公爵令嬢の信頼。
「親愛なるハーディスト伯爵。
ご機嫌はいかがですか。
お体の具合がよろしくないようで。
それはそれは、お大事に。
さて、風の噂で聴いたのですがどうやら家の愚娘がお世話になっているとか。
よくもまあ、唆してくれてどうもありがとう。
雪が溶けたら視察も兼ねてご挨拶に伺いたく筆を取った次第で………」
「……おい、待て」
エル様の低い唸り声にジーク様はとぼけたように顔を傾けた。
ばさり。
気が付くと抱えていたはずの書類を手放してしまっていた。
無音の空間にやけに響く。
対してわたしはというと驚愕にあんぐりと口を開けたまま固まっていた。
トレイシーがこの場にいればはしたないとそれはそれは叱られていたことだろう。
「誰が読めと言った」
「いや……だってエル忙しそうじゃないか。
その小難しい資料に目を通しながらでも聴けるようにさ、親切心でさ」
「ほう?」
エル様は執務室の机についたまま、下からじろりと、ジーク様を仰ぎ見た。
それからトントンと万年筆を机に当てて顎を上げた。
「………で、本心は?」
凍てつくような視線に向けられた訳でもないのに背筋が伸びた。
ジーク様はニタニタ笑っていた顔を途端に強ばらせる。
「………面白そうだったから、デス」
「ほう……、ついでに聞こう。その手紙はいつ、届いたものだ」
「…………きょ、今日でーーす」
ガンッ!
何かが凄い勢いで飛んで行ったかと思ったら鈍い音がシンとした部屋に響いた。
「悪い、手が滑った」
「………ぼうりょくはんたーい」
弱々しくそう呟いたジーク様を恐る恐る振り返るとジーク様の顔スレスレ、丁度鼻の高さの壁に万年筆が刺さっていた。
……刺さっていた?
おかしい、万年筆は壁に刺さるようなものだっただろうか…。
いやいや、そんな筈ないわ…。
「で、本当は?」
「…………1か月前……くらい」
「…………」
エル様は沈黙し項垂れて、そして盛大にため息をついた。
これは、ジーク様が悪い。
いやいや、本当にごめん!忘れてたの!まじで!とかなんとか弁解するジーク様を綺麗に無視してエル様はこちらに視線を向ける。
先程の信じられない光景がちらつき不躾にも肩がはねた。
「ステラ、何か知っているか?」
「いいえ、何も聞いていません。週に一度手紙のやり取りはしているのですがそんなことは何一つ…」
お父様にはわたしがハーディストに行ったことを正直に伝えた。
エル様に怪我をおわせてしまったことも、落ち着くまで通って世話をしたいという旨も。
どうやら、既に知っていたようだったけれど。
きっとクロードが伝えたのだと思う。
案の定、数ページにも及ぶお叱りの手紙を読む羽目になったが、わたしはわがままを貫き通した。
これはわたしにとってはとても覚悟の必要なことで、またしても背中を押してくれたのはバンスだった。
彼の事情は未だに知らないけれど、ハーディストに行く時には必ず着いてきてくれる彼に、エル様もジーク様も敬意を払って接しているところを見ると王族に関わる方と見て間違いないだろう。
バンスのおかげでわたしはエル様が完全に回復するまでの数ヶ月ハーディストに通い、そしてその後、イゾルテとハーディスト間の往来が活発になった。
特にイゾルテで定着しようとしている刺繍業はハーディスト伝統の革小物と共に融合しながら成長している段階でネイトフィールの片田舎のこの地の特産になるべく目下奮闘中。
そのため両領地間の仕事も当然増えるわけで………。
イゾルテとハーディストは共に厳しい冬を乗り切り互いに歩み寄って行った。
それは、わたし達も、使用人も、領民たちも、である。
図らずもわたしとエル様は一緒に窓の外をみていた。
晴天、まだまだ空気は冷たいが雪はもう大分落ち着いた。
王都ではもうすっかり春だろう。
先程ジーク様は、ルーファス公爵から手紙が来ている、と確かに言った。
つまりそれはお父様がハーディストに来るということだろうか。
お父様にとって呪われた地でしかないここに、まさか、本当に?
領地であるイゾルテにさえ近寄れないというのにそんなことがありえるのだろうか。
「とにかく、いつ公爵が来られるか分からないが、事態は急を要する。
ジークさっさと準備をするぞ。
ステラは…もしかしたらクロードあたりは何か知っているかもしれない。
問い詰めてみた方がいいかもしれないな。
あの方がこの地を訪れるなんてよっぽどだ」
「ええ、そうですわね。
では私達はこれで失礼致しますね。
必要な資料もいただきましたし」
顔を青くして部屋を飛び出して行ったジーク様を見送った後、わたしはそう言ってこの邸の主に礼をした。
エル様は立ち上がり、先程とは一転し柔らかく微笑んでわたしの手を取った。
「くれぐれも、気をつけて」
「は、はい。毎回毎回そうご心配なさらなくとも平気ですわ。
バンスも一緒ですし…」
やけに熱の篭った真剣な眼差しから微妙に視線を逸らす。
エル様はあの日以来なんだか変わられた。
変わられたのではなく、もともとそうで、そのことにやっとわたしが気づいただけかもしれないのだけれど…。
とにかく、真っ直ぐで素直に何もかも言葉で、態度で表すようになった。
わたしが気づいただけにしろ、それは相当な変化だったのだ。
あの日……エル様が目覚められた日、わたしはエル様と色々なことを話した。
今までのこと、お互いが何を思っていたか、わたしが知らなかった様々なこと……。
その中でわたしがエル様に求めたのは保護対象としてわたしを扱うのでなく、対等にいさせて欲しいという事だ。
訳もわからず自己犠牲を押し付けられたくはない。
そして、エル様が求めたことはただひとつ。
彼は押し殺したような声で「消えないでくれ」と言った。
それから付け足すように「側に居なくてもいいから」と。
思えば王族であるエル様はその立場からたくさんのことを諦めて、たくさんのことを切り捨てる必要すらあって、そしてたくさんのものが目の前から消えていったのだろう。
わたしに執着するきっかけは分からないけれど、そういう押し殺してきた気持ちが圧縮されてわたしに向いたのかもしれない。
あるいは、身近に命を狙われていたわたしへの責任感か、それとも1番近くにあった分かりやすい保護対象だったのか。
わたしは上手く言葉を返すことが出来ずに、ひとつぎこちなく頷くのみだった。
それでもエル様は至極安心したようにはにかんだけれど。
そうしてお互いに、初めてと言ってもいいほどに向き合って話すうち、気がついた。
わたし達に足りなかったのは、ひたすら互いを知ろうとする感情と、それ以上に知ってもらおうと努力することだった。
無駄なすれ違いと大変な遠回りを重ねてようやくわたしとエル様は同じ場所にたつことが出来たのかもしれない。
「何かあればすぐに俺に言ってくれ」
大袈裟な程に真剣な顔にこっそり、辟易としつつも当たり障りなく返事をして逃げるように執務室を飛び出す。
「……バンス、帰りましょう」
「おお、早かったんですね」
壁にもたれていた使用人らしからぬ彼はそう言ってわたしにコートの袖を通す。
小さく「長くなりそうだったから逃げてきたの」というと彼は勢いよく吹き出した。
「さすが、ウチのお嬢様はあれの扱いを心得ておられますね」
笑いながらそういうバンスにわたしは顔を顰めてため息をついた。
ハーディストに通いだしてすぐに気がついたことだが、エル様の心配性はリヒテンすらも凌駕している。
つまりは尋常にない程過保護なのだ。
けが人の癖に送ると言ってきかないエル様を、バンスが半ば無理やり武力に訴えてベッドに鎮めたこと何回だっただろうか……。
数ヶ月前、フィルメリア様がお亡くなりになられたことをお父様からの手紙で知った後もそれは続き、わたしはついに「いい加減にしてください。この時間がもったいないです」と言ってしまった。
腹を抱えて笑うバンスとジーク様を尻目に青くなるわたしとぽかんとするエル様。
その隙に逃げるように帰ったのだが、それ以降分かってくれたのか、彼は大人しくなった。
何か言いたげな視線を向けてはくるけれど。
ああ、この方にはこのくらいはっきりお伝えしないと伝わらないのね、とそこでようやく学んだ。




