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「アルトステラ嬢っ!」
けたたましい足音と激しい扉の開閉音にさえ動じないままわたしはゆっくりと振り向いた。
「アルトステラ嬢っ、ありがとう……ありがとうございます、本当にっ」
「ジーク様…」
よかった、よかったと荒い息を整えることもしないままにジーク様はわたしの肩を鷲づかんで何度もつぶやく。
未だにエル様のお姿の衝撃を緩和できない頭でなんとか意識を彼に向けた。
雪と木の葉が付着した髪に頬の擦り傷。
服はところどころに汚れが有り、なにより顔色が悪いし彼もまたやつれていた。
眠れていないのだろうか、健康的だったはずの小麦色の肌にくっきりとくまが浮かぶ。
「怪我を、しているわ」
「怪我……?そんなの、俺のことなんてどうでもいい!
あんたを呼びに行ったんだ。
エルに……俺の主に会って欲しくて。
そしたらクロードさんからハーディストに向かったと聞いて…
あんたならエルを、エルを連れ戻せるかもしれないっ」
思いつめたような表情のジークさまは意思の強そうなその瞳で徐々に迫ってくる。
それと比例して強く握りこまれる肩に僅かに顔を顰めた。
ジーク・セラフィム様は騎士時代とても無口で真面目で従順な素晴らしい騎士だった。
そしてハーディストに移ってからはどこか飄々とした明るい自由奔放な青年であったはず。
恐らく騎士を辞めたあとの彼が素なのであろうと思うけれど、それにしたって今の切羽詰まったように取り乱す彼にギャップがありすぎる。
それほどまでに芳しくない状況だということだ。
もしかして、やはり、あの日からエル様はもうずっと目を覚まさないのだろうか。
この状態で5日間ずっと。
恐怖に背中を汗が伝った。
暑くなんてないはずなのに。
息がしづらくなる。
「おい、ジーク。
気持ちは分かるが離してやれ」
エル様の傍で沈黙を貫いていたバンスが神妙な面持ちで近づいてくる。
わたしを一心に見つめていた榛色の瞳は暗い色を灯しながらゆったりと遷移する。
そして、バンスを認めた瞬間、彼の瞳が見開かれた。
「………なっ…!」
「騒ぐな。忘れているのかもしれないがな、お前の主が死にかけていて、ついでに言うとお前が肩を砕き潰そうとしていたその方は公爵令嬢だ」
半ば睨みつけるようにして厳しい口調でそう言い放ったバンスにわたしは素直に驚く。
わなわなと唇を震わせるジーク様が「そんなつもりは…」とどうにか呟いた。
顔色は更に悪化し目は見開かれたままである。
確実にどう考えたって2人は知り合いらしかった。
「なんで貴方が…」
「俺のことは今はどうでもいいだろう。
……それより、なにがあった」
言葉を紡ぐジーク様を遮るようにバンスがそう言った。
腰に手を当てて威圧的にジーク様を睨みつける。
彼のこんな顔を見るのははじめてのことだ。
ただでさえ長身でガタイが良く彫りの深い顔立ちの彼が凄むと相当に迫力がある。
ジーク様は目を逸らして顔を青くした。
「………六日前、エル…エルレイン様は陛下の命によりエヴァリス子爵邸へと向かいました。
そして、帰ってきたのが五日前、それから目を、っ覚ましません……」
「傷は」
「腹部の刺傷と、毒の影響があるらしく。しかし傷自体はもう、落ち着いているんです……なんですけどっ、なのに…っ、意識がっ…」
ぐっと奥歯を噛み締めながら吐き出される言葉にわたしは膝から崩れ落ちた。
「おいっ!」
やはりそうだ。
きっと、彼はあの時怪我をしたのだ。
怪我をして、そして、目を覚まさないのだーーーー。
笑顔で別れた。
彼は笑顔でわたしを見送った。
その時には、もう、こんな大変な怪我を……。
彼はあの時わたしをトルネオに向かって突き飛ばした。
恐らく何かから庇うために。
あの子は…アンナ嬢はわたしの名を呼んだ。
虚ろな瞳はわたしを見ていた。憎々しげな、眼差しで、満足そうに。
「……わたしのせいだわ」
ぽつりと口端から漏れた吐息のようなそれはしんとした部屋にやけに響いた。
ジーク様が息を呑んで目を伏せる。
彼はまた、わたしを守ってしまったのだ。
わたしを守ってしまってこんなことになってしまったのだ。
「………アルトステラ嬢」
バンスの声がする。
先程とはうって変わった穏やかな声。
バンスは腰をおってしゃがんだ。
視線を感じて顔を上げると、琥珀色の瞳はまっすぐにわたしを貫いていた。
「アルトステラ嬢、俺はエルレインという男を良く知っている。
断言出来ますけどね、あいつは貴方のためにこうなったわけではないですよ。
あいつは、あいつのために好きでそうして、こうなったんだ」
「……でも」
「あいつは貴方があいつのせいで気負うことを決して望みません。
もう、貴方だって分かっているでしょう、
エルレイン・ヴァルドルフ・フォン・ネイトフィールという男はただの馬鹿な糞ガキなんですよ。
愛情表現がとびきり下手で、引くくらい真っ直ぐな馬鹿。
ずっと、昔からね」
だから、もし、貴方がこいつにしてやりたいと思うなら少しだけそばにいてあげてください。
ぐにゃりと視界が歪む。
気がつくとわたしは泣いていた。
なんでだろう…なぜだか分からないけれど。
壊れたように涙が溢れだして止まらない。
エル様はどうしてこんなにも不器用なんだろう。
どうして、誤解されて自分を犠牲にしてしまって、理解されようと、しないの。
誰よりも真っ直ぐで、自分勝手で自分を大切にしない、できない。
誰よりもわたしを守ってくれて、そして愛してくれていた、馬鹿な人。
わたしは結局、最後までこの人自身を見ようとはしなかった。
向き合おうとしなかった。
やはりわたしは自分を守ることばかりで。
エル様の好きな物を知らない、好きな食べ物も、彼の苦手なものも。
得意なこと苦手なこと、なにひとつ。
あんなに、あんなに長い時間共にいたのに。
わたしはいつか、どこかのタイミングであの真っ直ぐに見つめてくれたアメジストと向き合うべきだったのだ。
拒絶するのでなく、怒るのでなく、諦めるのでなく。
涙が止まらない。
優しい笑みを浮かべるバンスを見上げてぎこちなく微笑んだ。
結局のところバンスが何者かは分からないけれど、彼の口ぶりから昔からエル様を理解してくれていた方もいたのだと安堵した。
エル様は知っているのだろうか、バンスやジーク様がどれだけ彼を思っているか、どれだけ愛されているか。
もし、知らないのなら教えて差し上げたい。
だから、エル様、あなたは彼らのためにも戻らなければならないのです。
「馬鹿な、エル様…」
そして、どうか、わたしのためにも。




