公爵令嬢の絶叫。
骨ばった長い腕に巻き取られて必死に藻掻くも、力は強くなるばかりだ。
彼は何日も意識がなかったのではなかったかしら?
本当に、病人?
どうしてこんなに、力が強いのーーーー?
何が起きたのか、分からなかった。
酩酊とした寝不足の頭でぼやっとして、驚きに固まっている間にあれよあれよと。
早く、抜け出してしまわなければバンスかジーク様が来てしまうーー!
「エルっ、エルレイン、さまっ!」
存外に広い胸板を傷に触れないよう遠慮がちに押し返してみるが効果はない。
それどころか彼は痛むのだろうか、小さく呻きながら寝返りをうった。
そして、ついに包み込まれるような体制へと相成った。
「っ!」
目の前に広がる若干痩けた顔は昨日の死人のような顔色からは考えられないほどに顔色が回復している。
窶れてはいるが安らかな寝顔に安堵する暇もなくわたしは焦っていた。
………いったい、なぜ、こんなことに………。
昨日、わたしはハーディスト邸に滞在した。
1度イゾルテに戻ってクロードとトレイシーを説得するのには骨が折れたが、そこは何故だか発言力のあるらしいバンスが味方をしてくれたのだ。
自分がついているから、と最終的にはクロードを頷かせた。
ただひとりマリーだけは大興奮で「お泊まり!?お泊まりですか?キャー」とはしゃいでバンスに叩かれていた。
余談だが、やはり彼女は朝食の用意で皿を2枚割ったらしい。
これもまたバンスに叱られていた。
涙目で口を尖らせる彼女をわたしは堪らず抱きしめて、わたしはトレイシーにお小言をもらうことになる。
ハーディストに仕事をいくらか持ち込み、ついでにわたしが触ってしまって支障なさそうなハーディスト領の仕事も片付ける。
キリのいいところでエル様の寝室に向かうとジーク様は何度も頭を下げて「ありがとうございます」「エルをお願いします」と繰り返した。
わたしに出来ることなんてないし、そんな言葉を貰える立場にはいないのに。
わたしにできることと言えば、バンスの言った通りそばに居て手を握りただ祈ることだけ。
エルさま、エルレインさまと何度も名を呼んで、大丈夫、早く目を醒まして、貴方は必要とされています。と声をかけ続けた。
手は握り返されることなく、一切の反応は無かったがそれでも何時間もそうし続けた。
ジーク様に頼まれたからそうしたのではない。
わたしがそうしたかったのだ。
エル様に消えて欲しくない。
今度こそあのアメジストの瞳と向き合って話をしたい。
謝罪と、感謝を伝えたい。
もう、逃げたくない、わたしが関わりたいのだ。
そうしているうち、いつの間にか寝てしまったらしい。
ブランケットは誰が掛けてくれたのだろうか。
ひどく懐かしい呼び名と声で名前を呼ばれた気がして目を開けると、宝石のようなアメジストの瞳が優しく微睡んだ。
驚きすぎて動けずにいたわたしにエル様は壊れ物でも扱うかのようにひどく優しく触れた。
慈しむように微笑んで囁くように話す彼は今までのどんな彼よりも自然に見えた。
漸く彼自身に会えた気がした。
混乱の渦中に叩き落とされたわたしとなんとなく噛み合ってないような会話を繰り返し、彼はするりと愛を囁いた。
何度も何度も、さも大切そうに。
余りにも無垢な愛に身体中が沸騰するようで、わたしは結局動けず。
そして、なにがなんだかわからないまま、いつの間にか抱き込まれているわけだ。
ーーーーーーーーーーーーーー
扉の向こうで足音と微かな物音がした。
顔に集まっていたであろう血液がさーーっと落ちていくのが如実に分かる。
「えっ、エル様っ!エルレイン!ちょっ、」
コンコンコン
焦りからもう敬称をつけることすら忘れたわたしはどう見ても淑女失格である。
遂に響いたノック音に喉奥から悲鳴が飛び出しそうで慌ててそれを飲み込んだ。
思い切り押しのけてしまいたいが、何しろ数日意識がなかった怪我人である彼にそんなことはどうしても出来ない。
傷だって腹部とは聞いたれどどこにあるのか分かったものでないし、うっかり触れてしまうのが恐ろしくてしょうがないわけで。
しかし、こんな状況を見られるわけにも行かない。
とにかく肩を肘で押しのけてみるが、何故だか力は更に強くなった気さえする。
ど、どうして!
「アルトステラお嬢様、おはようございます。
入りますね」
「ちょっ、ちょ、ちょっと待って!い、今はダメよ!」
バンスの声がした。
入ってもいいですか?ではなく入りますね、というのは実に彼らしいし今まで、そういう彼にどうこう思ったことは無いが、今に関してだけは苦言を呈したい気分だ。
「はァ?どうしたんです?寝ぼけてるんですか?朝食の準備が出来…」
「……………」
「…………………」
彼は面白いほどにわたしの静止を聞かなかった。
彼がわたしの言うことを聞いて大人しく外で待っているような性分だとも思ってはいなかったけれど、できれば、この時だけはそうであって欲しかった。
エル様にかたく抱き込まれたまま首をどうにか回してバンスをなんとか視界に入れる。
彼は真顔でこちらを見ていた。
普段の力強い琥珀色の瞳はガラス玉のように光をなくして、じっとわたしを見つめている。
時が止まったかのような重い空気の中で、嫌な汗が背中を伝う。
「……………」
「………………」
「…………えっと、ちょ、朝食のことだったかしら…?」
「お邪魔しました」
「待って!違うの!」
この空気に耐えられなくなったわたしは結果、なんでもない様相を装う事にした。
そしてそれは敢無く、失敗した。
わたしの言葉を遮るようにバンスはとても綺麗に踵を返して去っていった。
扉が音なくゆっくりと閉じる。
「…………………」
ど、どどどどどうしよう!
どう見たってあれは誤解している!
彼はまだエル様が目覚めたことを知らないだろう。
だとすれば、彼の目にわたしはどう映っているのだろうか。
答えは実に簡単だ。
意識の無い、エル様の、寝込みを襲う……痴女。
「違うのぉぉー!」
伸ばせる限り手を伸ばして嘆いたところでどたばたと騒がしい足音が響いてわたしはもう半泣きになった。
バタンっと勢いをつけて扉が開く。
「アルトステラ嬢!どうしたっ…………」
「じ、ジーク様………これは…」
ジーク様の目が見開かれる。
それからすぐに、先程のバンスのような遠い目になり彼もまたくるりと踵を返した。
「邪魔したな……」
短くそう言って扉に手をかけた。
「いやああああ」
わたしはついに公爵令嬢として恥も外聞もプライドもまるっと捨て去り悲鳴をあげた。
ジーク様がギョッとしたように振り返る。
「ステラっ!?」
そして、耳元で低い耳障りの良い声がした。
この状況の現況である彼は焦ったような声を上げて、それから腕の中にいるわたしを見つけると安心したように優しく抱きしめて頬を寄せてくる。
もう、この人は……。
元気になられたら、どうしてさしあげようかしら……。
わたしのどこか冷静な部分がそう言って苦笑した。
わたしは驚きに目を見開き、そして同じく目をこれでもかと見開いたジーク様と視線がかち合う。
ジーク様の口元が音もなく動いた。




