2
「え、エル……?おまえ」
開かれた榛色の瞳が潤み、揺れる。
わなわなと震えるジーク様の唇はどうにかそう、言葉を形づくった。
今にも涙が零れ落ちそうな彼の姿に胸がぎゅっとなる。
どれだけ不安だったのだろうか。
友であり、主人である者の死の淵をさまよう姿と共にあった、彼が一体どれほど……。
わたしなんかに縋るほどに追い詰められた彼のその痛みはどれほどのものだったのか…。
当のエル様はわたしを離さないまま、気だるげに視線を投げて、ゆったりと首をあげた。
先程から少しだけ伸びた髭が頬に刺さって痛いし、再発したように顔が火照って仕方がない。
恥ずかしい!恥ずかしすぎる!
というか同衾などもう、本当に、お嫁にいけなくなってしまう!
いつになったら離してくれるのか…絶えず脱出を試みるも未だ力は弱まらない。
いつの間にやってきたのか、バンスは、ジーク様の後ろで半笑いを浮かべながら眉を下げている。
「……ジーク?お前までいるなんておかしな夢だ。
………それに、……まさか、ペテルバンシー様?」
「おい、糞ガキ、その名で呼ぶな」
バンスが即答した。
エル様はごくりと喉を鳴らして、それから「まあ、夢なんておかしなものか…」と呟いた。
「エル様!いい加減にしてくださいませ!夢ではありません!」
僅かにできた隙間でここぞとばかりに肩を押しやる。
「………ははは、夢でなくて君がここにいるわけがないだろう」
「だから、夢ではないのですっ!」
「……ははは、は………は?………?」
エル様は目を見開いて一瞬力を抜いた。
その隙にするりと抜け出して肩で息をしながら床に転げ落ちた。
「大丈夫かっ」
「大丈夫じゃないです!もうわたくし結婚出来なくなります!」
わたしに手を伸ばして、拍子に起き上がったエル様はそう言って思い出したように苦痛に顔を歪めた。
まさか、傷のことわかっていなかったのだろうか?この人は…。
混乱したような顔の彼は漆黒の髪をぐしゃぐしゃと混ぜてもう一度、「夢ではないだと?」と呟く。
心做しか回復していた顔色が再び悪くなっている。
今の今まで、夢だと思っていたとは…。
どおりで話が噛み合わないはずだし、あんなことをしてしまうわけだ!
エル様は元王族で、紳士だ。
ああいうふうに女性に触れるなんて信じられないと思ってはいたけれど……。
尻もちをついたままワンピースが汚れることも気にせずに後退すると困惑したエル様のアメジストの瞳がわたしを離すことなく追ってくる。
なんだか居心地が悪くなってバンスの後ろに隠れた。
しかしすぐに、彼の眼光は凄まじいことになってその視線は何故だかバンスに移った。
瞳孔が開ききったそれにひぃと声が漏れそうで口を抑える。
どうしたのだろうか、やはり、傷が痛むのだろうか。
………そういえば、エル様は先程バンスを確か別の名で呼んでいたような……。
「………ペテルバンシー様」
そう、それだ、ペテルバンシー様。
どこかで、聞いたことがある気がする…。
昔、どこかで……。
エル様は光の無くなった瞳でバンスを射抜く。
バンスはため息をついて頭を抑えた。
「おい、ジーク、この飢えた狼をどうにかしろ」
「……団長、俺にどうにかできると本気でお思いですか?
貴方がアルトステラ嬢から離れればそれで済むことです」
今度はジーク様はバンスを団長、と呼んだ。
バンスは「ああ、そうか」と独りごちて2歩ほど右側にズレる。
途端にあの鋭い眼光がわたしに移り、わたしは慌ててバンスの陰に隠れた。
昨日までわたしはもうエル様から逃げないと決めていたわけであるが、なんなのかしら、あの狂気じみた視線は。
ーーーーー怖すぎる。
人一人くらい焼き殺してしまいそうな視線を浴びてバンスは肩を落とした。
「………お嬢様、わざとやってます?」
「へ!?」
突然、くるりと振り返ったバンスに驚いて声を上げると、ああ、いや、いいです…。と歯切れ悪くそう言った。
「お嬢様………だと?これが夢でないというのなら貴方はどうしてここにいるのです。
いつ、アルトステラ嬢と関わる機会があって、どうしてそばに居るのですか。
ペテルバンシー様」
「まあ、それはおいおい話すとして…。
エルレイン、お前6日間目を覚まさなかったんだぞ、あんまり興奮するな」
「というか、なぜ、貴方が?貴方は確か……」
「……聞いちゃいねぇ………はいはい、エルレイン殿下。わかりましたよ。
とりあえず、ジーク、お前お嬢様をどこかで休ませてやってくれ。
1日付きっきりでろくに食事もとらず殿下の看病してたんですからね」
「アルトステラ嬢が?」
不穏な眼差しを残したままエル様が瞳を見開いてわたしを凝視する。
余りにも真っ直ぐに突き刺さる視線にわたしは目を泳がせた。
「いえ…わたくしは」
大したことは何もしていない、たった1日、そばに居ただけで。
彼が目覚めたのはまさにタイミングが良かったと、それだけの話だと思うし。
「本当に?」
「ええ……まあ。ですが、わたくしなんかよりもジーク様の方がよっぽど」
「もしかして、手を握って話しかけてくれていただろうか」
わたしがすべてを話終わらないうちにエル様は言葉を重ねた。
やや早急な口調に目を瞬かせる。
なんというか……あの、とても答え辛いのだけれど。
手を握って夜通し話かけ続けていただなんて、本人に知られたら、それはそれで恥ずかしいし、なにより、バンスとジーク様にバレるのなんてもう恥の上塗りであるし……。
「え…えと、……あの、はい……」
バンスの陰に隠れてもごもごと歯切れ悪く答える。
顔中が火照って妙に熱い。
それを見られたくなくてわたしは顔を扉側にそっと背けた。
「ありがとう。夢の中で君がずっとそばに居てくれて、話をしてくれていた。
君が、導いてくれたのだろうな」
やめて、やめてください!恥ずかしい!
やけに甘い優しい声音が聞こえて顔がさらに暑くなる。
真冬だと言うのにぱたぱたと手で扇ぎちらりとエル様を見遣ると彼は蕩けるような甘い甘い笑顔を浮かべていた。
わたしとかち合った瞳がくすりと笑う。
……思いっきり顔を背けた。
「………あーー、もういいですか?」
「うむ、アルトステラ嬢、本当にありがとう。
ゆっくり休んでくれ。
……ジークも、ありがとう、心配をかけたな」
「………ばーか」
ジーク様はその言葉に肩をぴくりと動かした。
それから俯いたまま小さく呟く。
少しだけ、声が震えていた。
それからわたしに声をかけ扉を開ける。
「ジーク、彼女に」
「はいはい、分かってるって、王様」
間髪入れず、今度はエル様の低い硬い声が響いた。
病人とは思えないほどに迫力のある声に一瞬ぞわりとする。
その声に扉を開けた体制のままジーク様は振り返らずにそう返した。




