然背中から倒れ込み、動かなくなった。
痛みは体の限界を自身に気づかせるためにある、とユリアは聞いたことがあった。
あの子は、痛みを感じていなかった。だから、命の糸が擦り切れる寸前だったことも理解できず、今の一撃でついに事切れてしまったのだろう。
紫の子がもう立ち上がれないことは自明の理だった。死んでしまっているかもしれない。
それなのに、ジャネルは倒れている女の子へ腕を振り続けた。
食べ物へ執拗に包丁を立てて切り刻むように。
繊維をひとつひとつちぎるように。
もう動かない少女の体は血飛沫を上げながら細かく揺れ続けた。
「なんで、あんなことするの……」
心臓がしぼむようだった。ぐっ、と胸に手を当てると、水風船みたいに弾けてしまいそうだった。
耳元から、鼓動の隙間にシオリの歯ぎしりが聞こえた。「もう、」と彼女は静かに発した。
「もう、ジャネルは人じゃないのかもしれない」
そんなこと言わないで! と叫ぼうとするも、言葉が喉まで上がらなかった。
ジャネルとは物心がついた時から一緒にいた。きっかけなんて覚えていない。保育所で同じ教室にいて、いつの間にかずっと一緒にいたのだ。
ジャネルは誰よりも正義感が強くて、男の子がいたずらをしたりすると、すぐさま立ち上がって叱った。それが年上の子でも関係ない。悪い子には物怖じせずにビンタする。大人びたその行為に多くの子たちは黙り込んで反省を始めるが、時には「調子に乗るんじゃねえよ」と言い返す子もいた。殴り返されたことも珍しくなかった。でも、彼女は決して折れなかった。
自分のことだけじゃない。シオリが母のことでいじめられていると、ジャネルは必ずシオリの助け舟に入った。翌日に陰湿ないじめを受けても、ジャネルはやり返さなかった。彼女は大人びていた。執拗にやり返されても取り合わなかった。
そんな彼女は、けっして泣かなかった。人前では泣かなかった。でも、誰もいないところでこっそり涙を流していたのを、ユリアは知っている。
去年、ユリアは初めて、泣いているジャネルに声をかけた。
「わたし、間違ってたのかな」
それがジャネルの第一声だった。
「間違ってなんかないよ!」
ユリアは考えるよりも早く彼女の両肩を掴んでいた。
「ジャネルは悪くない! ジャネルのしてることはね、他の誰にもできないことだと思う。ユリアだったら、絶対無理だもん。体の大きな男の子を叱ることなんて」
うつむいたまま、静かに涙を流すジャネル。
ユリアは知る。いつも前向きで、みんなを先導するジャネルが、本当は誰よりも繊細で、誰よりも悩んでいたことを。
ユリアは嫌なことがあっても一晩泣いて眠れば立ち直れる性格だった。でも、ジャネルはそうじゃない。人知れず溜めこんでしまうのだ。
そして、ときどき溢れ出てしまう。鉄臭くてねっとりした液体が足元を固めてしまい、ついには動けなくなってしまう。
ユリアは、静かにそんな彼女を抱きしめた。これ以上なにを言えばいいか分からなかったから、黙って抱きしめ、背中を撫でた。温かい背中だった。
すると、ジャネルは雪崩のように号泣した。
ユリアはいつも、大人びた彼女を年上のお姉さんのように思っていたが、この日初めて、ジャネルが同い年なのだという実感が湧いた。
そんなジャネルが今、人じゃなくなっていることなど、認められるはずもなかった。
紫の子にこれ以上攻撃することが無意味だと悟ったのか、それとも飽きただけなのか、ジャネルは一度首を回し、にやり、とユリアたちに向きなおした。緑色の瞳が、不気味に光る。
なんとか、ジャネルを元に戻したい。あの瞳に輝きを取り戻してあげたい。
また一緒に、笑い合いたい。
そう願い、両の手を結んだときだった。
手首に巻いていたシュシュとシュシュが当たった。
右手首にあるのは、去年シオリが誕生日プレゼントに作ってくれたもの。
左手首にあるのは、ジャネルが作ってくれたものだった。
右は桃色、左は水色の造花で作られていた。あまりにかわいくて、嬉しくて、何度も跳ねた。うるさいくらい跳ねて、叫んだ。ひょっとすると、泣いたかもしれない。感情が昂りすぎて、記憶が薄れている。
――これからもよろしくね、ユリア。
薄れた記憶の中でも、ジャネルの笑顔は、ひまわりのように燦然と輝いていた。
「ジャネル!」
ユリアは叫んだ。ジャネルの心の奥の奥まで届かせようと、力一杯叫んだ。
「このシュシュ、覚えてる? ジャネルとシオリが作ってくれたんだよ」
たとえ意識を失っていたとしても、届くはず。
ユリアは眼球を濡らしながら、暖かく語りかける。
「すごく嬉しかった。いっぱい大声出しちゃったくらい。あのときのユリア、きっとうるさかったよね、ごめん」
ジャネルの表情は変わらない。
「もうすぐジャネル、誕生日だったよね。この前、ふたりで何を贈ろうか考えてたんだよ」
シオリに目を向ける。口を結ぶ彼女と目があった。
つい先日、話しあったことを思い出す。シオリのアイデアにユリアは「それすごくいい!」と興奮し、ケチな母親からいかにお小遣いをせびろうか、なんて考えていた。
「すごくいいアイデアだと思うの。だから、楽しみにしてて……」
手首にはめたシュシュを外し、右手に持ってジャネルへとかざす。
「プレゼントを考えるのって、すごく楽しいよね。きっと、このシュシュを作ってたときも、楽しかったんだよね」
徐々に声が震え、曇っていく。
涙を飲み、力を振り絞る。
「思い出して! これを作ってたときのことを! ユリアたちのことを!」
その声に応えるように、ジャネルが手を振った。
シュシュが弾け飛んだ。
「え……」
花弁が散り、宙を舞う。一陣の風が吹き、それらはどこかへ飛んでいった。
骨組みのヘアゴムと、傷のついた造花が、地面の上に落ちる。砂で汚れたそれは、まるで枯れているみたいだった。
「ジャネル……」
ユリアの表情が消えゆくのを楽しむかのように、ジャネルは口角を上げた。そして、止まった時間をじっくり舐めるように、ゆっくりと腕を上げる。
それが振り下ろされるとともに、時間が急速に動き出す。
ユリア! と叫ぶ声が聞こえる。すぐ近くなのに、ずっと遠くから鳴っているようだった。
少し遅れて、逃げなきゃ、と思う。
でも、粘着性の液体が足に絡まったみたいに、体が動いてくれない。
無理やり逃げようとすると、腕だけが空回った。平衡感覚が崩れ、後頭部から落ちてしまう。なんとか体を捻らせ、腕で顔を護りながら伏せることには成功した。でも、それ以上は何もできなかった。
小石が腕を引っ掻いた。痛みに顔を歪める。目の端が濡れた。鼻の奥が染みる。
でも、本当の痛みはこれから来るはずだ。刃物で切られるような鋭い痛み。高いところから落ちるような息の詰まる痛み。いろんな痛みが、記憶のあちこちから蘇り、それらすべてが無数の大きな牙となって、背中を引き裂いていく。肩から腰へ引き裂いていく。そんなイメージが浮かぶ。知りもしない痛みを覚悟する。歯を食いしばる。目を、鼻を、全身の細胞を、食いしばる。
そして、閉めることのできない耳へ、泥水に石を落としたような音が貫いた。
体に衝撃は走らない。覚悟した痛みは、まだ来ない。
目を開け、うつぶせのまま顔を上げて振り返る。
「シオリ……」
シオリが、ユリアへ向かい合い、小さな体を大の字に広げていた。うつむいていたため、前髪と逆光で顔が見えない。その髪から汗が滴り落ち、地面を濡らした。二本の脚の影の、隙間だった。
そこをめがけて血飛沫が重なり落ちた。
「怪我はない? ユリア」
声が出なかった。体が震えるだけ。まるで、自分自身がシオリを傷つけたみたいな罪悪感だけがあった。
「ごめんね、ユリア。私、いまからジャネルを傷つけるよ。傷つける覚悟を持つよ。ユリアを護るために」
シオリは微笑んでいた。逆光で暗くとも、その笑顔はほんのりと輝いていた。汗まみれで、歪んだ輝きだった。目の下が濡れている。鼻の下も汚れていた。
今にも倒れそうになりながら、彼女はユリアに背を向ける。その背中はX字に赤く染まっていた。
「ごめんね、ジャネル」
ジャネルが数歩、退いた。彼女の顔から初めて狂気が薄れた、気がした。
「ごめんね」
その涙声の後に、嗚咽。つられてユリアも目頭が熱くなる。
ジャネルが叫んだ。言葉にならない、動物的で血みどろな雄叫びだった。掻き乱されるウェーブの髪は、黒い炎のようだった。そして、彼女は地面を蹴る。
乾いた音と共に、涙がユリアの視界を滲ませた。
腕で涙を拭う。その腕が砂で汚れていたため、目に砂が入ってしまう。目が開けられなかった。
すると、二度目の、地を蹴る音が聞こえた。音はごく近かった。飛沫のような砂がうつ伏せのユリアの足首へ、ふくらはぎへ、太ももへ、首筋へ弾け飛んだと思うと、今度は遠くで鈍い音が鳴った。
(え?)
涙が一滴、頰をなぞる。ようやく目を開くことができた。
さっきまでジャネルがいたところに、シオリの背中があった。そして、その向こうで、ジャネルが仰向けの姿勢で宙に浮いていた。




