第一章 10、母
「はあ」
「なにを溜息など吐いておるのだ」
村長と副村長は村役場の一室で向かい合っていた。
ジョーが処刑の準備完了を告げに来るまで待機しているのだ。
「なにを……。そうじゃな、すべて、かもしれぬ」
タムユやラソン、シオリの処刑など見たくはなかった。しかし、村長として見届けなければならない義務があった。
「穢れた民族の死を目の前で見られるのだぞ? 待ち遠しくて堪らないではないか」
「待ち遠しい、か。遠すぎてこのままずっと来なければよいのじゃが……。いっそのこと先に寿命を迎えればいい」
「それはいい冗談だ」
「変わったな、おぬしは」
村長はぼそっと嘆く。
「なにか言ったか?」
「年寄りの戯言じゃよ」
当然ながら、ふたりは知らない。
村長の願いが叶うことなど。
× × ×
体力には自信があった。かといって、村に入ってもまだ全力疾走を続けられるとは思いもしなかった。
シオリは真っ先にタムユの店へ向かっていた。
そこにはいつも通りタムユがいて、母の買い物を続けていた。――のだとしたらどれほど良かったことだろうか。
誰もいなかった。
「な、なんで」
いつもよりも荒廃して見えた。砂が商品のあちらこちらにかかっている。几帳面なタムユではありえない。
シオリは見つけてしまう。
「この赤色、なに……?」
それは、地面に散らばっている乾いた液体だった。
もしかして――。
シオリは短い髪を振り乱す。よくわからないけど「もう遅かった」と感じたのだ。
でも、もし遅くなかったとしても、自分に何ができたのか。
一緒に倒れるだけなのでは。
「でも、お母さんを見捨てるくらいなら……っ」
その続きは口にせず、彼女はまた走り出した。自らの家へ。
(砂が商品にかかっているのは風が吹いたからで、今は家で一緒に出発の準備をしているかもしれない)
ほとんどありえないと感じていながらも、そう言い聞かせずにはいられなかった。そうでないと、砂の城が朽ちるように、体と心がボロボロに砕けてしまいそうだったのだ。
今頃になって息が苦しくなってきた。一度止まってしまうとおなかのものが逆流してしまいそうだった。
(走り続けるしかない)
手のひらをぎゅっと握ったとき、犬の叫びが聞こえた。
「クウ?」
「――アウ! アウ!」
その悲鳴のような鳴き声は、あきらかに穏やかではない。
次の家屋の角を曲がると自宅が見えた。玄関前でクウがしきりに飛び跳ね、天に向かって叫んでいる。
「クウ! どうしたの!」
クウは激しく吠えながら森のほうへ首を振った。まるで、シオリに「向こうへ!」と指示するように。
「お母さんは!?」
「アウアウ!」
シオリがクウのもとへ近づいたとき、
「痛い!」
クウはシオリの靴下に噛みついた。布を貫き、牙がシオリの足首に食いこむ。
「痛いよクウ! どうしたの!?」
クウは慌ただしい音を立てて走り出した。
冷静さを失って自暴自棄になっているように見える。
「そっちにお母さんいるの?」
クウの疾走に負けまいとシオリは走り出す。内臓が全て口から出てしまうような嗚咽に襲われながらも、一心に走り続けた。
しばらくクウについていっていると、村の端まで来てしまった。クウは走り続ける。
「クウ、どこに……」
そこで、視界の端にぽつんと立つ建物が映った。村役場とその倉庫だ。
(もしかすると、お母さんはここに……)
クウは村役場さえも見えていないようだった。ひたすら森へと突っ込んでいく。
「クウ……」
もう体力の限界だった。ブレーキがゆっくりとかかり始め、立ち止まってしまう。
「はあ、はあ……」
朝とはいえ、真夏の日差しの中でこれだけ走ったのだ。うつむく彼女の髪から汗が滴るのも当然だ。
その汗は、彼女の足元にある赤色を滲ませた。
「……赤、色?」
その赤い滴りは、ほとんど等間隔にぽたぽたと線を作っていた。まだ乾いていない。その線を目で辿っていくと、終点は村役場の倉庫だった。
「あそこに、お母さんが……」
ふと、クウの走っていった方向に目を向けたが、もう姿は見えなかった。
棒になったような重たい足を必死に持ち上げる。息を切らせながら一歩一歩倉庫へと不安定に歩いていく。
「お母さん……お母さん……!」
何度も倒れそうになりながらも歩み続ける。
大好きな母に会うために。
ついに倉庫の取手に手をかけた。
「おかあ、さん……っ!」
木と木が擦れる乾いた音。その後に彼女の眼に映ったのは、地面に倒れている数人の男と、ボロボロになりながら戦う男と女。
そして、
「お母さん!」
「――シオリ!?」
ずっと奥で膝をついて座り込むラソン。その手には手錠がはめられていた。
彼女の脇にはジョーが立ち、「ほお」と憎たらしく笑っている。
戦っているタムユもシオリに気づいたようだった。
「シオリちゃん!?」
この少し前のこと。男の肩に担がれながら目が覚めたタムユは、この倉庫に入った途端に舞いあがり、男たちへ驚かせる暇も与えず、五人を打ちのめしていた。そして今、ジョーを除く四人と対峙している。
「どうして!」
叫ぶラソンの目は涙ぐんでいた。同時に、聞きわけの悪い子に対しての怒りが滲んでいるようにも見えた。
「どうしてここにいるの! ロウラさんは!」
ロウラさん?
誰?
「来ちゃダメ! 早く戻りなさい!」
今にも喉が潰れそうな、耳に刺さる響きだった。そんな母の苦しい声は、生まれて初めて聞いた。
シオリはようやく気づく。
ここに来てはいけなかったのだと。
自分がしたことは、闇の中で母が願った唯一の光を、影に帰してしまうことだったのだと。
その刹那。
「殺せ」
ジョーの声だった。
「女ひとり相手に四人も要らないだろう」
ラソンの顔色がみるみる絶望の色に変わっていく。
それは、子を失う親の心。
蒼い瞳がくすみ、灰色になっていた。
「逃げるんだシオリちゃん!」
タムユが叫ぶ。
だが。
シオリへ意識が向いた一瞬、構えに隙ができてしまった。そこを男のひとりが殴りかかり、タムユは地に落ちて引きずられてしまった。口から血が流れ、何度も砂利に引きずられた腕の皮膚は剥がれ、えぐれている。
それでもなお、タムユはシオリへ叫ぶ。
「早く! 早く逃げるんだ……っ!」
体を起こそうとするタムユの頭を、男のひとりが踏みつぶした。
断末魔にもならぬ、あっけない声と共に、タムユは動かなくなった。
十歳の少女にはあまりにも残酷な光景だった。
「……っ!」
(ごめんなさい……ごめんなさい! タムユさん、お母さん!)
真っ赤な目を腕で擦り、走り出す。
だが、すでに体力は使い果たしていた。たとえそうでなくても、追いかけて来る大人の男から逃げきれるはずなどなく。
「きゃっ」
手首を掴まれ、シオリは脚を滑らせて背中から落ちた。
仰向きに倒れるシオリ。その頭上にナイフがかざされる。血塗られてはいないが、無数の鈍い傷が白く光っていた。
「俺に子どもをいたぶり殺す趣味はないが、悪く思うなよ。一瞬で楽にさせてやるから」
「やめて……やめて……っ」
「すまないな」
諦め、目を瞑りかけたその時。
自分の上に立つ男が、消えた。
「えっ……」
鈍い打撃音。
一陣の風。
男が、消えた。
喧騒さえも消えた。
シオリの視界には、青い空しか映ってない。
「――シオリ、怪我はない?」
「お、お母さん……?」
すぐそばに母の声を感じ、上半身を起こす。手が届くほどの距離に母が立っていた。
いつものように美しい姿。なのに、どこか別人のよう。
「お母……さん?」
その姿は、陽炎のように、ぼやけて見えた。そして、影に立つような暗さがあった。
ラソンは膝をつき、シオリの頬に手を当てる。
その手は、熱いほどに温かかった。
「本当に……お母さん?」
「ええ。紛れもなく、あなたのお母さんよ」
そうやっていつものように微笑むラソンの手には、鎖の切れた手錠があった。
彼女のずっと後ろに、さっきの男が伸びている。
さっきまで騒がしかったはずの倉庫は静まり返っていた。
それもそのはずだ。手錠をかけられ座りこんでいた女が、その手錠を引きちぎり、まばたきひとつする間に、数十歩も離れていた男を吹き飛ばしていたのだから。
「マ、〈魔力〉……!」
ジョーの声が震える。冷静を装いつつも、動揺を隠せないでいる、おびえた声だった。
「とうとうそれを使ったか……。しかも娘の前で、そんな恐ろしい力を……化け物め」
気丈ぶっているジョー以外の他の全員は、戦うことを忘れて唖然と立ち尽くしていた。
シオリはその様子を見て、ぽかんとしている。
そんな娘を、ラソンは掻き抱いた。
すすり泣くような母の息が、耳にかかる。
「ごめんなさい、シオリ。あなたの前だけでは、絶対にこの力は使いたくなかった……」
「ちから……?」
物惜しげにほどかれる腕。母の手が肩に置かれる。
まっすぐな蒼い瞳は、暗く煌めいて見えた。
「早く逃げなさい。いいわね」
シオリは下まぶたに溜まる涙をぬぐう。
いつのまにか息切れが消えていた。足の重みがなくなっていた。
「……うん!」
そして、走る。
ジョーが叫んだ。
「なにをしているお前ら! とっとと娘を捕まえろ!」
立ち尽くしていた他の男たちが、一斉に我に返る。彼らの足は怯えていた。それでも各々が大声を出して自らを奮い立たせ、親子へと駆け出す。
その先に待つラソンは深く、ゆっくりと息を吐いた。
そして、構える。
「ここから先は、絶対に通さない」
彼女の輝く蒼い目に、男たちは圧倒されて脚を止めてしまう。そうでなくとも、ラソンの構えには隙がなく、攻撃を仕掛けられる猶予など、これっぽっちもないのだ。
子を護る母。この世界に、それ以上の圧力がひとつとしてあるのだろうか。
「なにをしている! 貴様らはメスブタひとり殺せないのか!」
ジョーが叫んだ刹那。
金属的ながら、低く、柔らかい音が鳴った。場違いとも間抜けとも言える、ぬるい音。――八時の鐘だ。住民を起こし、一日の始まりを告げる鐘。
だが、ラソンにとって、それはまったく違う意味を持っていた。
「しまった……っ!」
終焉を告げる絶望の鐘。
「シオリーッ!」
母の叫びに、シオリは振り返る。その目に飛び込んだのは、背景全てを覆い隠す光。
またたく間に、森を、村を、倉庫を、男たちを、母を消し、少女の視界を白に包み込んだ。
その光の前に影など存在しない。
建物の中。
引き出しの隙間。
蟻の巣。
光は全てを這い縫い、全てを塗りつぶす。
絶望の白に。
終焉の白に。
すべての始まりを告げる白に――。
次回より第二章。月曜日更新です。




