第二章 2、暴走
〈魔の穢れ〉になる。
そんな言葉など、この世界には存在しないはずだった。
「どういうこと、なの……?」
「わからない……」
シオリの目は深海のような青色に。ユリアの目は鮮やかな濃い桃色に。
呆然と見つめあっていると、また爆音が鳴った。さっきとは違う方角だ。そしてまた別のところから何かが崩れる音。あちらこちらから、次々と不吉な音が連鎖していく。そして、かすかに甲高い音も聞こえた。
「なにこれ……」
辺りを見回しながら震えているユリアよりもシオリは若干落ち着いていた。
「ユリア、一番近くで音がしたところに行こう」
「……うん」
ふたりはぎゅっと手を繋いだ。少しずつユリアの震えが薄れていくのが伝わる。
その瞬間、焼け爛れるような悲鳴が彼女たちの耳をつんざいた。幼い女の子の声だった。音はかなり近い。
シオリの耳は、その悲鳴の寸前にまったく別の音を捕えていた。鈍い飛沫の音を。昨日、クウがキールに切られたときの音と同じ音を。
「気のせい、かな……」
シオリたちの前には木造の民家があった。おそらく悲鳴はそのすぐ向こうから発せられたものだろう。
(この向こうでなにが……)
想像できないものを掴もうとした、その時。
乾いた轟音と共に、民家の壁が破裂した。
「うわあああ!」
ひとりの女の子が壁を突き抜け、落ちてきた。
シオリたちと同じくらいの年だろうか。声にならない声を上げ、その子はふらつきながら立ち上がった。
「え……」
シオリとユリアは同時に零す。
その女の子の背中はボロボロだった。背中だけじゃない。後姿全体が傷だらけだった。
「だ、だいじょうぶ!?」
ユリアはその子のもとへ駆け寄ってしまう。
シオリは嫌なものを感じていた。その女の子から滲み出る、得体のしれないなにかを。
「ユリア! 近寄っちゃダメ!」
もう遅い。
女の子はシオリとユリアの存在に気づいてしまった。
「えっ」
そして、ふたりはまた同時に驚いた。
その女の子の瞳が黄色だったから。
刹那。
黄色い目の女の子は、手をかざした。自身へ向かってくるユリアへ。
その表情は、笑顔だった。
狂気じみた、血の味のする笑顔。
「ユリア、避けて!」
本能的に叫ぶものの、遅かった。
女の子の手が光る。
そこからユリアのおなかへ、一筋の光が貫いた。
「ユリア!」
雷鳴と共に、ユリアは指先という指先を広げ、崩れるように伏せた。
「ユリア!」
すぐに駆け寄るが、女の子はそんなシオリへと手をかざす。
にやり、と笑いながら。
雷鳴が響く。しかしそれは誰にも当たらない。シオリは持ち前の瞬発力で雷を避けたのだ。
「ユリア! ユリア!」
体を揺する。すると、ユリアは咳をし、眩しそうに目を開けた。
「シオ、リ……」
「だいじょうぶ!?」
「痛い、痛いよぉ……。ビリビリする」
ユリアの指先は震えていた。怯えによるものではない。電気を受けたことによる痙攣だ。
「〈魔力〉……」
この村に〈魔の穢れ〉はラソンしかいない。そして、この黄色い目の子を、シオリは目にしたことがあった。狭い村なのだから見たことのない顔はほとんどないと断言していいだろう。もっとも、瞳は黒かったはずだが。
「やっぱりあの光が……」
あの光の後、シオリやユリア、そしてこの子などが〈魔の穢れ〉となってしまった。目の色が変わっただけでなく〈魔力〉も使えるのだから〈魔の穢れ〉なのは間違いがない。
でも、
「どうしてあの子はユリアに攻撃を……」
顔を上げたとき、黄色い目の子の手のひらが見えた。
「危ない!」
シオリは咄嗟にユリアへ体当たりし、電撃をかわす。
「痛てて……」
「ごめんね、ユリア。動ける?」
うん、とユリアは頷きながら電撃の着地点へ目を向けた。砂煙が天へ伸びていた。
彼女の体は震えている。きっと、さっきの痛みを、恐怖を、思い出しているのだろう。
「なんであの子、ユリアたちを攻撃するの?」
「……わからない」
女の子を見据えたまま応えた。相手が攻撃してくる以上、目を離すわけにはいかない。幸い、あの電撃は手をかざした先へ一直線で飛んでくるので、その手の先から逃げ続ければ当たることはない。
(それにしても)
シオリの意識は一部、宙を彷徨っていた。なにかを忘れているような気がするのだ。
(なにを……)
そしてまた手を向けられる。
「こっち!」
ユリアに指示し、次の攻撃も避けた。もうシオリの指示がなくてもユリアは攻撃を避けられるだろう。
でも、彼女はそれを拒否する。ただ避け続けるだけ――逃げ続けるだけ――というのを、心が許してくれなかった。
「ねえ! どうして攻撃するの!?」
女の子は答えない。また雷を放ってくる。
ふたりはそれを避ける。避けるときでさえ、ユリアは悲しそうだった。
「ねえってば!」
シオリは冷静に女の子を観察し続けていた。その中で気づいたことがある。
「ユリア、まるであの子、意識がないみたいじゃない?」
「えっ?」
黄色の子から生気を感じることができなかった。まるで、倒れていた母親のように。
「まるで死んでるみたい……」
「さっき壁を突き破ってきたときに、おかしくなっちゃったのかな……それとももっと前から?」
そのユリアの言葉に、シオリは忘れていたものを思い出した。
(さっき、この子は壁を突き破って倒れた。なにかに吹き飛ばされたみたいに)
そして、シオリの目は捕えてしまう。黄色い目の女の子の方の向こうから――破れた壁の穴から――紫色の瞳がにやりと笑い、空に手を伸ばしていることを。
「ねえ、シオリ……この砂煙おかしくない?」
シオリが口を開く前にユリアが異変に気づいた。
電撃は数度地面に直撃し、砂煙を舞い上げていた。その砂たちが全て、シオリたちの頭上に集まり、大人の頭ほどの球体を作っていたのだ。
「あ、危ない!」
紫色の子が手を振り下ろした瞬間、砂の塊がふたりへと真っ逆さまに落ちた。
ユリアはそれを見上げたまま動かなかった。いや、動けなかった。目がガクガクと震えている。そんなユリアを、シオリは押し倒す。おかげでユリアは避けられたが、シオリは躱しきれなかった。砂の塊が、前のめりになったシオリのふくらはぎに直撃してしまう。
「シオリ!」
喉が締まる鈍い痛みだった。
塊は弾けることなく、シオリの脚からのろのろと転がり落ちる。
脚がじんじんと痛む。まるで筋肉が引き裂かかれたみたいだった。
「私は、だいじょうぶ……」
強がっているのはあきらかだった。
おそらく骨折はしていない。しかし、起き上がることは到底できそうになかった。
ユリアが必死に彼女の足をさすって砂を落とすが、シオリにはほとんど感覚がなかった。足が、体からひどく離れているところに浮いているみたいだった。
とても戦える状況ではないが、紫と黄色のふたりに他人を憐れむ心はない。両者は怪しげに笑い、手を構える。
シオリもユリアも半ば諦めかけていた。このまま攻撃をくらって死んでしまうと、覚悟した。しかし、ふたりにとって予想外のことが起こる。
さっきの砂の塊が、今度はバラバラに砕け散り、それが黄色い目の女の子に襲いかかったのだ。
彼女は一筋の短い悲鳴を上げて倒れこんだ。周りの砂が牙を剥く粉塵となり無造作に襲いかかり始めたのだ。
シオリもユリアも呆気に取られてしまっていた。
「あれって……共食い、みたいなこと……?」
疑問符を浮かべるユリアだったが、シオリは「ううん」と否定する。
「私たちが現れる前からあのふたりは戦っていたはずだから、あの子たちは味方同士じゃないと思う」
いまの内に、とユリアはシオリに肩を貸した。シオリの左腕を自らの首にかけて胴体を持ち上げる。シオリもそれに呼応する。右手を地につけて必死に起き上がろうとした。上体は起き上がったが、肝心の脚が動いてくれない。十歳の女の子の体重とはいえ、同い年の女の子にはそう持ち上げられるものではない。それでもユリアは声にならない声を振り絞ってシオリを持ち上げようとする。
「シオリ……っ!」
顔中に汗が垂れる。それが口に入る。目にも入る。しょっぱい。痛い。苦しい。それでも、ユリアは諦めない。
そのふんばりに、シオリも負けるもんかとふんばった。力が入らないはずの脚に力を込める。少しずつ、少しずつ、ウジ虫が這うような速度で感覚が足先へ伸びていく。一回りも二回りも大きく腫れあがったように感じられたふくらはぎも、徐々に直径を狭めていく。
膝まで持ちあがり、膝を立てられさえすれば。というときだった。
倒れていた黄色い目の女の子が体中から眩い光を発し、周囲の厄介な砂を弾き飛ばした。跳ねるように立ちあがり、電撃を紫の子にぶつける。
それが肩に当たり、鮮血が噴出した。手のひらでそれをかばい、雄叫びをあげる。
「あの子たちにとって、自分以外全員が敵なのかも」
シオリの足元まで砂塵は飛んできていたが、大きな影響はなかった。ふらふらの脚でなんとか立ち上がる。脚の感覚は未だ薄いので、ユリアの肩がなければ二秒だって立っていられる自信はなかった。
「ありがとう、ユリア」
「えへへ、どういたしまして」
黄色と紫のふたりが牽制しつつ睨みあっている中、シオリたちは今が逃げるチャンスだと見て、一歩ずつ、慎重に、後退していく。ここで足を滑らせでもして音を鳴らしてしまったら、ふたりともが襲ってくるかもしれない。
シオリにはこの瞬間がひどく静かに思えた。本当はあちらこちらで爆音やら悲鳴やらが轟いているのだが、彼女の耳には入っていなかった。
黄色と紫の子たちに目線を向けながら後退していく。
お箸を素早く振るような風音が鳴った。
それは突然のことだった。
黄色い女の子の腕から血が噴き上がった。なにが起きたのかも解らない様子で、女の子は自分の腕にゆっくりと首を向ける。そこでまた風を切る音が鳴る。上腕から、肩から、首から、血が噴き出す。少女は叫んだ。
「なにが……、起きてるの?」
軽快な音は鳴りやまない。リズムを刻むように、次々と黄色の女の子の皮膚が鋭く傷付けられていく。まるで、透明の刃物が投げつけられているかのように。
痛みに悶える女の子は、叫びながら辺りに雷を撒き散らした。紫の子は数歩後退し、それを避ける。シオリの元にもいくつか飛んできたが――なんとか、ではあるが――肩を組んだ状態でも避け切ることができた。
シオリは黄色の女の子を観察していた。苦しみもがいてクルクル回っているため全身が裂けてしまっているが、その傷は全てシオリから見て右側にできていた。そちらから、なにかが飛んでいるのだ。そこには家屋があり、シオリの角度からは死角となって見えなかった。
黄色の女の子もそれに気づいたのか、家屋ヘ向かってひときわ太くて大きな電撃を放った。乾いた轟音を合図に砂壁の家が崩れさり、赤みがかった砂煙が舞う。
その煙が、ぶうん、と揺れ動いた瞬間、誰かが煙の中から飛び出してきた。その誰かは黄色い女の子に向かって、切り裂くように両腕を交差させて振るう。すると、女の子の胴体一面から十字に血が噴き出した。そして彼女は、虫の鳴くような声をあげ、力なく倒れた。
「あれって……」
電撃を放つ女の子を呆気なく倒してしまったのもまた、女の子だった。しかし、黄色と紫の子とは違い、シオリとユリアにはとてもよく覚えのある顔だった。
「ジャネル……?」
その子はシオリたちへ顔を向けた。紛れもなく、彼女たちの親友であるジャネルだった。寝巻用のカリサ姿だというのに、どこか気品のある佇まいをしている。しかし、その瞳の色は黒ではなく緑だった。
「助けに来てくれたの……」
いまにも嬉し泣きしそうなユリアだったが、シオリはこれまでに感じたことのないほどの恐怖と、気味の悪い威圧を感じていた。
ジャネルが手を上げる。まるで、毎朝の挨拶のように。
「ユリア!」
シオリがユリアを突き飛ばしたと同時、ジャネルが腕を振りおろした。
シオリは右腕から、ユリアは左腕から地面へ倒れ込む。その間を疾風が吹き抜け、背後の民家へ鋭利な傷を残した。




