元王子の宝物。
暗闇の中に俺は佇んでいた。
足元さえ見えないような闇に包まれて、ただそこにいた。
永遠に続く闇はなぜだか恐ろしくはなく、むしろ安寧さえ感じる凪のように穏やかな、それで。
「……俺は、なにを?」
自分が何をしていたのかはっきりと思い出せない。
いったいどうして、こんな所にいるんだろう。
ここはどこで、なにをしていたのだったろうか。
ーーーーーーーーる………ま
もやに包まれた思考の中で考えることすら億劫に思う。
不思議とそれでもいいような気すらしてくる。
一層のことそうした方がいいのでは、とさえ。
このまま、ここに俺はいるべきなのではないだろうか。
「まあ、いいか…」
もう、考えたくない。なにも。
……なにをそんなに考えていたのだっただろうか?
なにかをずっと、思って、なにかをずっとずっと考え続けていた気がする。
ずっとそうしてきた気がする。
それすらもう思い出せはしない。
自分の存在しかない虚無な常闇では、することも、しないといけないことも、考えることもない。
だから、目を閉じようとした。
ーーーーエ………さま
………何故だろう、目を閉じてはいけない気がする。
俺の何かが必死にそれを阻止しようとしてはばからない。
けれど、それがなぜだか分からないのだ。
思考能力はほぼ無いに等しい。
このまま眠ってしまいたい。
ーーーーーエルレインさま
闇の中から、微かに子供の声が聞こえた気がした。
朗らかで実に子供らしい、愛らしい声。
酷く懐かしい。
ーーーーエル
声が少しずつ大きくなる。
エル、エルレイン、と躊躇いがちに舌っ足らずに声が響く。
エルレインとはいったいなんだっただろうか。
とても身近で、懐かしい響きではあるが、いったいなんだっただろう。
ーーエルレインさま
………そうだ、エルレインは俺だ。
俺はエルレインで、この声は……
「……ステラ」
名前を呼んだ瞬間、銀髪の少女がふわりと現れた。
空色の大きな瞳。
レモンイエローのドレスに映える白い肌。
少女はぎこちないカーテシーで、ひどく子供っぽく無邪気に微笑んだ。
立派なレディとは言い難い所作ではあるがそれがとても愛らしくて、そうだ、俺はつい、うっかり笑ってしまったのだ。
女性……と呼べる年齢ではないが誰かの挨拶で笑うなど失礼にも程がある。
けれど笑ってしまった。
そんな俺に気づいた彼女はただやはり無邪気に笑って返した。
「エルレインさま、はじめまして、アルトステラ・リンジー・ルーファスと申します。
どうぞ、ステラとおよびください」
はにかみながらそういった彼女に誤魔化すように貼り付けたような笑みを浮かべた。
「……ステラ」
「はい、エルレインさま」
その日、俺は確かどこかのタイミングで1度だけ彼女をステラと呼んだ。
眩しい笑顔を振りまきながら彼女が振り返った。
呼んだのにはとくに意味はなかったはず。
ただ口元でその名を転がすように何となく独りごちただけなのに、彼女の耳にはとどいてしまったらしい。
なんとも言えないむず痒い感情と焦りに素っ気なく「何でもない」と返したのだったか。
そして、彼女はその日城の中庭にある階段から突き落とされたのだ。
彼女は幸いにして膝と肘を擦りむいただけだった。ぶつかってしまったのだとメイドは言った。
けれど、俺は見ていた。
あれは突き飛ばされたのだ。
彼女は何も言わなかった。泣くこともせず、何も言わず、ただ微笑んでいた。
遠くでフィルメリア様が口元を歪めいていて俺は悟る。
ああ、これは俺のせいか、と。
無感情にただそうおもった。
メイドはやがて姿消した。
そして、彼女に……彼女だけではない、誰にも。
自分から近付くことも、親しくすることも、特別な感情を抱くことも、やめた。
彼女をステラと呼ぶことも。二度と。
彼女もいつしかあまり俺の名を呼ばなくなる。
それから、無邪気に笑うことも、子供らしくいることも辞めてしまった。
こうして気軽に話しかけてきはしない。
「エルレインさま?」
「ねえ、エルレインさま」
だからこのアルトステラ嬢は幻だ。
あの日の姿の彼女であろうとも、彼女はもう俺の名を呼ばない。
こうして笑いかけはしない。
これは夢で、この子はただ俺の作り出した幻想だ。
「なんだ、………ステラ」
ならば、良いだろうか。
もう、彼女の名を呼んでも。
幻想であればこの彼女は誰にも命を脅かされはしないだろう。
己で幻想まで作り出してしまった事実にいいかげん呆れて笑えてくる。
結局のところ感情を抑え込むことは出来ていなかったらしい。
女の勘というものは鋭いといつかフローレンス・メイトローブが言っていたが、フィルメリア様には筒抜けだったのだろうか。
苦笑を浮かべながら見上げてくる空色を見つめ返すと彼女は眉を下げて首を傾げた。
「ねえ、エルレインさま?」
「どうして、泣いてるの?」
「………泣いてる?」
「うん、泣いてるよ。気がついていないの?
おめめが、落ちてきちゃうよ?」
慌てて目元を拭う。
確かにそこは濡れていて俺はごしごしと目を擦った。
「どこか痛いの?」
「いや、どこも痛くないよ」
「じゃあ、なにか悲しいことがあったの?」
「…………」
覗き込んでくるまんまるの瞳はなぜだか潤んでいて、彼女の瞳こそ零れてしまいそうだ。
「あのね、大丈夫だよ」
「??」
「エルレインさま、大丈夫だよ」
「わたしはもう、わかってるよ!」
小さな両手が頬にそっと触れた。
手の感覚はなく柔らかい温度がゆっくりと頬から右手にうつる。
暖かなものにつつまれて、心做しか闇が少し暖かくなった。
「……ステラ?」
「だからもう起きなきゃだめだよ」
「……起きる?」
「うん、起きて、エルレインさま」
俺の夢が作り出した幻想は眩しい笑顔を向けながら緩やかに発光する。
それに比例して辺りは柔らかく光を取り戻していった。
「エルレインさま、きっと大丈夫よ。だって、あなたは…」
「ステラ?……ステラっ」
彼女が光に飲まれていく。
いやだ、やめてくれ、彼女を、連れていかないでくれ!
なんでもするっ、なんでもするから、だから、どうか、彼女を連れていかないで…。
夢相手に俺は無様に叫んで喚いていた。
いや、夢だからだろうか。
張り裂けそうな胸の痛みを思い出してしまった。
彼女へのおかしいほどの執着を。
永遠に、離れようとしていた痛みを。
そうか、俺はもう彼女に会うことは叶わないのか。
そう自分で決めてしまったのか。
「……そうか………」
だから、こんな夢を見るのか。




